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大きな問題となった石原産業のフェロシルト廃棄問題。これまでの経緯の中で見えてくるのは、やはり、「四日市公害」の教訓を生かそうとしない、企業と行政の姿勢である。

石原産業のアイアンクレー・フェロシルト廃棄問題

 これまでの経過と問題点

1、1967年9月1日
 磯津の公害認定(入院)患者9名が原告となり、第一コンビナート六社を被告にしての「四日市ぜんそく公害訴訟」の訴状を津地裁四日市支部に提出した。被告六社は「石原産業四日市工場」「中部電力三重火力発電所」「昭和四日市石油四日市製油所」「三菱油化四白市事業所」「三菱化成工業四日市工場」「三菱モンサント化成四日市工場」で、原告は漁師の野田之一さんたち九名である。
 判決は、1972年7月24日、原告患者側の全面勝訴で、その日のうちに、石原産業で六社分の損害賠償金を差し押さえた。六社は控訴することなく判決に服した。

2、四日市海上保安部が、廃硫酸垂れ流しの石原産業四日市工場を摘発、検察庁へ送検した。
 石原は「硫酸は海水と中和するので害はあたえない」と言うが、一日20万トン(計1億トン)の排水は中和しない。1971年2月19日、津地検は「エ場排水規制法」「港則法」「三重県漁業調整規則」などの違反容疑で津地裁で刑事裁判が10年間続き、1980年3月17日、元工場長の二人に、懲役3ケ月、執行猶予2年、石原産業(石原健三社長)に罰金8万円の有罪判決があった。石原は控訴することなく判決に服し、刑が確定した。この裁判の課程で石原の大塚喜一郎弁護士が最高裁判事になった。
 石原は、摘発後、排水処理施設ができるまでエ場内に土手を作り、そこに排水を貯めていたが大雨でくずれ、硫酸排水が流れ出し、建物などに流れ込み、排水が引いたあと排水に漬かったところが白くなっていた。

3、当然しなくてはならない摘発を見送っていた役所の三重県が放置していたので、直接の規制官庁ではない四日市海上保安部の田尻宗昭警備救難課長が、日本アエロジル、石原産業、三菱油化、日本合成ゴム、モンサントとつぎつぎ捜査の手を広げていった。政治家の介入があってのことだろうが、突然、公害Gメンの田尻さんを(1971年7月6日)田辺海上保安部へ転勤させた。この日は、ぜんそく裁判で田尻さんが検挙した山田務名(ちかあき)エ場長が証人として法廷で患者側の反対尋問に答えることになっていて、患者側弁護土がこの日の朝ホテルで田尻さんにレクチャーしてもらった。田尻さんが乗る近鉄四日市駅ホームにはコンビナートのえらいさんたちが見送りにきて拍手で送った。発車したら、「これでホッとしました」とコンビナートの疫病神がいなくなったことに、本音が出ていた。田辺海上保安部になってからも、東京都の公書局に代わってからも、ときどき、四日市に来られることがあり、石原などが「なにしにくるのか」と開きにきた。

4、三菱モンサント四日市工場が、こっそりと鈴鹿市の八野の山林に廃棄物を詰め込んだドラム缶を埋め、気づいた付近の住民が騒いだら、三重県は「60本程度」と言っていたが、1974年4月2日、掘りださせたら、PCB、水銀、カドミウムなど有害物質の入った廃棄物ドラム缶が1243本も出てきて工場へ引き取らした。

