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岡田知弘(京都大学大学院経済学研究科教授)氏が、四日市市史編さん事業に関わって、感じられたことを以下のように記しています。
公害資料の保存・整備の必要性
四日市市史編さん事業に関わって自分自身が感じたことを4点あげます。
1.公害問題の一般性と地域性
公害問題は高度経済成長の裏返しとして、日本史の一断面ということで取り扱われる場合がよくあります。ところが、どこでも公害が起こったわけではないということに注意する必要があります。ある地域、例えば四日市市というところにコンビナートができて、それが排出する亜硫酸ガスによって四日市ぜん息が発生したわけです。西淀川の公害は西淀川の地域的条件があって発生したものです。このように非常に地域性のある現象です。この点をしっかり見すえる必要があります。公害をテーマに全国ひとつの資料集成をつくるということではなく、その地域に即した社会経済現象をトータルにつかめるものでなければ、公害発生そのもののメカニズムもその原因究明に関する論拠づけも難しいわけです。私は地域の様々な分野の資料と一体のものとして保存・利用されるべきだと考えます。
2.公害は終わったわけではない
四日市でも公害認定患者の高齢化が進んでいますし、これまで発症しなかった人も新しく発症しています。ところが現在では新規に認定を受けられないという問題が起きています。四日市では今も問題が続いているわけです。これからも、どんなことが起こるかわかりません。様々な環境変化によって患者の症状の現れ方もちがってくる可能性が強い。その意味で過去の資料をしっかり保存しておくことが、今後の公害問題に取り組む上でも重要になるかと思います。
3.地球上で2度と同じ誤りを繰り返さないために(四日市での「初期公害」との関係で)
四日市の戦前史を見ていると、誘致企業による公害が、すでに昭和7〜8年から出ていました。私はこれを「初期公害」と呼んでいます。東洋毛糸紡績という塩浜地区に誘致された工場が悪液を垂れ流していました。これによって魚介類が死滅してしまうということが起こって、当時、漁業組合等が猛烈な運動を展開しました。しかし、その解決の仕方が問題でした。市と県と毛糸会社が補償金を積んで、それで一斉に黙ってしまう。当時、石原産業が誘致される時期でしたが、今後石原産業に伴う問題に関しては一切保証を求めないという念書も交わされています。こういう歴史が、昭和36年版の市史には描かれていませんでした。四日市で上のような問題があったことを地元の人々はあまり知られていません。この史実が語り継がれていれば、戦後の四日市公害の展開もまた違っていたのではないかと思うのです。いずれにせよ、歴史を正しく語り継ぐことが重要です。
他方、私のところに日本の公害問題を勉強したいという留学生がきています。中国をはじめとするアジア諸国は、現在、開発の進展のなかで大変な公害問題に直面しています。彼らは、日本の公害問題と、その解決方法などを学んで帰りたいというまじめな問題意識を持っています。日本の公害資料の保存と研究は、このような世界的な意義もあるのです。
4.公害資料の整備体制と公共団体、運動団体、研究者
公害資料は、放っておいたら分散と喪失を免れないという危険性をはらんでいます。これらを整備するためには、いわゆるNPO、住民団体だけではだめです。公共が何らかの形−市史という形や、資料館をつくるという形等−で支援し、資料を保存する必要があります。その中で運動団体には牽引車となっていただきたいと思います。専門家である研究者の協力を得ながら、3者の役割分担をしっかりとつくっていく必要があると考えます。
詳細については、地域史の立場からみた被害者・住民運動資料保存の意義
−『四日市市史』を編さんして−を参照してください。
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