四日市公害判決から27年

慰霊祭

 
  1999年7月24日
 午前10時より
 第17回公害犠牲者慰霊祭
 四日市ぜんそく認定患者数
 現在約600人


 遺族代表の言葉の前に、公害裁判で弁護団の事務局長だった野呂弁護士の言葉がありました。

「公害をなくしていく取り組みを通して、大きな成果が2つ合ったと思います。一つは、当初、被害者の怒りが行政や立法を動かしていきました。それが、公害による苦しみや様々な経験を次世代に語っていこうという運動が出てきたことです。もう一つは、その被害者運動が、自分たちの住んでいる街の再生に向けて、被害者のみだけでなく、そこに住んでいるすべての住民を巻き込んだ運動に発展していっていることです。1999年という一千年代最後の年にこのような慰霊祭が行われた意義を確認しつつ、公害の教訓を21世紀に残し、自分たちの街づくりに生かしていってほしいと思います。」

「原点の四日市はどうかというと、遺族の方々の顔は見るが、現在の患者さんの結束が薄いように思われる。しかし、そもそもわたしなんかがここに来てこのように言葉を述べるのではなく、本来は、四日市市長がここに来て言葉を述べるべきでしょう。公害の教訓を生かし、四日市の街づくりを考えていくために。また、彼は、四日市公害裁判の弁護士の一員でもあったのだから。四日市の裁判所には、公害裁判の資料が残されています。私たち専門家は所定の手続きを行えば、これらの資料を閲覧することができます。それが、誰でも見ることができるような資料館などをつくってほしいと願っています。」


 公害裁判の判決から2ヶ月後に、ぜんそくで一人娘を亡くされた母親が、遺族を代表して言葉を述べました。

「谷田尚子が亡くなって27年、9歳の子、一人娘を亡くした母親は、いまだに忘れられません。ぜんそくのために、苦しむために、産まれてきた子がいるということを決して忘れないでほしい。二度とあのようなことにならないよう・・・。」(尚子さんの母親より)


 公害犠牲者慰霊碑前で、亡くなった公害患者の冥福と二度とあのような公害を起こさないことを誓う慰霊祭が営まれた。


 市長 追悼の辞


 27年前の四日市公害裁判の判決の日を思わせるような暑い日でした。
四日市市長は来てもらえませんでした。 27年前の熱気はどこへやら、万歳をしてくれた支援者、団体も来てくれませんでした。 でも、慰霊祭は、犠牲となったあの人、この人、子供たちを心に刻み、過ちを繰り返さない、との思いのもとで行うことができました。
 反公害、公害患者などの運動の助っ人として活動してきているお二人、東野真さんと鈴木仁さんが、導師として読経などを手助け、主役を果たしてくれました。公害患者さんの思いをよく知る2人だけに、真の慰霊になったと思います。
  四日市公害は、こうしたあまたの犠牲者(被害)の上に改善が図られていたことを忘れないようにしたいと思います。