5、1977年9月1日、三重県環境保全事業団が設立された。理事長は三重県知事(現在は県環境部長退職後の天下り?)、理事は主要都市の市長と、コンビナート工場長(現在は石原産業だけ)、事務局は県の環境検査センター。なんのことはない、産廃を捨てるエ場と監視監督する行政が一緒で、捨てられて困る、迷惑をこうむる住民などは蚊帳の外。なんとも廃棄側の癒着そのものの談合組織である。
 環境保全事業団は、こうした組織だから、“有害廃棄物はない”わけで、磯津の漁民が「楠町吉崎へ石原の産廃を捨てるようになってから、赤い水が浜に流れるようになった。分析などしてほしい。」と言ってきたので、名古屋大学の助手をしていた河田昌東さんなどに分析を依頼、吉崎の投棄場所でサンプル採取をしていたら、環境保全事集団の腕章を巻いた男子が来て「そんなことをしなくても大丈夫、悪いものは入っていない」と言うので、「じやあ、どんな物質が含まれているのか教えてください」「それは知りません」「いま安全だって言ったじやないですか」「上の人にそう言えって言われています」「じゃあ、ここで待っているから、その上の人を連れて来てください」
 長い時間待っても来ないので産廃排出者の石原産業へ行った。守衛が「環境保全事業団の腕章を巻いた人は事務所へ行って、もう帰って行きました」と言う。なんのことはないえらいさんと言うのは事集団の理事をしている石原産業であった。
 このアイアンクレイは、吉崎のほかに、霞の第三コンビの第2次3次埋め立て、霞埠頭埋め立て、川越町海岸部と、大量に廃棄されているが、どこもあらかじめ、山土が置いてあり、ダンプカーが荷台をあげて捨てるとショベルカーがならし、その上に山土をかぶせていた。その頃は放射能をもっているとは思っていなかったが、石原はそうすることで放射能を閉じこめていたわけである。
 放射能ということでは、1990年に「社会新報」が、関西の酸化チタンエ場の廃棄物から放射能が検出され問題化しているとの記事があり、石原のほうが大きいのでと、その頃、事業団が大々的に廃棄していた小山町へガイガーカウンターを持った伊藤三男さんなど市民兵と新聞記者とで計りに行った。針はふれる。三重県はあわてて石原と廃棄場所とを計りに行き、7月25日「問題はない」と発表した。市民兵たちが持っていった計器は3種計れるのに、県のは2種しかなく、それと、放射能をもつ産廃を無造作に捨てていいものかと心配になった。

6、1995年6月5日、環境保護や改善に功績のあった個人と団体に贈られる「国連環境計画」(UNEP、本部ナイロビ)のグローバル500賞が、四日市市(団体)と市長・加藤寛嗣(個人)に贈られた。前の年には個人で水俣研究の原田正純さんに贈られている。あまりの落差に驚いた。誰がこの人選をしたのか?。大気汚染が改善するようになったのは、ぜんそく裁判をおこした、勝訴したからで、原告患者の野田之−さん(個人)と、その裁判を手弁当で支え勝訴させた公害訴訟弁護団(団体)に贈られるのなら、受賞者・団体にふさわしい。

7、1995年9月市議会で「快適環境都市宣言」を議決。グローバル500賞を国連からもらったのは、世界が四日市の環境改善を認めたことだとして、いわば「公害克服宣言」ともいえる決議だが、四日市市民がどう考えているかについては問われずじまいである。

8、「公害克服」の仕上げは、四日市公害にはとんとおかまいなしの市立博物館が、四日市公害をテーマに、企画展「公害の歴史−公害の街から環境の街へ」を、1996年6月21日から7月21日まで開催した。会場に掲げられたパネルには澤井撮影の写真がふんだんに使われていた。
 この期間内に博物館大会議室で、記念講演が二つあった。一つは、吉田克巳氏の「四日市ぜんそくの終結」、もう一つは、原告野田之一さんの「四日市公害は終わっていない」であった。
 かくして、サブタイトルに掲げられたように、“公害よさようなら、環境よ今日は”で公害は打ち止め、あくる1997年8月1日“四日市市制100周年”を目出度く迎えたことになった。

9、もう四日市公害はない。市民も公害には関心をもたなくなった。大矢知の産廃不法投棄も、石原産業の産廃投棄も眼中にない。公害はないのだから、無関心でいられるわけである。
 そこへ、四日市から公害を持ち込まれて困ってしまった岐阜の女性グループから「四日市の産廃を、放射能をもった危険な産廃を、三重県がリサイクル商品・有価物として認可して運び込んでくる、四日市ではどうなっているんですか・・・」と言われ、恥ずかしい思いをした。六価クロムもでてきて、あせった。じゃあどうするか、運動しようとする主体はない。なんでこうなったか、考えてみたい。

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