公害四日市の昔と今

  四日市公害は、「油くさい魚」と四日市公害ゼンソク」によって代表されます。
 それらは、1955年(昭和30年)ころから、石油化学コンビナートの建せつが進められ、1959年(昭和34年)から本かく的にそう業を始め、そのよく年ころから、漁にいって魚をとってきても油くさいので買ってもらえない、工場のけむりなどで空気がよごれ、ゼンソクなど呼吸器の病気になる人がでるなどの公害が発生するようになりました。


目次
四日市ゼンソク 公害に負けない体力づくり 公害にん定せい度 公害のげき化 児童のぎせい 社会科副読本 塩浜病院がなくなる
日本一の石油化学工場 な屋小学校へい校 その後の四日市  

四日市ゼンソク

 工場では、ねん料として重油をもやします。重油のなかには、いおう分がふくまれており、もやされることによって、二さん化いおう(ありゅうさんガス)になり、それが主な原因で呼吸器の病気になります。
 はじめは、コンビナートに近い塩浜地区で発生しましたが、第2コンビナートができたり、高いえんとつが作られたりして、海岸部の全いきに広がり、「塩浜ゼンソク」が「四日市ゼンソク」となっていきました。
 四日市ゼンソクとよばれる病気の主な物に、「気管しゼンソク」と「まんせい気管しえん」があります。
 「気管しゼンソク」は、急にむねがおさえつけられるように息が苦しくなる病気で、せきやたんが出ることがあります。
 これを気管しゼンソクの発作といいます。
 まんせい気管しえんは、せきやたんが長く続いたり、息切れするなどが主なしょうじょうでたいへん治りにくい病気です。
 このほか、「はい気しゅ」(はいきしゅ)があります。これははいの細ぼうがおかされ、呼吸こんなんとなり、さんそきゅう入をしたりします。
 これらの公害病は、見た目には、発作を起こさないかぎりわかりません。発作は、夜中か明け方におきやすく、赤んぼうから小学生までの子どもと、老人がこの病気になりやすいですが、子どもは大きくなるにつれ、体力がついたりすると発作が止まったりします。


公害に負けない体力づくり

 公害の一番ひどい塩浜小学校では、健康づくりのため、うがいとかんぷまさつを取り入れました。
 市では、公害対さくとして、教室に空気清じょう器をせっちしたり、かっせいたんいりのマスクをくばったりしました。
 しかし、おせんがなくならない以上、健康をたもつことはむつかしく、はい活量や空気がのどをとおるしゅん間呼吸器流量(しゅんかん呼吸きりゅうりょう)のそく定では、塩浜小学校区内でも一番公害のひどいいそつの6年生男子20人の平きんちは280、ひ公害地のさくら小学校22人の平均値(へいきんち)は284あり、公害のもたらすえいきょうのひどさがはっきりしました。

公害病にん定せい度

四日市市では、気管しゼンソクやまんせい気管しえんにかかった人たちの医りょう費を市が負たんするせい度を1965年(昭和40年)からはじめました。(その後、国がやるようになりました。) 1972年(昭和47年)、市の人口は23万人で、にん定かん者は817人。このうち塩浜地区は249人おり、塩浜小の児童は56人、塩浜中の生徒は11人となっています。
 このにん定せい度は、ありゅうさんガスののう度がうすくなったとして、1988年(昭和63年)3月、はい止されました。 

公害のげき化、1963年夏

  昭和38年、海では、くさい魚で漁が成り立たないので、その原いんである生物ゼロの四日市港の海水をくんで発電機を冷やし、その水をいそづ側のすずか川へ流す中部電力三重火力発電所に対して漁したちが、すずか川でなく四日市港へ流すようにしてほしいと申し入れましたが聞いてもらえなかったので、はい船や土のうをはい水こうに投げこむ実力行動をやりました。それでもはい水こうは変わらず、わずかな金が配られただけで終わりました。
 三重火力発電所は、発電機が古くなり、とりもわされ、今はありません。
 同じころ、第二コンビナートがそう業をはじめ、悪しゅう(たまごや玉ねぎのくさったようなにおい)や、そう音、しん動、すす(せんたく物が外へほせない)などの公害で、赤んぼうがちちをはいたり、病人をひなんさせたりで大変でした。
 だから、この年の夏が、四日市市民が「公害はいやだ」と一番さわいだ年でした。

児童生徒のぎせい者

  「ゼンソクで死ぬようなことはない」と言われていたのに、塩浜中の生徒と、第二コンビナートに近い海蔵小の児童がゼンソクでなくなり、母親たちが中心になって、公害をなくせ、ゼンソク児童の養ごしせつを作れなどの要求をかかげて集会やデモ行進をおこないました。
 その後、公害病の子どもを持つ母親たちが中心になり、塩浜小学校の先生たちも協力して、「公害から子どもを守る塩浜母の会」を作り、県知事や四日市市長にちんじょうするなどの運動や公害をなくしていくにはどうすればよいかといった勉強会もやりました。
 また、公害を止めるさいばんをやろうと話し合いや、さいばん所へうったえるじゅんびもやったりするなどいっしょうけんめいがんばりました。
  四日市公害ゼンソクさいばんで公害かん者が工場側に勝ちました。 

