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▼学生さん:
>三重県四日市市のぜんそくについて調べています。
>どうして、戦後、四日市市はその場所にコンビナートを作ろうとしたのでしょうか。
>勿論市の発展にはつながる訳ですが、その場所でなければいけなかったという
>理由はあるのでしょうか。また、これらのコンビナートは三重県以外のどことどのように
>関係をもって、更に発展したのですか?
「四日市公害学習案内」の記録「公害」にある「出来事を追って」の中に次のように記してあります。参考にしてください。
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2.第2海軍燃料廠の建設
* 1939年(昭14)、太平洋戦争を予定した海軍が、塩浜地区の水田などを強制的に買い上げ、1941年12月の開戦までに、日産原油処理能力2万6000バーレルの製油所を作った。
* このほか、陸軍は、1940年(昭15)に、四日市陸軍製緘支廠を作っている。
3.海軍燃料廠跡地の払い下げと、石油化学コンビナートの進出
* 1945年(昭20)6月、米軍による空襲で海燃は炎上。戦後、焼け跡となっていた60万坪、200万平方メートルについて、国際石油資本、財界、政界、旧軍人などが入り乱れての争奪戦が繰り広げられ、'55年(昭30)3月、鳩山内閣の閣議了解として、四日市の海燃跡地は、『昭和石油と、将来、三菱グループとシェルグループによる石油化学が企業化されるときは、緊密な連携を図らしめるものとする』として、貸与、後に払い下げた。
* 徳山の第一回燃跡地は出光興産へ、岩国の陸燃跡地は、日本鉱業と三井グループへ払い下げも、同時に決められた。
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