四日市公害 Q&A その1

公害を記録する会によせられたもの

1.しょうわ石油が海軍燃料しょうを買い受けたとき、四日市の人たちは反対しましたか?

2.四日市にたくさんの工場が立ち、コンビナートができたとき、四日市の人たちは反対したのですか?

3.「高度経済成長」を行っていた当時の総理大臣のことをどう思っていましたか?

4.コンビナートが広がってどんなことが起こりましたか?

5.四日市ぜんそくが広がっていたとき、四日市の空はどんな様子でしたか?

6.四日市ぜんそくが広がったとき、四日市の海はどんな様子でしたか?

7.四日市の空にコンビナートの煙が広がったとき、どう思いましたか?

8.煙突の高さはどれぐらいでしたか?

9.四日市ぜんそくが広がっていたとき、工場はそのことに気づいていましたか?
10.ぜんそくが広がっていたとき、毎日どんな気持ちでしたか?

11.工場や周りの人たちからいろいろ言われて、どんな気持ちでしたか?

12.ぜんそくが出たとき、病院ではどんなことをしましたか?

13.当時のかん者さんはどれくらいいましたか?

14.ぜんそくのとき、外へ出てもだいじょうぶだったのですか?

15.四日市ぜんそくにかかった人は何人ぐらいいましたか?

16.四日市以外でぜんそくにかかった人は何人ぐらいいましたか?

17.四日市ぜんそくにかかって、何回ぐらい病院へ行きましたか?

18.四日市ぜんそくにかかって、つらかったことはどんなことですか?

19.四日市ぜんそくで亡くなった人は何人いますか?
Q&A その2へ



1.しょうわ石油が海軍燃料しょうを買い受けたとき、四日市の人たちは反対しましたか? >>目次へ>>


反対しませんでした。空しゅうで焼け野原になっていたあと地に、平和産業の工場が作られるといいのになと思っていました。どの会社へあと地を売るのかは、国の土地でしたから政府が決めました。

2.四日市にたくさんの工場が立ち、コンビナートができたとき、四日市の人たちは反対したのですか?>>目次へ>>


第1〔塩浜〕と第2〔橋北〕コンビナートが作られるときは、ひどい公害にいたみつけられるということは知りませんでした。だから、このときは、反対しませんでした。
ただ、第2コンビナートが作られるとき〔1963年運転開始〕には、塩浜ぜんそくなどで第1コンビナートの近くの人たちが苦しめられていることを知っていました。
それで、住宅地に近いところにはプラントは建てませんと大協石油〔現在コスモ石油〕の所長が約束をしていました。ところが、プラントを建ててしまったので、付近の住民が約束がちがうと工場へ行くと、「前の所長が約束したことで、私は知らない」と、住民の言い分は聞き入れられませんでした。

3.「高度経済成長」を行っていた当時の総理大臣のことをどう思っていましたか?>>目次へ>>


石油化学コンビナートという産業は、日本の高度経済成長にとって大きな役割を果たしました。それによって国民の生活がよくなるのであれば大変によいことだと思いました。また、それを言い、その政策を進めた総理大臣はりっぱだと思いました。
四日市でも、そうした国の言うことにしたがって、市長が「工場がくれば市は発展するから住民は協力しなさい」と言いました。
市が発展するならよいことだと、住民は反対せずに協力しました。ところが、塩浜で、特に、漁師たちの磯津では、油くさい魚がとれ、売り物にならないとこまりはてていました。

4.コンビナートが広がってどんなことが起こりましたか?>>目次へ>>


原因不明の【塩浜ぜんそく】と呼ばれる病気が出始めました.第2コンビナートが運転をはじめた1963年以降は、発病地区が広がって【四日市ぜんそく】にかかる人(お年よりと子供が多い)が増えました。
磯津の漁師が「工場がきたので、税金がたくさん入り、市は発展したかもしれないが、市民のわしらは、ぜんそくにかかり、漁にも行かれず、入院せんならん」となげいていました。

