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四日市市で行われた全国人権・同和教育研究大会にて、配布された四日市市のメッセージです。四日市公害から学んだ「環境を守ること=人権を守ること」と書かれ、市民塾の活躍についても書かれていました。


四日市に青空をとりもどすために

〜環境保全への歩み〜

 四日市と言えば公害や大気汚染、四日市ぜんそくを連想される人が多いかもしれません。しかし、四日市市は市民や企業・関係者などとともに、深刻な公害の問題を乗り越え、市民が安心して生活できる環境づくりに努めてきました。私たちは、公害問題とその解決のための取り組みから学び、環境を守ることが人権を守ることの一つであると考えています。そこで、公害をめぐる私たちの歩みを紹介します。

(戦前までの四日市)
四日市市は昔から、交易が盛んでした。「四日市」の名前は今から500年以上前に三滝川と東海道が交わる辺りに「市(いち)」が開かれたことに由来します。その後は、宿揚町として栄え、伊勢神宮にお参りする人々が行き交いました。また、「市」が立ったころにはすでに港もあり、江戸時代から明治時代にかけて物流の拠点としてにぎわいました。
明治時代になり、宿場町から港町へ、そして工業の町へと発展します。綿糸業と製油業、 窯業(万古焼)などの工場が次々と作られました。その発展を支えたのは稲葉三右衛門が自ら修築した四日市港でした。その後、四日市港は市や県の事業により拡張されました。
 昭和のはじめには、現在石油コンビナートとなっている塩浜地区で大規模な埋め立てによる工業用地の造成が徐々に進められました。大規模工揚の誘致も 1932年ころから活発になり、塩浜地区のみならず四日市地域の海岸や河川の付近に5つの羊毛工場や板ガラス工場、金属工揚などが作られました。その後、戦時体制となり、1939年には塩浜地区の工場用地に海軍燃料廠(製油工揚)の建設がはじまります。1941年に完成し日本最大の製油所となりました。さらに陸軍の工場や民間の造船所、電気機械、製油所などが建設されました。
 このように、戦前・戦中の四日市は工業の町として発展してきたのです。

(戦後の復興と石油コンビナートの建設)
 アメリカ軍は1945年6月18日から8月にかけて四日市を空襲し、工場と市街地は壊滅的な状態になりました。戦争は終わりましたが、工場が操業を再開することは容易ではありませんでした。ようやく1950年にGHQが原油の輸入と製油所操業の再開を認め、製油所が再開し、化学肥料や塩化ビニルの新しい工揚の建設もはじまりました。
 1955年に「石油化学工業育成対策」を通産省が策定し、石油化学工業育成が国の政策として進められました。四日市では、翌年の1956年塩浜地区の海軍燃料廠跡地を中心に石油コンビナート(第一コンビナート)建設がはじまりました。
 それにともない、発電所や工業用水整備、名四国道の建設が進められました。戦後の臨海部開発と工揚誘致は、官民あげて取り組まれたのです。

