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判決から31年

野田之一

 わしらが生まれたころの磯津は田園地帯で、百姓と漁師が生活しとった。
 ところが、海軍燃料廠あとに大きな工場ができ、わしらの地域の人は、大都会になるって喜んだ。
 だが、2,3年すると、くさい魚がとれ、売れやんようになったり、ぜんそくになる人がようけ出るようになった。なんにもなかったところにこんな病気が出てくるのは工場ができたからやって、工場に訴えに行ったら、「うちじゃない」、次の工場も「うちじゃない」。うちじゃないっていうことは「おまえだ」ということといっしょ。罪を他人になすりあいする根性にねえ、かちんときた。そいでこんどは行政へ行った。「国の規制をちゃんと守っとる工場が操業しとんのやから、市は知らん。」

 公害も病気もひどくなる一方の頃、「助かる法があるんやぞ。」って言ってくれる弁護士さんらが居って、「そうか、わしらが生きていくためには、この道しかないやないか」って、裁判をおこす気になった。
 だけど、在所の人の中や親せきが「大会社を相手にして勝てるわけがない」と言う人もいた。
 負けてもともとや、このままでは死んでしまわんならん、生きるための裁判やと思ったけど、勝てるとは思えなかった。

 ところが、その裁判で勝った。勝ったときは「助かった」という気持ちじゃなくて、おいらの言い分がやっと認められたなあという気持ちで、「裁判では勝ったけど、これで公害がなくなる(生きられる)わけではない、公害がなくなった、そのときにありがとうのあいさつをさせてもらいます」と判決後の集会で言った。
 でも、20年、30年とたった今日、四日市公害を勉強に来た小学生に、大きな顔して、元気な姿で話すことができるなんていうことは、当時としては夢にも思っていなかった。
 だから、いまもって、公害裁判をやったおかげで生きておられると思っている。

 

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