四日市市の塩浜地区の南部に位置する磯津、漁場を中心に成り立っている在所であり、生活を支える魚が、コンビナートの汚排水で油臭い魚にされてしまった。漁民にとっては死活問題であり、磯津沿岸の魚をくさいものにする発生源(四日市港の生物ゼロといっていい各工場からの排水で汚れた海水を、中部電力三重火力発電所が、発電機の冷却水として使い、それを磯津の鈴鹿川に放流する)に、放水口の付け替えを要求、再三にわたり交渉したが受け入れられず、やむなく、放流を止めようと、6月21日、廃船と土のうで排水口を防ぐ実力阻止を起こした。
白浜青松の牛起海岸は、その北側に続く、霞ケ浦、富田浜と並び、海水浴や貝とりなどでにぎわう市民の憩いの場であり、海岸に沿って、市営住宅と分譲住宅が建てられた。
大協石油(現コスモ石油)は、海燃跡地の払い下げをめぐって工作していたが獲得できず、県、市は、牛起海岸を埋め立て、大協石油を中心とした第2コンビナート造成を計画した。
※中山善郎私の履歴書深夜叢書社 1994年3月より
牛起地区の埋め立て事業は、昭和32年(1957年)、田中覚三重県知事によって計画立案され、我が社の四日市製油所と三滝川をはさんで隣接する地区20万坪を埋め立て、工業用地を造成しようというものだった。
わが社としても、精油所の原油処理能力が限界に近づき、新工場の建設が必要となって板敷きで、この計画に参画することになった。
この事業は、計画立案から5年後の37年の5月に完成した。
この事業では、当時の四日市市長の吉田九郎さん、中部電力の井上五郎さん、そして、私、中山善郎と、3人の郎が協力したということで、田中知事が埋め立て地に「三郎町」という洒落た地名を命名した。今でも残っている。光栄なことである。
☆大協石油牛起製油所 (4月 21.5万バーレルの石油精製)
☆中部電力四日市火力発電所 (6月 22万キロ×4基 重油専焼)
☆大協石油化学 (8月 エチレン4万トン ナフサセンター)
春から、これらの工場の試運転ミス、操業後のすすの被害、悪臭、騒音、振動と、被害が続発、住民は「塩浜の誤りをまた繰り返すのかと、激しい怒りと不信をあらわにした。
6月14日、高浜三区の婦人たちは、風呂屋で高浜町婦人大会を開き、洗濯物についての補償などを勝ち取っていった。
高浜と並ぶ被害地の牛起地区(1から3区)も、激しい抗議を繰り返し、「どえらい計画を密かに練った。第2コンビナートの合同開所式に(11月6日)、入り口で座り込みをやろうと、はちまきを各戸に配るなどしてその日にそなえたが、実行は中止されてしまった。
三菱化成が製造する黒い微粒子のカーボンブラックが、夏の季節風で風下の曙町一帯に飛散、窓を閉めても、畳などが汚れる。ここでも婦人が中心で、汚れた洗濯物や雑きんを持って化成に抗議。
魚面や住民の反公害の高まりの中で遅まきながら、革新勢力も公害反対運動をはじめた。
1963年7月1日
四日市公害対策協議会(略称・公対協)を結成(四者)
7月9日、自治会、婦人会、青年団やその他の団体に呼びかけ、四日市市民ホールで公害をなくする四日市市民大会を開催。【公害をなくす決議】を採択、集会後、直ちに、平田市長と交渉をもった。
決議文
四日市市の石油化学工場から出る悪臭、煤煙、騒音、有害ガス、汚水による公害は、誰の目にも明らかに深刻な事態になり、市民の生活の破壊になろうとしています。
私たちは、公害がなくなり、住みよい四日市になることを心より望み、そのため、みんな力を合わせて行動します。
1963年7月9日
公害をなくする四日市市民大会 |
四日市を煤煙の排出規制等に関する法律の指定地区にするかどうかの調査。
(1962年12月1日に施行・・第一次指定は、東京、神奈川、大阪、北九州 63年9月1日)
調査団のメンバー
黒川真武(元工業技術院長)、安東新午(東大教授)、武内次夫(名大教授)、北川徹三(横浜国大教授)、伊東(気象研応用気象部長)、鈴木武夫(公衆衛生院部長)、吉田克己(三重県立大教授)、水野宏(名大教授)、内田秀雄(東大教授)の9委員と4専門委員の13人。
26日・・・・・通産、厚生、県市の説明、調査会の運営討議
27日・・・・・現地視察
28日・・・・・現地視察、参考人意見聴取
29日・・・・・参考人意見聴取で視察、石原産業、昭和、三菱化成、四日市火力、大協石油、万古焼工場
参考人は、各工場の担当者と、塩浜地区と東橋北地区連合自治会長、総連合自治会長、四日市市公害対策委員長。
この調査団の報告を受け政府は、四日市市と見栄群楠町を、1964年5月1日から指定地区として実施することにしたが、第一次指定では、亜硫酸ガス、無水硫酸の排出基準が、0.22%であったのが、四日市市では0.18%とした。 しかし、調査団が測定した祭は、0.17%、ある工場の参考人は、 「当社の最高は、0.16%で、この場所に呼ばれる理由はない」と胸をはった。 煤煙規制法は、まったくのザル法で、何のことはない、もっとガスを出してもよいという保証を工場に与えたことになた。 |