(急激な公害被害の拡大)
 1959年第一コンビナ一トの主要な工場が操業を開始します。ところが、間もない1960年4月には塩浜地区連合自治会が四日市市に陳情をしました。「工揚からの騒音で夜も眠れない」、「ばい煙、灰をかぶって植物が枯れる」、「洗濯物が干せない」などの事態がおこったからです。また、伊勢湾、特に四日市沖合の海でとれた魚が油臭く、東京築地卸売市揚でも注意喚起されました。
 四日市市はこれを受けてすぐに1960年8月「四日市市公害防止対策委員会」を発足させました。また、11月から二酸化硫黄と降下ばい塵の測定を開始し、1962年には塩浜地区の公害検診や四日市市住民健康調査を開始し、県と合同の「四日市地区大気汚染対策協議会」を設立して疫学調査の体制を整えました。国も1962年に「ばい煙の排出の規制に関する法律」を公布し、翌年黒川調査団による現地調査を行っています。
 しかし、大気汚染の被害は深刻で、公害を人権侵犯として提訴する市民が続出し1961年度の津法務局四日市支局が受け付けた総件数32件のうち公害が10件、騒音による生活権侵害が7件でした。同年に行われた塩浜地区連合自治会の住民アンケートでも、悪臭・騒昔・ばい煙などで第一コンビナ一トの主要な企業が原因にあげられました。
 このように、第一コンビナートが本格稼動して1年にも満たない短期間で、急激に大気汚染が発生するとは、住民のみならず自治体や企業など関係者にとっても予想外の出来事でした。
  1963年に第ニコンビナ一トが本格稼動し、公害被害がさらに広がり、ばい煙やばい塵、蒸気噴出、騒音などの問題が続発しました。地域住民による公害反対運動が高まり、労働組合を中心とした「四日市公害対策協議会」が結成され、「公害をなくする市民大会」が開催されました。1964年4月に公害患者の一人が肺気腫で亡くなります。四日市公害はコンビナート稼動から5年あまりで深刻な事態を迎えたのです。
(公害をなくすためのとりくみ)
 1965年四日市市は公害患者の治療費を負担する制度をスタートさせ、医療費の無料化を実施しました。市議会の報告書には、「医療救済制度が確立されていない現段階においては、・・(略)・・市当局において、出来得る限り、これら健康阻害者の救済を実施してゆく責務があると考える。」と記載されています。
 また、大気汚染地区の学校・幼稚園に空気清浄機設置、公害予防マスク配布が実施されました。こうした学校では健康な体づくりのためのうがいや乾布まさつ、キャンプや登山などをする「みどりの学校」が行われました。その後「公害学習」もはじめられました。
 さらに、1966年四日市市は都市改造計画を策定し、「公害の及ぶ地域」からの集団移転や中央遮断緑地計画を推進しようとしました。同年、中央緑地公園は造成が関始されましたが、集団移転については「公害の及ぶ地域」の住民に十分な納得が得られず、計画通りに実行できませんでした。
 1967年9 月塩浜(磯津)地区の公害患者9人がコンビナート企業6社を相手に損害賠償請求の訴訟を起こしました。原告は喘息に苦しみ、証言が病院で行われたり、録音テープが使われたりしました。残念ながら、2人の原告は判決を待たずに亡くなりました。それから5年後の1972年にようやく結審し判決は原告勝訴となり、大気汚染に対する企業の責任が認められました。企業6社は控訴を断念し、判決は確定しました。ようやく「四日市ぜんそく」に苦しむ公害患者に光が差し、一方で企業は重い責任を負いました。そして、公害行政にも大きな影響を与えたのです。
 この間、公害地区住民や市民による公害反対運動のさまざまな会が立ち上がりました。「公害患者を守る会」、「公害訴訟を支持する会」、「四日市公害を記録する会」、「四日市公害認定患者の会」、「公害から子どもを守る塩浜母の会」、「公害患者をはげます会」、「四日市公害と戦う市民兵の会」、「四日市公害をなくす会」などが結成され、公害問題に取り組みました。これらの会は関係企業や行政に対して、公害患者や公害地域住民の願いを訴え、問題を解決するための働きかけを行いました。
 公害被害が続くなか、1972年第三コンビナートが稼動します。四日市市は、進出企業と公害防止協定を結ぶ方式を実施し、公害被害者や市民の理解を得ることを重視しようとしました。公害を再び出さないためにも、この方式は市内の主要企業にも拡大して行われることになったのです。
 さらに、県や国による法整備も進められました。1967年「公害対策基本法」、「三重県公害防止条例」が公布、施行され、その後も環境基準の設定や「公害健康被害補償法」などの法令が作られましだ。行政は法的根拠に基づいて公害対策に取り組むことができるようになったのです。
 このような制度により、公害の認定患者は1975年ころには1000人を超えました。現在も多くの方が苦しんでおられ、医療費給付などの支援が続いています。
 企業も公害対策に取り組みました。1960年代は、技術的な問題もあって、120mから200mの高層煙突を設置することで大気汚染を拡散し緩和することが中心でした。その後、公害裁判が結審した1972年ころからは、脱硫装置や電気集塵機、排ガス再循環設備、排ガス洗浄設備、活性汚泥処理設備などが急速に設置されます。公害発生から10年あまり、大気汚染や水質汚染を防止する装置が実用化されたのです。企業の技術開発や行政による排出基準の強化などにより、四日市市の大気や水質は次第に改善し、環境基準を達成しました。

(環境技術を世界に発信)
今でも大気汚染監視システムは常時稼動しており、大気や水質、土壌等の環境基準や規制の見直しなどの環境を守る取り組みは続いています。
四日市公害から生まれた環境保全の技術を世界に広げていくことを目的に、1990年三重県と四日市市は環境技術移転研究センター(現在の財団法人国際環境技術移転研究センタ−)を設立しました。このセンタ−では発展途上の国から研修員を招き、技術指導したり、海外での研修会を実施したり、環境保全のための研究開発・調査、交流、晋及の活動を行っています。こうした環境保全の取り組みが評価され、1995年に国連環境計画より四日市市は「グローバル500賞」を受賞しました。
 また、四日市公害を風化させてはならないと「四日市再生・公害市民塾」「公害を記録する会」などの団体が現在も活動しています。四日市公害裁判の原告証言にある「発作は夜ひどく1O分から20分おきに喉を締め付けられ、死んだほうがいい」という苦しみや「38歳の原告が家事を終えて塩浜病院の病室に戻ったところ、夜中に急に喘息発作がおき、そのまま帰らぬ人となった」という無念さ。こうした公害による人権侵害の事実を語りつぎ、今も四日市公害で苦しむ人々がいることを伝えるのは大切なことです。市は、こうした環境問題の重要さを強く認識し環境学習センタ−を設立しました。また、市のホ−ムペ−ジに「かんきょう四日市」、「四日市公害資料館」を掲載し、情報発信にも努めています。私たちは、四日市公害の現実と解決へのさまざまな人々の努カを忘れてはなりません。そして、伝えていく使命があります。次の言葉をかみしめながら。
<環境を守ることは人権を守ることである>

アクセスはこちら
四日市公害資料館http://www.city yokkaichi.miejp/kankyo/nenpyo.htm
四日市市のかんきょうhttp://www.city.yokkaichi.mie.jp/kankyo/kougai_h21.pdf
四日市市環境学習センターhttp://www,eco-yokkaichi.com/
(財)国際環境技術移転研究センターhttp://www.icett.or.jp/contentsj.nsf/Main?OpenFrameset

このパンフレッとは教育委員会が環境部の協力により作成しました。

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