四日市ぜんそくを語る

 「こういう曇った日はね、胸がちょっと苦しいねー。天気のええ日はいいけどねぇ。まだ私は軽い方でねぇ。重い人はもう、風が強い日とか、うちわの風でもようけせいてさ。」こう言って、その人は語り始めました。

 四日市ぜんそくの原点

 戦争中海軍燃料しょうというのがあったんです。それを、昭和石油が買いを受けまして、重油からガソリンを生成するようになったんです。それと、中部電力が、燃料を石炭でたいていたんです。で、真っ黒な煙が黙々と出たんです。それが北西の風が吹くとね、この磯津の町全体にすすが降ってくるわけです。それで、窓を開けておくとね、網戸にしとくと、畳の上が真っ黒になるほどなんです。うちわでそのすすをはき集めはほったものです。
 夜になると煙突から出る炎で空が赤くなっているんです。すごいもんでした。もう、一日中コンビナートの火が消えることはありませんでした。この産業構造成長政策は国の方針でしたから。当時の総理大臣池田勇人とが「所得倍増を!」とか言いまして、「なんでもかんでもええ、とにかくガソリンを作れ。」と言って、それが四日市ぜんそくの原点です。

ぜんそくの発作が始まる

 ある日、石原産業の近くの海岸にとめてある船のスクリューや船底が腐っていたんです。みんな不思議がってました。
 また何日かたつと、朝顔の葉に点々ができて、枯れてきましてね。ネギが枯れたり、街路樹や村にあるお墓にあるマツの木がかれてきました。青い芽や茎がみんな枯れたり・・・・。
 このころになると、近所に集まるたびに「こりゃおかしい。」という声が出だしました。
 そのうち、夕方北西の風が吹いて、時間が来ると、みんなせき込むようになったんです。1人や2人じゃありません。村中の人が、せきの出る日が多くなってきました。みんな医者へ行きました。
 しかも、磯津では、大体同じような時間に同じような発作を起こして、お医者さんのところに5人、6人と患者さんが集まってきます。それで、「これはおかしいじゃないか。」ということになって、いろいろ調べてみたら、やっぱりぜんそくの気のある家ではなくて、それまで全然関係のないような家で、ぜんそくの患者になるということで、「やっぱり工場が来たから、なるんだぞ。」ということがわかってくるんです。
 そういうことで、ぜんそく患者というのが増えてきました。ひどい時期には磯津なんかでは100人から120人くらいぜんそくになる患者さんがいるんですけれども、この塩浜小学校でも、そういうぜんそくにかかるっていう子供が増えてきました。
 ぜんそくの発作を起こすのは、大体の夜中から明け方に発作を起こします。子供が夜中にせき込むので、タンスの取っ手にしがみついて、母親が朝まで背中をなでて、あまりの苦しさに取っ手を引きちぎったっていう子もいましたよ。こんな子がこの村に大勢いました。

ずる休みといわれて

 磯津で当時小学校3年生で岡田さ津子ちゃんという女の子がいたんですけれども、その子もやっぱり公害病になって、認定患者になったんです。それで、その子もやっぱり明け方に発作を起こす。一生懸命呼吸をしようと思うから、もう力を使い果たしたんです。それで、あくる日の朝になると、もうぐったりしているので、お母さんが、「この子供起こして、学校に行きなさいということを言うに忍びない。」というので、ついつい学校を休ませちゃう。すると、近所の人は「あそこの家の子供は、学校をずる休みしている。」ということで、「言われるのがつらい。」とそのお母さんは言ってました。
 それで、発作を起こしたその3年生の子供は、もうあまりにもその発作が苦しいので、「もうお母ちゃん殺してくれ。」ということを、しょっちゅうを言うんです。それくらい、夜中にひどい発作を起こすんだと言っても、近所の人でさえも、それは知らない。
 それで、岡田さ津子ちゃんのお母さんが、「学校をズル休みするなんてと陰口を言われてつらい」というんで、「夜中に発作を起こしてもほっとくから、その発作を起こしたところへ来て写真を撮ってくれ。」ということを頼まれたんです。