磯津の漁師の話「本で、われわれから言わしたら、今の基準は、会社が成り立っていく基準であって、われわれ住民とか、漁民がですね、生きていけるような基準やないと思うんです。」 |
石原産業退職者で塩浜在住の古川善郎さん(60)が肺気腫で死去。遺言により解剖、結果を学会で発表。(1964年4月)
三重県立大学医学部産業医学研究所「産研業績集」NO.1参照 1967年6月
【スモッグ時に不幸な転帰をとった気管支喘息兼慢性気管支炎の一例】
某化学工場事務員として約30年間勤務後55歳で退職、以後塩浜地区でプロパンガスの販売の外交をしていた。
約15年前咳、喀痰を来たし工場の医師より気管支喘息で中といわれたが、たいしたことなく定年まで勤めた。定年後は、経過は非常によく、ほとんど治癒していたが、前記のごとく塩浜地区(高汚染地区)に居住していた。その後、昭和37年のはじめころより喘息様発作を起こし、また、歩行時呼吸困難を訴えるようになった。昭和38年8月14日呼吸困難が強くなったので入院した。
入院後は治療により再び軽快し、退院を楽しみにしていたが、39年3月30日より四日市全域に気象条件が非常に悪化し、いわゆるスモッグ状態になったときに相当して患者の症状が急激に増悪化し、特に、喀痰が非常に増えて排出困難になり、同時に強度の呼吸困難を訴えたので、喀痰の吸引、化学治療、酸素テントの使用などの収集の治療を行なったが及ばず、約2日間の経過で4月2日午前2時になくなった。
塩浜地区の第一コンビナートが本格的な操業に入った後の1960年から61年ころ、まず、磯津で喘息もちでない家系の中の人たちが、同時刻ころ、磯津の中山医院へ発作を起こして駆け込む人たちが出始め、塩浜一帯にも広がり、第2根びなーとがそうぎょうをはじめた1963年以降、海岸部から山の手のほうへと患者発生が広がり、放置できなくなった。
1964年8月29日、四日市医師会公害対策委員会は、臨時総会を開き、「今後臨床により、明らかに公害によると診られる患者を発見した場合は、そのむねカルテに記載、国や県、市に通告することを決めた。これは、医師会が、気管支景観者が急激に増えてきたのは大気汚染の影響だと、各方面に発言してきていたことに対し、県・市は、個人差がある、研究データが十分でない、長期間監察しなければ結論がないなどを理由に、提言を黙殺していたことに対しての、医師会の反撃とも言える宣言であった。
また、医師会は、平田四日市市長に対し「質問状」を提出した。
こうした医師会の動きや、塩浜地区連合自治会の調査・治療費負担、この都市1月の住民検診で8人が入院不可欠といったことなどカラ四日市市は、県や厚生省に働きかけたが断られ、平田市長は、64年秋、市単独による医療費救済制度を施行することを決意、「公害は現実の問題。医学的な証明がないからといって、苦しんでいる市民を見捨てることはできない。国や県の決定を待っていてはいつのことやら・・・・」と、平田市長は、市費負担制度を決断。 |
☆委員
四日市医師会会長 二宮辰男、県立大付属塩浜病院長 藤野敏行、四日市医師会公害対策委員会委員長松尾光一、市立四日市病院長久野磬、県立大医学部教授吉田克己、県立大医学部付属産研助教授大島秀彦 ☆認定要綱「四日市の汚染地区に3年以上居住(3歳未満はこの限りではない)、医学検査の結果の資料を審査会が審査した結果、大気汚染に関係があると判断される閉塞性呼吸器疾患としてのは異機種、ぜんそく性気管支炎、気管支喘息、または慢性気管支炎症状およびそれらの続発病状があると認められるもの」を認定患者とし、医療費の自己負担分を市で見る。 |
医師会の中心となって活躍した小柳医師は、「医師会のヒューマニズムは当たり前。偉かったのは市長のヒューマニズムです。しかし、制度発足の真の力は民衆の声。議会では、訓覇議員らが制度発足を助けてくれました。私は、認定制度発足の運動を住民一揆と呼んでいるんです。」と総括している。 こうした認定制度を国が、1970年2月から発足させた。市の英断が厚生省を見返したことを歴史が証明したことになった。 |
※四日市市の認定状況
期間\区分 | 申請 | 認定 | 死亡 | 取り消し | 制度終了時 被認定患者数 |
昭和40年5月〜 昭和45年1月 |
786 | 732 | 31 | 237 | 464 |
第一回審査、認定患者の内訳
18人を認定。うち12人は磯津地区ですでに塩浜病院へ入院していた。あと6人は市公害対策課で申請を受け付けた人。うち子供は2人。
肺気腫10人、気管支喘息5人、慢性気管支炎3人、入院治療が必要なのは14人。