1999年7月24日
四日市公害裁判原告患者 野田之一
最後に、四日市公害裁判の原告であった立場で、一言お願いしました。
「私ら、一番よう聞かれるのはねえ、『ぜんそくって、どんな苦しみ?どんなふうに苦しんのや』と、よう聞かれるのやけど、これはねえ、私らね、これぐらい、こうやって、苦しいのやということを説明できんのや。でも、もし、先生方が、子どもにどういうふうに苦しいのかって、それを説明するときにね、こうやって、言うてくれやんかな。」
「というのはねえ、あんたたちね、一般の健康な人たちが、生きていくのにね、あんたら、“死ぬまで、息せんならん”ということ、考えたことある?だれか、ね。息を吸うたり、はいたり、これせんことには、死なんならんのやで。日常生活しとんのに、はあー、すうーと息しとんのに、息せんならんということ、意識したことないわねえ。でも、これ、ぜんそくというものにかかってね、発作が起きたらねえ、私、いっつも、思いようったで。”これ死ぬまで、息せんならんのか、もうええかげんにやめようかな”っと思うほどねえ、つらかった。こういうふうに、子どもに説明できたらと・・・」
「四日市裁判以前に、もし、みなさん方みたいに、関心のある人が四日市におったら、 こんな大きな裁判にならんだかも分からんし、こんな都市にならんだかも分からんわな。」
「私ねえ、ある時ねえ、昭和石油の建設工事にね、漁師の合間に手伝いに行った。四日市が栄えるやろって思って、喜んでね、私ら漁民は、みんな一斉に奉仕に行った。そのときにねえ、ある外国人の技師がねえ、『お前ら、こんなところに、こんな工場たてて、喜んで手伝っとるけど、お前ら、これ、栄えると思とったら、間違いやぞ、四日市は滅びるぞ。』って。何言いやがる。このばかもの。この田舎に大きな工場が来て、ええことやないか。私らは思った。でも、結果はどう?四日市は、早く言えば、滅んだんやな。」
「私ねえ、つくづく思うね。終戦の頃、何にもなくて、かゆばっかすすっとった。現在のようにやれなんだ、ビフテキだと、ぜいたくができるようになったのも、これ、こういうことがあったからかなあ、私ら犠牲になったのかもと思うようになった。」