もう裁判しかない

 また、ある学校では、小学校の子供がよくせき込むので、運動場へ芝生を入れました。私たちは「子供が運動をするとき、芝生で何するのや。」と思ったんですが、ガスを芝生で食い止めようとしたんです。このころになると、もう磯津だけではなかったんです。この四日市の多くでぜんそく患者がたくさん出てきたんです。
 「ぜんそくには、とにかくうがいをせなあかん。」ということで、その小学校では40も水道の蛇口が並びまして、うがい薬を置いて、1日に5、6回、うがいをしたんです。そして、登下校の時は、黄色のマスクを市役所がくれて、それをはめて、橋を渡って行ったんです。
 みんな口々に言い出しましたよ。「工場の煙が、このぜんそくのもとや。」とね。市役所にも何回も足を運びました。石原産業、昭和石油、中部電力などコンビナートの出す煙が私たちの健康を奪っているのはもう明らかだったんです。しかし工場はもちろん、市も県もなかなか腰を上げてはくれませんでした。なにしろ「高度経済成長」が国の合言葉だった時代ですから。
 しかし、私たちのいうことに耳を傾けてくれる支援団体も少しずつ出てきました。その中で「裁判起こそやないか。」という話が出てきました。そして、裁判に踏み切ったんです。その当時、私ら、みんな裁判を起こしたのは、初め9人で起こしたんです。第一次の裁判です。その後、二次が140名。
 第一次の時は、「おまえら、もう国賊や。」と言われました。親類にも縁者にもみんなから「縁切りや。」と言われました。なぜかといいますと、裁判にはお金がたくさんかかります。当時も「まず五億ぐらいはいるやろ。」と言われました。聞いた親類は、家も屋敷も取られると思ったんでしょう。「おい、なんでそんなことすんのや。もう縁切りや。」と強く言われました。
 周の人たちも、裁判には反対でした。「大きな工場が来ると、村が発展する。」とか言いましてね。公害には反対しませんでしたね。

裁判に勝てる分けないぞ

 その時に言われたのは、「これだけ、立派に出来上がったコンビナートを相手にして、勝てるわけないじゃないか。」もし、裁判で負けたら、コンビナートの方から逆に訴えられたら、「家の財産がなくなちゃうじゃないか。」という心配を親類の人もしました。「裁判をしたら財産をなくしちゃう。」ということは昔からよく言われていますけれども、「それだけ大きなコンビナートを相手にして、裁判には勝てっこない。」というふうにみんなが思っていたから、「もうコンビナートを相手にして裁判をやるなんていうことはとんでもないことだ。」ということを思った人がたくさんいたんですね。
 そして、公害病患者になっても、世間の人は知らないんです。それで、ずいぶんぜんそくで苦しむ患者さんがたくさん増えてきたんだけれども、四日市の街中の人、あるいは公害反対運動で公害をなくさないといけないということで頑張っている人も、実は公害患者さんがどんな病気の様子なのか、どんな生活をしているのか、どんなこと思っているのか、そういうことを知っていないということもあったんですよ。
 しかし、自分の子供や親の体が悪いという人らはもう一生懸命になっていましたよ。やはり自分の身に降りかかってこないと、「何しとんのや。」という見方でしたね。

