裁判へ「四日市公害訴訟」

第二コンビナートの北方の霞ケ浦と呼ばれる地域に、第 三コンビナートを造ろうという計画が県と市によって立てられました。当然、住民はこれ以上の公害はもうたくさんと計画に反対しました。

強行な採決をする四日市市議会しかし、そんな住民の願いなど関係がないとでもいうように、四日市市は強行に計画の実行を進めていきます。そして、1967(昭和42)年7月28日、公害反対の市民がぎっしりつめかける中で、市議会で採決が行われました。住民の反対を押し切って、第三コンビナート計画の実行が決まったのでした。


公害による住民の健康など関係がないとでもいうように、工場優先の計画がどんどん実行されていきました。



「しかしなあ、わしはかくごしとるんや。一日も早う裁判やってもらいたい。誰に頼んでもだめなんだから、もうこれしかないんや、裁あそこが一番の発生源だと塩浜病院のベットから判だけや。」というせっぱつまった思いが、裁判につながっていったのです。

五年という長い裁判の結果、ついに住民は、裁判に勝ったのでした。五年という長い裁判中に訴えた人がなくなるということもありました。

しかし、裁判に勝ったからといってすぐに公害がなくなったわけではありませんでした。この裁判の判決をてこにして住民たちは、自分たちの人権と健康を守る戦いを続けていったのでした。


控訴をやめてほしいとの要求