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四日市公害原点の磯津で

沢井余志郎

「沢井さんやなぁ・・・あんたらのおかげで磯津もようなってきた・・・この西瓜もってって、みんなで食べとくれ」と、自宅横の家庭菜園で収穫してきた、小ぶりだけと、ずっしりと重い西瓜をもらった。
 夜7時から開催する「四日市公害判決31年・磯津現地集会」会場である磯津公会所の準備を終え、6時からの「鈴鹿川河口から磯津とコンビナートを眺める集まりに向かう途中、磯津地区公害認定患者の会の代表をつとめていた加藤光一さんの家の前を通ったときの出来事である。

 正直いって、「あんたらのおかげでようなった。」と言われ、うれしかった。
 磯津は、四日市公害発生の原点であるが、私にとっても、 公害に関わるようになった原点であり、なかでも加藤さんとの出会いがあって、いまも公害に関わりつづけているからである。

 四日市反公害は磯津でこそなされなければならないと、その気になって磯津通いをはじめたのが、ぜんそく訴訟提起の頃で、まず加藤さんに接触をはかったが、「選挙に利用するようなのとはいっしょにやれん、帰ってくれ」と最初ははねつけられた。無理もないと思った。「選挙になると毎日のようにビラまきにきたり、宣伝カーで、すぐにでも公害をなくすようなことを言っとるが、ちっともよくならん。選挙が終わるとビラ1枚もまきにこん・・・」まちがってはいないだけに、それについての弁解はできない。だからといって、やめるわけにはいかない。地区労事務所(事務局員)の仕事が終わると、公害に関係する話題を持ち、「個人として、公害をなくす運動の役に立ちたい」ことを力説する訪問が続き、ついには、「磯津の公害患者を集めるでな、そこでみんなに話をしてやってくれ、コンビナート増設反対署名のことを話してくれ。」とお許しが出て、ある晩にもたれた公害患者会におそるおそる出席した。すみっこで小さくなっていた。患者の人たち30〜40人ほど集まっていた。

 加藤さんが口を開いた。「この人は沢井さんっていって市役所につとめている人やが、増設反対の署名用紙も役所で作ってもってきてくれたで、これからこの沢井さんに話をしてもらうで、よう聞いておくれ。」と言った。「そうか、ごくろうさんやな」集まった人のなかで、そんなつぶやきもあった。
 公の行事ではないにしても、これは明らかに経歴詐称である。しかし、当初加藤さんとこで言った「勤め先は労組事務所」と言えば、座はしらけてしまう。在所の人は、お上(役所)の人、学校の先生は、それだけ尊敬に値する人であり、その席で何をしゃべったのかはずっと思い出せないでいるが、自分の口からは、経歴詐称にふれるようなことだけはしゃべらなかった。そのことだけは記憶している。

 2〜3ヵ月、磯津の患者の人たちと接した頃、「加藤さんが、おまんのことを役所の人だって言っとったが、そうじゃなかったな。だけど、ようやってくれるのはわかったし、これからも頼むわな」と言われるようになり、経歴詐称の呪縛からは解放された。

 それから35年間、深く浅くは別にして関わってきた磯津であり、「ようやった、おかげや」と声をかけられ、西瓜をもらい、そのあと会場へ、栄養ドリンクを届けてくれるなど、なによりもうれしいことであった。

 忘れておった、考えてもいなかったではすまされない、磯津での判決集会。30人くらい集まればいいなと思い、そうも言っていたとおりの参加であったが、集会の意義、なかみは、数にかかわらず大きいものがあったと自負しているが、それもこれも、こんごにかかわってきていると思う。

 少数派のことをマイノリティというそうだが、われわれ少数派といえども、大をめざしてすすむしかない。

 

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