石油化学工場は、たくさんの水を使いました。そして、工場で使われよごれた水を海にたれながしたのでした。そのために、こんな事が起こったのでした。
1.1960年(昭和35年)3月、東京つき地の中央おろしうり市場は、「いせわんの魚は油くさいのでげん重けんさする」との通こくを出しました。この通こくは全国の魚市場にも流れました。伊勢湾の魚といっても、磯津(いそつ)の名が出ただけで、買いたたきやキャンセルがおき、漁民の生活はとても苦しくなりました。
2.伊勢湾の魚は、水のきれいな、ほうふな木そ川の真水と海水がほどよくまざり合って、うまい魚、高級魚とされていました。夏のスズキなんかは、相当の高級魚としてもてはやされていましたが、60年ごろからは、くさいからいっせんの金にもならないようになりました。出荷しても返ってくるし、ニワトリも食べないありさまでした。
3.こうしたことから、小りょうパッチ、定ちあみなどの代表役30人で交しょう委員がつくられ、市、中電への交しょうが始まりました。
りょうしたちのようきゅうは、
でした。
5.1年3ヶ月後の1964年12月、配水口をかえろとのようきゅうは実げんされず、3600万円のほしょうでケリとなり、わかいぎょみんが手にした金はわずかに数万円というもので、苦いはいぼく感がのこりました。