四日市公害 Q&A その2

1.裁判をしようとしていた人たちはどんな仕事をしていましたか?

2.最後まで裁判をしたのは、何人ぐらいですか?

3.裁判に協力した人は何人ぐらいですか?

4.当時に四日市の人口は、何人ですか?

5.青空バッチを買ってくれた人はどれぐらいいましたか?

6.ぜんそくのほかに「公害」で困ったことはありますか?

7.動物や植物は、四日市ぜんそくが広がっていたとき、どんな様子でしたか?

8.裁判に取り組んでいるとき、うれしかったことはありましたか?

9.裁判に取り組んでいるとき、いやだったことはありますか?

10.公害について、支援者の人たちと勉強などしましたか?
 

11.今もぜんそくに苦しんでいる人はいますか?また、患者さんは何人ぐらいいますか?

12.四日市ぜんそくは、公害がなくなったらなおるのですか?

13.四日市ぜんそくの薬などはあるのですか?酸素吸入器がないとどうなりますか?

14.今と当時を比べて、空気はどれくらい違いますか?きれいになりましたか?

15.いまも煙突から出ているけむりは、だいじょうぶなのですか?

16.コンビナートのタンクの中にはなにが入っていますか?

17.今も四日市では環境保全は続いていますか?市役所としては何かしていますか?

18.いまは、ぜんそくにかかる心配はありませんか?

19.工場の人もぜんそくにかかったのですか? 

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1.裁判をしようとしていた人たちはどんな仕事をしていましたか? >>目次へ>>

漁師3人、船大工1人、八百屋1人、家事手伝い4人
当時〔1967年〕塩浜病院の空気せいじょう室には、公害認定患者が24人いました。多くの人が裁判の原告になると言っていましたが、結局、代表として9人を選びました。


2.最後まで裁判をしたのは、何人ぐらいですか?>>目次へ>>

 

裁判の途中で元漁師一人と、一番若い女のひとがなくなりましたが、家族が原告を引き継ぎ、子供や夫が助け合い、原告の数は12人〔公害病患者は7人〕となりました。


3.裁判に協力した人は何人ぐらいですか?>>目次へ>>


裁判が始まったころ、「公害訴訟を支持する会」というのが作られ、年会費1人一口100円でした。4000人ほどの人がこれに協力しました。その大部分は、全国の市町村や県などの人たちと、全国の小、中、高校の先生たちでした。
 


4.当時に四日市の人口は、何人ですか?>>目次へ>>


1971年現在、233144人  世帯数 60246
 


5.青空バッチを買ってくれた人はどれぐらいいましたか?>>目次へ>>


2000人以上はいたと思いますが、はっきりした数はわかりません。判決後、(1972年7月)半年くらいまでは売っていました。1個100円でした。


6.ぜんそくのほかに「公害」で困ったことはありますか?>>目次へ>>


悪臭(あくしゅう)〔たまねぎのくさったようないやなにおい〕で頭がいたくなったり、気分が悪くなったりしました。いまでも、以前よりはへりましたが、悪臭はあります。
工場のすすでせんたくものが汚れたり、布団が干せなかったりしました。付近住民は、「家にビニールのとたんなどのおおいをつけてくれ、すすを出さないでくれ」と、火力にお願いに行きました。しかし、その返事は、「すすを完全になくすことはむつかしい。梅雨期には発電量を半分ないし3分の1にするので、その分だけはすすの被害も少なくなる。せんたく物を干せない家は火力の中に乾燥室を作って、そこで乾燥する」(1964年4月)ということでした。結局、住民は自分たちで、のきさきにおおいを作りました。
 


7.動物や植物は、四日市ぜんそくが広がっていたとき、どんな様子でしたか?>>目次へ>>

動植物にとっても大気汚染は悪いえいきょうをあたえていました。動物をかいぼうしてみたら、はいがやられていました。コンビナートが風上の季節風のときは、ほうれん草は育たないとか、稲がよく育たないとか、ナスの花がさいていても実がならなかったといったときがありました。
このことは、三重大学の農学部、医学部の研究でわかりました。
 


8.裁判に取り組んでいるとき、うれしかったことはありましたか?>>目次へ>>


 

支援者としてですが、裁判を聞きにくる人がたくさんきたときとかがうれしかったですが、うれしいと思う以上に、いろいろたいへんなことの連続でした。


9.裁判に取り組んでいるとき、いやだったことはありますか?>>目次へ>>

裁判を聞く人〔応援者〕が少なかったり、会社側の証人がうそだとか、いいかげんなことばかりを証言したときがいやだった。
 


10.公害について、支援者の人たちと勉強などしましたか?>>目次へ>>

二次訴訟をやって、青空をとりもどそうと、磯津の子供、母親たちが中心になって、名古屋大学の学生や小学校、高等学校の先生などと「反公害磯津寺子屋」とか、「公害市民学校」などで勉強しました。
第2コンビナート近くの橋北地区の患者の会も、学生や先生たちと勉強会を持ち、コンビナートの工場側と青空要求をかかげて話し合いをしました。
 


