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中日新聞の夕刊(2001/12/20)に、興味深い記事が載りました。
私たちが求めている「公害資料館の設置」に触れられた記事です。
吉井水俣市長が、今期限りでの退任を表明した。市長就任後の水俣病犠牲者慰霊祭で、市政を代表して初めて患者に謝罪、患者と市民との「もやい直し」を推し進め、行政不信、企業不信が渦巻く街の空気を大きく変えた。今、水俣は公害原点の街として修学旅行の名所になっているし、市立水俣病資料館を訪れる人も年間約四万人という。
市長当選後、就任までの二十日間を吉井は、患者訪問にあてた。被害者の患者は考えを変えられないし、変える理由もない。だとすれば市長の私が変わり、行政が間違っていたと頭を下げよう−と考えたという。
被害者救済そっちのけで、加害者チッソへの救済(県債発行)を先行させた裏返しの施策。それをただすのが仕事だったという吉井は、「裏の裏は表。私は裏の裏返しをした。それはほぼできた」と任期八年を振り返る。
一方、もう一つの公害原点の街四日市では、市民有志が「市史編さんに関わって収集された資料の公開を」と求めている(公害市民塾『瓦版』48号)。同市には今なお、本格的な「公害資料館」ひとつない。井上四日市市長さん、今度はあなたの出番です。(うたせ舟)
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