5.四日市ぜんそくが広がっていたとき、四日市の空はどんな様子でしたか?>>目次へ>>


霧のような、少し先も見えにくいようなスモッグが立ちこめることがよくありました。
夜、鈴鹿の山々のほうから四日市をながめると、四日市の町がすっぽりとガスのかさでおおわれているのがよくわかりました。町中では見えない星も、山のほうで空をながめると、たくさんの星が見え、星ってこんなにたくさんあるものかと思ったことがあります。

6.四日市ぜんそくが広がったとき、四日市の海はどんな様子でしたか?>>目次へ>>


第1コンビナート(内陸もふくめ)工場はい水は、四日市港へ流されます。生物ゼロといわれるほどの汚い海になり、七色といえばきれいな虹を想像しますが、どろどろした色、油が浮くなど、海のにおいのしない悪臭の海でした。
中部電力三重火力発電所は、その海水を発電機を冷やすのに使ったあと、反対側の鈴鹿川へ流したので、磯津近辺の魚がくさくなる、奇形になる、いなくなるなどのようなことがありました。
磯津の漁師たちが鈴鹿川へ流さないでほしいとうったえましたが、聞き入れてもらえませんでした。

7.四日市の空にコンビナートの煙が広がったとき、どう思いましたか?>>目次へ>>



ぜんそくが出始めたころから、煙の中にふくまれている亜硫酸ガス(二酸化イオウ)が、ぜんそくを引き起こす悪いガスと知られるようになりました。
「えんとつにふたをしてやりたい」と作文に書く小学生もいました。

8.煙突の高さはどれぐらいでしたか?>>目次へ>>



1955年に石炭を燃料として運転をはじめた三重火力発電所の煙突は、57.3メートルで、その後に作られた昭和四日市石油などはこれよりもひくい煙突でした。(1963年に運転をはじめた四日市火力は、最初から120メートル)
1963年秋、国の調査団が四日市へきて、煙突をもっと高くしなさいといいました。
それで、1965年ころから各工場とも100,120,150,200メートルと高い煙突をつくり、ガスを広い地域にばらまくことによって、工場に近いところをうすくするようにしました。しかし、工場から出すガスの量をへらさなかったので、このことがかえって、ぜんそくを広めることにもなったのでした。

9.四日市ぜんそくが広がっていたとき、工場はそのことに気づいていましたか?>>目次へ>>



もちろん気づいていました。工場で働いている人やその家族がぜんそくにかかって医者に行くと、健康保険の請求が工場にきます。 1965年から四日市市は、公害病認定制度を発足させ、四つの病名〔気管支ぜんそく、ぜんそく性気管支炎、まん性気管支炎、肺気腫〕の病気にかかった人を公害病患者と認めました。そして、医者代を四日市市がはらいました。しかし、工場で働いている人やその家族は、その病気になっても、公害患者とみとめられようとはしませんでした。

10.ぜんそくが広がっていたとき、毎日どんな気持ちでしたか?>>目次へ>>



私は、第2コンビナートのほうの橋北地区〔公害汚染地区〕に住んでいました。2人の子供のうちの1人が、ぜんそくみたいな病気になり「この子は、空気のきれいなほうへ行けばなおる」と医者に言われ、山の手の団地へ引っ越し、元気になりました。ぜんそくは他人事ではなく、漁をして働いている磯津の漁師とか引っ越すことができない事情がある人たちは大変だな、気の毒だなと思いました。それとともに、そうした苦しみを与える公害をなくす運動をしなければと思いました。

11.工場や周りの人たちからいろいろ言われて、どんな気持ちでしたか?>>目次へ>>



塩浜小学校3年生の女のこのお母さんは、「ぜんそくの発作は夜中から明け方に起こり、『苦しい』『死にたいわ』と言って、いっしょうけんめい息をし、おさまるころにはぐったりとつかれてしまいました。朝、起こして、学校へ行きなってとは、よう言わんので休ませてしまうと、近所では、その苦しみがわからんので、あそこの子はずる休みするって言う。それが本当につらい。」と、1970年ころ、しきりにこぼしていました。