11.今もぜんそくに苦しんでいる人はいますか?また、患者さんは何人ぐらいいますか?>>目次へ>>

昔ほどではないですが、苦しんでいる人はいます。公害ぜんそくのほっさは、四日市を離れると、発作をしなくなったり、へったりするということです。
ひどい発作を起こしていた人が、家族旅行で2泊3日、四日市を離れたらぜんぜん発作が起きず、持っていった吸入もせずにすみ、帰ってから1週間は発作が起きなかった、という人がいます。

どんよりしたお天気の日は、よくないようです。
認定患者は現在〔1998年7月〕612人おります。
ぜんそくが治るということでは、中学生にもなると体力がつくこともあり、発作が止まります。本当になおったのかどうかわかりません。
公害認定制度は、ちょうど10年前(1988年3月)になくなりました。なくなったその日から公害患者は出なくなるということではありませんので、その後も同じ症状の人も出ていますが、認定がないので、何人ということはわかりません。
 


12.四日市ぜんそくは、公害がなくなったらなおるのですか?>>目次へ>>

ほっさの回数がへったりして楽になりますが、肺のさいぼうがこわれた患者さんは、なおることにはなりません。一度こわされた自然はもとにもどらないと同じだと思います。
 


13.四日市ぜんそくの薬などはあるのですか?酸素吸入器がないとどうなりますか?>>目次へ>>

四日市ぜんそくということでなく、ぜんそくの薬はあり、次々と新しい薬が作られています。のんだほうがいい薬、のまないほうがいいけどほっさによくきく薬(心臓に負担がかかる)とか、ほっさで苦しいので、吸入をやりすぎ、そのために死ぬ人もいます。
とくに、肺きしゅの人など、呼吸が苦しいとき、酸素吸入がないと命を縮めることもあるようです。
 


14.今と当時を比べて、空気はどれくらい違いますか?きれいになりましたか?>>目次へ>>

公害裁判で患者側が勝ったので、県や国は、けむりを出す規準をきびしくして工場に守らせるようにしました。二酸化イオウは、もう心配のないところまでよくなりましたが、二酸化窒素(にさんかちっそ)は裁判のころと変わっていません。また、地球温暖化の二酸化炭素(にさんかたんそ)はたくさん出ています。
 


15.いまも煙突から出ているけむりは、だいじょうぶなのですか?>>目次へ>>

煙突から出ているのが見えるのは水蒸気ですが、「にさんかいおう、にさんかちっそ、にさんかたんそ、ふんじん」、といったものは目に見えないだけで、出されていることにかわりはありません。
 


16.コンビナートのタンクの中にはなにが入っていますか?>>目次へ>>

まず、四日市港の沖合い数キロのところにある原油荷揚げのシーバースから、巨大タンカーが陸地の原油基地のタンクへ原油を送ります。
製油所は、その原油を分解するプラントにいれ、360度の蒸気で、ガソリン、ナフサ、灯油、軽油、重油などに分解し、それぞれのタンクにおさめます。球形のタンクには、プロパンガスなどの気体をつめています。
 


17.今も四日市では環境保全は続いていますか?市役所としては何かしていますか?>>目次へ>>

10年前、公害病認定制度がなくなったとたん、公害対策課をなくして環境保全課としました。「公害対策は永遠の課題だ」と言っていますが、認定制度がなくなったあと、ぜんそくの発生などの調査もしていないそうです。
1996年、四日市市制100周年の前の年、市立博物館で、「公害展」を1ヶ月間ほど開きました。サブタイトルには、「公害の町から、環境の町へ」とうたわれていました。公害はもうさようならです、これからは環境の時代なのですと言わんばかりです。
 


18.いまは、ぜんそくにかかる心配はありませんか?>>目次へ>>

現在、ガスがゼロになったとしても、とくにお年よりは、これまで長い間、ガスにさらされていたことでもあり、ぜんそくにかかる心配があります。公害認定患者のところへ、同じような症状の人が相談にきていますが、認定制度がなくなってしまったので、医者代も自分で払わなくてはいけないし、手当金ももらえないというのは、おかしなことだと思います。
 


19.工場の人もぜんそくにかかったのですか?>>目次へ>>

かかった人はいます。会社をやめたあと、かかるかどうか心配されています。