四日市教育委員会がつくった社会科副読本「のびゆく四日市」より

   公害をなくすための、みんなのしらべたことについて話し合った後、先生は、公害をなくすためにどんなどりょくをしているか、つぎのように話してくださいました。
 公害にこまった人たちは、なんども市や工場に公害をなくしてほしいとたのんできました。
 それでもなかなか公害のようすはかわりませんでした。
 そこで、四日市ゼンソクでくるしんでいるいそつの人たちが工場をさいばん所にうったえました。さいばん所は、病気のげんいんと工場のかんけいをしらべて、工場の出すけむりやガスが病気のもとになったことをみとめました。そして、4年後の47年7月に、かん者のうったえどおり、工場に病気にかかった人のほしょうをさせました。
 これは、1979年(昭和54年)発行されたもので、げんざいでは、公害のイメージをぬぐいさるという市長の方しんで、公害さいばんのことにはふれないばかりか、公害については2か所、10行ていどしかのっていません。
 公害さいばん以後、ありゅうさんガスのう度は、うすくなりました。
 公害さいばんで、さいばん所が、「工場の出すけむりの中のガスによって病気になった。工場は最高の公害ぼう止をやりなさい。」といったはん決を出したこともあって、二さん化いおうのありゅうさんガスのう度は、はん決のごろよりもへってきましたが、二さん化ちっそは、へっていません。
 ガスをうすくするだけが公害対さくではありません。 

塩浜病院がなくなってしまいました

  1994年9月30日をもって、空気せいじょう病室もそなえ、発作を起こしたかん者が、夜中でも、いつでもかけこんできても治りょうしてもらえた病院がなくなりました。 公害をなくす、住みよい町をつくるというもとは、おせん対さくだけでなく、げんに、国がにん定した公害かん者がおり、病気が治らない人たちがいる以上、そういったひ害者(ひがいしゃ)の人たちが安心してりょう養していける手だてをこうずることこそ公害対さくだと言えます。

日本一の石油化学工場ができました

  塩浜病院がなくなった明くる日、公害さいばんでうったえられていたみつびし化成とみつびし油化が合ぺい、みつびし化学となり、世界有数の大工場となりました。

国道23号線のな屋小学校がへい校

  第二コンビナートにも近いな屋小学校がなくなり、1キロほどはなれた中部東小と合ぺいしました。
 

「工場がくれば市は発てんすると市長が言った。
市は、発てんしたかもしれんが、市民のわしらはゼンソクかん者になり、漁にもいけんようになった。発てんするっていうのはどういうことや」 と、ある漁しがなげいていました。 

その後と最近の四日市

 

公害を記録する会

1972年(昭和47年)7月、「四日市ゼンソクは、工場のはい出するガスによって病気になったもの」と、公害かん者のうったえをみとめるはん決が、つ地方さいばん所四日市し部の米本清やさいばん長によって出されたことや、自殺者まで出るという、ひどい公害のじょうきょうが明らかになったこともあり、公害をなくせという世ろんが高まりで、さいばんで争われた病気の原いんとなる、ありゅうさんガス(二さん化いおうSO2 )について、三重県や国は、ガスのはい出量をへらすこととのう度をうすくさせるきせいをきびしくしたので、はん決後、ありゅうさんガスは改ぜんされました。

ありゅうさんガスののう度(PPM)が下がった=公害は改ぜんされたとして、1988年(昭和63年)3月より、公害にん定せい度がはい止され、新しいにん定かん者でないようにされてしまいましたが、まだ、670人近い(平成8年)公害かん者の人たちがいます。

四日市公害発生のごろより、特に、塩浜地区の公害かん者の人たちにとって、一番の便りであった県立塩浜病院が、昨年10月(平成6年)、へいさされ、とりこわされてしまいました。県は、塩浜病院の代りに、5キロほどはなれた山の手に、医りょうセンターという新しい病院を建てました。 塩浜病院に通っていたかん者さんの中には、30分ほどかかるバスで、新しい医りょうセンターへ治りょうに通う人もいます。

公害対さくは、害をおよぼすガスなどをうすくすればよいということだけではありません。公害によって病気になった人たちが安心してりょう養できるようにすることこそ、もっとも必要なことだと思います。

1960年代から70年代へと、人々を苦しめた公害発生げんの石油化学コンビナートの工場は、そのごろよりもげんざいの方が大きくなっています。
 公害が改ぜんされてきたといって、公害に無関心になってはいけないと思っています。
 公害をわすれ去ってはいけないと思います。なぐった方より、なぐられたほうがよく覚えています。なぐられたいたみを事実でもって明らかにする形で残していくことで、2度のなぐられないようにすることができるのではと思い、公害を記録し続けることはもちろんのこと、あやまちをくりかえさないひとつのよりどころとして「公害し料館」がほしいと思っています。

四日市市議会は、今年の9月(平成7年)、四日市市長のてい案にしたがって、無公害せん言ともとれる「かいてきかんきょう都市せん言」を議決しました。 四日市は、海にせっした町ですが、海岸は、工場のコンクリートで固められ、すなはまの海岸、泳ぐ・貝とりをする海辺はありません。 工業の発達、高度けいざい成長は、自然をとりこわさなければ成り立たないとしたら、悲しいことです。

  1995年11月