12.ぜんそくが出たとき、病院ではどんなことをしましたか?>>目次へ>>



磯津〔650戸ほど〕では、中山医院というご夫妻で医者をしているところがあり、昼でも、夜中でも、治療をしていました。お医者さんは大変な毎日でした。治療は、注射、吸入、点滴などの応急処置をして、発作をしずめてくれました。県立塩浜病院では、夜中に発作を起こしてかけこんでくる患者さんがわかっていました。だから、その人たちのカルテを夜間受付の守衛所に置いておき、患者さんにそのカルテをわたし、当直の医者にみてもらいました。なかには、医者へ行くことができないくらい発作に苦しむ患者さんもいました。そんなときは、本当はいけないことですが、自分で注射器と注射液を買ってきて、自分で注射をしていました。

13.当時のかん者さんはどれくらいいましたか?>>目次へ>>



1972年〔昭和47年〕は、公害裁判の判決のあった年ですが、そのころ−−−

 塩浜小学校 56人    三浜小学校 37人  四日市の全小学校 194人
 塩浜中学校 11人             四日市の全中学校  32人
 塩浜地区  249人(うち磯津102人)      橋北地区 106人 
 日永地区   78人           
 全地区   750人           指定地域外 67人   計817人

   6から8才 116人   60から64才 70人  65才以上 165人


14.ぜんそくのとき、外へ出てもだいじょうぶだったのですか?>>目次へ>>



ガスでおそわれないかぎりは、だいじょうぶとまではいきませんが、まあ、健康の人と見かけは変わりません。
塩浜病院に入院していた漁師の患者さんは、朝早く、伊勢湾の沖合いへ漁に出かけます。ガスがこないかぎり一日働いていて、夜は病院〔空気せいじょう病室〕で寝ます。外へ行くときは必ずといっていいほど、ぜんそく止めのけいたい用吸入器を持っていきます。

15.四日市ぜんそくにかかった人は何人ぐらいいましたか?>>目次へ>>



公害認定患者の年度別数でいくと、1975年(昭和50年)1140人でピークとなっています。この数は、新規患者数、認定取り消し、死亡者数などの現在数ですから、認定になった患者数はこれよりもずっと多い。また、認定を申しこまなかった患者もいるわけで、もっともっと多くの人数になります。

16.四日市以外でぜんそくにかかった人は何人ぐらいいましたか?>>目次へ>>



市外から四日市のコンビナートや汚染地区の工場、事務所などへ働きにきていた人も、3年以上の期間があれば、認定してくれます。1972年には、6人の通勤者が認定になっていました。

17.四日市ぜんそくにかかって、何回ぐらい病院へ行きましたか?>>目次へ>>



これは何回とは答えられません。患者さんの症状などによってですが、患者を何年も経験すると、自分の体の調子がわかるようになり、ほっさが出そうだと予感すると、薬を飲む、吸入をするなどで、病院へ行かなくてもすむことがあったようです。

18.四日市ぜんそくにかかって、つらかったことはどんなことですか?>>目次へ>>



四日市ぜんそくになってみないことには本当のつらさは、わからないと言います。患者の小学生が発作が起きて苦しむと、たんすやふすまをひっかいたり、しがみついたり、「かあちゃん、殺して!」「死にたいわ」と苦しみます。つらいことを通り越しています。
また、ぜんそくがうつるであの子と遊んだらいかんと、友達のお母さんがその子に言ったり、『セキゴン』とともだちにからかわれることもありました。
大人の場合でも、入院患者がベットから落ち、『助けてくれ』って一言いって死んでしまいました。
ある人が「悪いこともしてないのに、なぜ、助けてくれって死なんならん、わしもそんな目にあうのかと思うと情けなくなる」となげいていました。

19.四日市ぜんそくで亡くなった人は何人いますか?>>目次へ>>


公害病認定患者で亡くなった人は600人ほどいますが、全部の人がぜんそくでということではなく、他の原因で亡くなった人もいます。
なかには、自殺した人(4人ほど)もいます。
中学生1人、小学生3人が、ぜんそくの発作でなくなっています。