くさい魚・漁民一揆
1.1960年(昭和35年)3月、東京築地の中央卸売市場は、「伊勢湾の魚は油臭いので厳重検査する」との通告を出した。この通告は全国の魚市場にも流れた。伊勢湾の魚といっても、磯津の名が出ただけで、買いたたきやキャンセルが相次ぎ、漁民の生活は根底から揺らいだ。
2.伊勢湾の魚は、水のきれいな、豊富な木曽川の真水と海水がほどよく混ざり合って、うまい魚、高級魚とされていた。夏のスズキなんかは、相当の高級魚としてもてはやされたが、60年頃からは、くさいから一銭の金にもならない。出荷しても返ってくる。ニワトリも食わないありさまであった。
3.磯津の6月は、「シラス」の季節。(ジャコになる白い小さな魚)1963年(昭和38年)6月、このシラスがおもしろいほどとれた。若い漁師10人ほどが(この中に野田之一さんもいた)このシラスを四日市の北部にある富州原の魚市場に運んだ。桑名、津はもとより、隣の三重郡楠町の漁師のとったシラスは10貫のかご一杯で、5〜6000円の値がついたのに、磯津の魚には一銭の値もつかない。
4.怒った漁師たちは、「おいらをだますようにして工場を連れてきた市長に、この魚を食わせ。」と、富洲原の漁港近くに住んでいた平田市長の家におしかけた。午前4時。市長はポケットマネーを出し、全部買ってくれたが、くさいシラスをもらってもしょうがないと受け取らず、シラスを海に投げ捨てた。
5.こうした平田市長の温情に、若い漁師たちは、漁協の役員に、「市長がこれくらいの誠意を示しているのに、会社が何も言わないって言うのは、おかしいやないか。」と詰め寄ったが、役員はどうしようもないと動こうとしなかった。
中部電力三重火力発電所は、四日市港の汚れた水を冷却水として使用した後、磯津側の鈴鹿川に放流するについて「排水は温度が高いから魚が集まりますよ」といった説明を信じて、漁協、中電の間に265万円(一説には460万円)の漁業振興費と、「異議、求償をしない」との協定書が成立しており、漁協役員は身動きできない。
6.こうしたことから、漁協にかわって、小漁パッチ、定置網などの代表役30人で交渉委員がつくられ、市、中電への交渉が始まった。
漁師たちの要求は、
という発生源対策だったが、「10数億もかかる。技術的にも難しい。」として、中電は要求を受け入れようとしなかった。
7.交渉は、交渉委員を先頭に400人の漁民で行った。
こうした交渉の中、三重火力は、約束の日に所長が居留守を使い、所長室になだれ込んだ漁民に発見されて吊るし上げを食う醜態を演じている。
8.漁民たちは、誰が見ても漁師はよく辛抱したといわれるだけ交渉を続けようとしてやってきたが、ついに、6月21日、”実力行使も辞せず”との強い態度を固め、若い漁師は、「どうせ食えぬのならブタ箱でもどこにでも行く」といきりたち、カミさんたちは、「だれかが警察に捕まったらその家族を援助しよう」と話し合った。
県・市と会社と漁協との最終談判は決裂。
午後3時過ぎ、漁民の代表20人が、まず三重火力を訪れて実力行使を宣言。堤防の上から用意の旗を振った。
合図に答えて、海から約300人の若い漁民が漁船で排水口へ。陸路からも老人や主婦が続々と火力前や土手に勢揃いした。
警官隊も2個小隊(80人)と私服警官30人で火力を固めていた。
勢揃いしたところで、「10分間の間に解答がなければ、水門をふさぐ」とあらためて最終通告したが返事はなく、用意していった古船とカマス3000個を沈めにかかったとき、”留め男”となる塩浜連合自治会長の今村喜一郎氏が現場にかけつけ、会社側ではなく漁民に向かい土下座して「知事に会わせて解決をはかるから、今日のところはやめてくれ」と”哀願”。実力行使はとまった。
9.1日おいて田中三重県知事が現地にやってきて、魚の試食をやった。知事は「くさい」と言って吐き出した。
なお、中電の人は「おいしい、おいしい」といって食べた。知事が魚を吐き出したとき、漁民の中から万歳が起こった。これで、やっと、わかってもらえると・・・・・・・
10.1年3ヶ月後の1964年12月、配水口を変えろとの要求は実現されず、3600万円の補償でケリとなり、若い漁民が手にした金はわずかに数万円というもので、苦い敗北感が残った。