塩浜地区の第一コンビナートが本格的な操業に入った後の1960年から61年ころ、まず、磯津で「ぜんそく」もちでない人たちが、同じころ、磯津の病院へ発作を起こしてかけこむ人たちが出始め、塩浜一帯にも広がった。1963年以降、海岸部から山の手のほうへと患者の数が広がり、ほうっておくことができなくなった。
塩浜地区連合自治会の「ぜんそく」の調査をし、治療費をたてかえることにした。それに、住民検診で8人が入院しなければならないということもわかった。四日市市は、県や厚生省に働きかけたが断られ、平田市長は、64年秋、市単独による医療費救済制度を施行することを決意、「公害は現実の問題。医学的な証明がないからといって、苦しんでいる市民を見捨てることはできない。国や県の決定を待っていてはいつのことやら・・・・」と、平田市長は、市費負担制度を決断。 |
医師会の中心となって活躍した小柳医師は、「医師会のヒューマニズムは当たり前。偉かったのは市長のヒューマニズムです。しかし、制度発足の真の力は民衆の声。私は、認定制度発足の運動を住民一揆と呼んでいるんです。」とまとめている。 住民の声に答えて、四日市市は、公害病認定制度を作った。 こうした認定制度を国が、1970年2月から発足させた。市の英断が厚生省を見返したことを歴史が証明したことになった。 |
※四日市市の認定状況
期間\区分 | 申請 | 認定 | 死亡 | 取り消し | 制度終了時 被認定患者数 |
昭和40年5月〜 昭和45年1月 |
786 | 732 | 31 | 237 | 464 |
第一回審査、認定患者の内訳
18人を認定。うち12人は磯津地区ですでに塩浜病院へ入院していた。あと6人は市公害対策課で申請を受け付けた人。うち子供は2人。肺気腫10人、気管支喘息5人、慢性気管支炎3人、入院治療が必要なのは14人。
認定制度はできても、公害発生のもとの工場の煙や汚れた水は、吐き出されつづけていた。さらに、県や四日市市は、第3コンビナートの計画も発表することに・・・・・・・・
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磯津の漁師の話「ほんで、われわれから言わしたら、今の基準は、会社が成り立っていく基準であって、われわれ住民とか、漁民がですね、生きていけるような基準やないと思うんです。」 |