応援してくれる人が少ない

 けれど、まず9人が裁判に立ち上がったんです。そして、まず初めに、裁判にかかる一億円ものお金をどうしようというわけで、まず支援団体に頼んでみました。とにかく、東京へ行こうということで、そこでまず三百万円ものカンパを作ってくれたんです。その当時三百万円と言ったらたいしたもんですよ。とにかく裁判のお金ができたということで、ほっとしました。
 さらに、東京の駅前で支援を訴えたんです。けれど、私らに反対する団体もいまして、私らの回りを取り巻きましてね。恐かったですけれど、もうやるしかないと思ってやったんです。
 帰ってきて、それから、四日市の市民にも、「青空バッチ」というのを作って、それを1つ100円で売ってたんです。「四日市に青空を取り戻そう。」「公害をなくそう。」ということでね。それでも、四日市市民であっても、横を向いて行ってしまう人がほとんどでした。買おうとかしないんです。人通りの多い四日市の近鉄の前ですよ。
 しかし、煙突は高くなった。悪臭はしなくなった。そんなことになると、市民も「もう公害は終わった。」というふうに言っていたのを思い出します。
 そういうことですから、市もにおいが少なくなったり、煙突が高くなったりしたので、市民に「もう公害は終わった。」というふうに言われると、「そうかな。」というふうに思いました。
 それが、湯の山のような山奥の方へ行くと、よそから旅行に来ている人たちが、「気の毒や。」と言って、買ってくれましたね。よく売れましたよ。「気の毒や。」っていうてね。
 とにかく、日本中を歩き回って、支援を訴えました。
私たちが、裁判所へ行ったときでしたか、検察庁へ行ったときでしたか、「おまえら、梅干しが喰いたいのか、肉が喰いたいのか、梅干しが欲しいか、どっちが欲しいか。」と言うたことがあります。それに、総理大臣の田中角栄がね、裁判前でしたか、市役所に訴えに行ったときに偶然に会いましてね。田中角栄が言うには「何言うとんのや、おまえらは。俺の在所はな、新潟や。なわぬうて、わらうって、なわぬうて、その縄が売れやんと、ひとっつも。みんなビニールの今はなわでね。お前、四日市は、まだええ方やど。」です。
 「何を言うとるんじゃ。お前は。」腹の中では怒りがおさまらなかったですよ。人の命、環境をなんだと思っているんだ、ということです。

裁判には勝ったが公害はなくなってない

 そんな中で、三重大学の先生がうさぎを飼い始めたんです。3年ほどかって、肺を手術しました。肺を取り出したんです。すると、その肺がよそのうさぎと比べたら、もう肺が真っ黒けになっていたんです。それが裁判の証拠に出されました。それが決め手の一つになったんですね。
 昭和47年、やっと、裁判は勝ちました。うれしかったですよ、みんな。みんなでばんざいしましたよ。
 そのとき、原告患者代表の人が集まった人たちに挨拶をしました。
「裁判には勝ちました。だけれども、これで、公害が亡くなったわけではないので、公害がなくなったときに、わたしはみなさんに『ありがとうございました』という挨拶をさせてもらいます。それまでは、今日のところは、とにかく裁判に勝って、裁判の応援をありがとうございましたという挨拶だけにとどめます。」
 つまり、裁判というのは、病人になったので、働けなくなった、働けなくなったからお金が入らなくなった。だから、その入らなくなったお金を払いなさいというのが、「損害賠償」というのです。そういうことだったので、工場の方は裁判に負けても、すぐに空気をきれいにしなければならないということはなかったので、「裁判に勝ったけども、決して公害はなくなったわけではないので、なくなったときに、挨拶します。」ということを言ったのです。
 それから、「勝てもしないコンビナートを相手に裁判するようなやつはもう縁切りだ。」とか言われても、裁判で「お前たちは、正しかった。」ということを、認めてくれた。だから、「俺は、磯津の町で大きな顔をして、堂々と、在所の人とつきあいができる。」ということをしみじみと言ってました。それはその通りだったと思います。

母親が運動の力

 でも、それが、第一次の原告9人だけで、あと四日市中、1000人か2000人にいるわけです。患者が。それらの人々を救済しなくてはならなかったんです。そこで、患者が、二次、三次と段階的に裁判準備をしたんです。あとの裁判は会社を相手に「自主交渉」という形でやったんです。
 それで、裁判結審前に、支援団体の人たちが「とにかく母親が運動の中心にならなくては。」と言いましてね。「寺子屋」というのを開いて、母親と子どもと公害の勉強をはじめたんですね。磯津は浜で仕事が漁師なので、男は海に行って、いないんです。で、そういうのは女性が大事だということで、母親が一生懸命勉強しました。この磯津の、四日市の場合は、女の人が立ち上がったのが一番大きな力です。男よりもね、女の人の力です。

