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四日市公害学習案内


四日市公害 学習案内

はじめに

 水の汚れによる「水俣病」と、空気の汚れによる「四日市ぜんそく」は、1960年代のころから、人々の命まで奪う深刻な公害を発生させました。こうした公害は、日本列島各地の工業地域でも発生【公害列島】といわれるようになりました。

 四日市は、大気汚染公害の原点であります。その原点という意味は、わが国初の本格的な石油化学コンビナートが作られ〔1960年・昭和35年〕日本の実質経済成長率は13,2%となり、翌年7月に発表された「経済白書」は、「もはや戦後ではない」という有名な宣言を発しています。いわば四日市は、そうした経済成長の走り(先導)の役割を果たしてきたわけですが、その影で四日市の人々は、【塩浜ぜんそく】−【四日市ぜんそく】と呼ばれる呼吸器疾患や、たまねぎの腐ったようなと表現される悪臭、黒いすすなどに苦しめられ、ぜんそくの苦しみで自殺する人、そのために亡くなる人が増えていきました。

 四日市はこうした市民の苦しみをほおっておけず、1965〔昭和40年〕5月から、医者代を無料〔自己負担分を市が支払う〕にする【四日市公害病認定制度】を発足させました。この救済制度は、やがて国がこれに習って、全国各地の大気汚染地区でこうした制度を実施するようになりましたが、医者代がただになっても、生活費は自分で稼がなくてはならず、入院患者の中には、空気のきれいなところへ行って働くことを余儀なくされました。

 一方、公害発生源対策は、国・県・市ともゆるく、被害は拡大する一方なのに、第3コンビナートの埋め立て、工場誘致が進められた。

 こんなことでは、憲法25条で、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるのに、『その条文は、亜硫酸ガスの中で死んでいる』として、磯津の公害認定患者で県立塩浜病院に入院していた9人が原告となり、名古屋を中心とした弁護士さんたち56人が代理人となって、四日市公害ぜんそく訴訟〔裁判〕を1967年9月1日におこしました。この裁判は、5年近くかかりましたが、1972年〔昭和47年〕7月24日、患者さんたちの言い分を認める判決が出ました。

 この裁判をおこしたこと、患者さんたちが勝ち、訴えられた工場が敗けたことによって三重県は公害規制を厳しく〔当時の亜硫酸ガスの排出量を3分の1以下にする〕する総量規制を実施、工場は、磯津だけでなく、四日市全体の患者さんと遺族に補償金を支払う【四日市公害対策協力財団】を設立、これもやがて国が引き継ぐ【公害健康被害補償法】という法律をつくり、四日市だけ出なく全国41の大気汚染地域で公害患者の救済をすることになりました。
 いわば四日市は、そうした対策の発信地〔原点〕であるということができます。

 こうした多大な被害と対策によって、亜硫酸ガス〔二酸化イオウ、SO2〕による汚染状況は1960年から70年代にかけてのひどい状況は改善されていきました。が、二酸化窒素、二酸化炭素、浮遊粉塵などは、改善されたとは言いきれません。

 亜硫酸ガスが改善されたとして、「公害を克服した」「終結」「四日市ぜんそくの発生がなくなった」と、被害者でない側から言われていますが、そうとは言いきれないと思います。
 いまも600人ほどの公害認定患者がおり(2001年現在)、中には今も発作で苦しんでいる人とか、認定制度が廃止された〔1988年3月〕あとも、呼吸器疾患の患者さんが発生しています。

 人間は忘れっぽい動物だといわれます。二度と悲惨な公害をおこさせないためにも、公害被害の事実をしっかりと自分のものにしなくてはなりません。
 公害は四日市だけで起こったものではなく、どんなところでも起こります。そのためにも、ノーモアよっかいちの学習は必要なことだと思います。

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