年月は流れて

 ようやく、「国賊」と言われながらも裁判に勝ったんです。それをきっかけに、日本も市役所も県も、みんな裁判に負けたものですから、目が覚めたっていうか、反省しました。
 法律で、亜硫酸ガスの排出を少なくするように決めましたしね。企業は「排煙脱硫装置」といって、亜硫酸ガスを減らす、そういう設備を作りました。
 それで、だんだん空気がようなってきて、今になったんです。
 とにかく、裁判をしてから、もう20何年になります。市民の記憶も薄らいできているし、風化したというか。
 それで、国連のグローバル500賞、世界中でそういう環境保全や環境をよくするためにつくした団体にくれる賞ですが、1992年、四日市がもらうことになって、表彰してもらったんです。それで市長の名前で、その祝賀会への招待状がわたしに来たんですよ。
 それを、わたしは、「もういかん。」と思いました。「何で、市長がそんなもので表彰されるんや。みんなが、市民がみんな一生懸命になって、この四日市の空を守ったんや。市民のおかげでようなったんや。」そう思いました。

公害はまだなくなってない

 それで、また今度、昭和石油が増設しているんです。で、わたしは、言うんです。「せっかくようなったのに、また増設するとは、何事や。今度患者が出たら、お前ら、どうするんや。」とね。
 その上、今は、国の法律で、患者が出ても救済されないんです。残念ながら。1988年の3月に「指定地域の解除」というのがあったんです。「もう四日市は空がきれいになったから、ぜん息患者が出ないでしょう。もう空気が良くなりました。患者が出ても、公害とは関係なく、救済はしませんよ。」ということです。もちろん私たちは抗議しました。でも、だめでした。
 今、まだ四日市では600人ぐらい、公害認定患者がいます。磯津にもまだ70名ぐらい患者さんがいます。
 公害っていうのは、法律でも「公害っていうのは人間が被害を受けることですよ」ということが書いてあります。「環境基本法」という法律にです。
 それでいくと、公害患者の人っていうのは、一番公害そのものなんです。その人が、まだ四日市全体で600人もいるんだし、「公害は終わった」「公害がないのに何でお前らがいるんだ」ということにもなって、公害患者の人にとっては非常につらい思いをするんです。
 だから、公害はまだなくなっていないんです。
 今も、わたしは、まくらもとには、苦しくなったときのために酸素吸入器というものをおいてあります。それで酸素をからだに入れると、とても楽になるんです。いつ苦しくなるかわかりませんから、すぐ使えるようにしてあります。
 それに、ぜん息を出ないにようにするための薬も毎日3種類飲むようにいわれています。でも、飲み過ぎで、別の病気が出てきて、病院に行かなくてはならないようになってきましたけれどね。
 まあ、それでも、よく闘ってきたものだと思います。

お金と環境

 今、県や市や国に反対運動を起こすということはね、むずかしいです。もう、今、裁判を起こすようなことは無理だと思います。
 だから、今、南勢で中部電力の原子力発電に反対しとる人たち、えらいと思います。みんな一生懸命になってますね。反対しようと。もうそういうのはできたら終わりです。どこかへ作らなくてはならんでしょうけど、まず経済が大事が、環境保全か、どっちが大事なのかということをよく頭において考えてほしいです。
 別に、大きな会社みたいなものがあってもね、市民は楽してるということはないんですよ。みんなもうかったお金は東京の本社へ持って行くんですよ。従業員に給料が入るだけです。日本全国、給料なんて、よく似たものですよ。公害で苦しまなければならない分、損ですよ。