(B)公害かん者への対おう
公害かん者への対おうとしては医りょう費負たんが行なわれた。
まず初めに、昭和38年8月より塩はまの自治会が医りょう費負たんを始めた。
しかしあまりにも高がくだったため自治会の予算でははらえなくなってしまった。そこで四日市市は昭和39年より医りょう費の一部負たんを始めた。
また昭和4O年5月より公害かん者の治りょう費を負たんするせい度を発足させ、医りょう費は無料となった。
(C)公害ぼう止への対おう
公害をふせぐ対さくとして公害ぼう止計画が挙げられる。この計画は公害対さくき本法にもとづき昭和46年に初めて計画された。
昭和46年度から52年度までの計画を第一期公害ぼう止計画といい、三重県と四日市市が合わせて526億1400万円、き業が1039億円の事業費を費やしている。げんざいも、平成8年度から第六期公害ぼう止計画が進められている。
昭和42年の公害かん者9人がばいけむり発生き業6社を相手に、いしゃ料せい求など津地さい四日市し部にていそ。
さいばんのはん年7月24日に出され.ひ告6社は有ざいとなった。日本のさいばんは三しんせいをとっており地方さいばん所でだめなら高等さいばん所、最高さいばん所と、うったえることができる。しかしき業側はうったえることなくすぐにつみをみとめ、しょ置をとっていった。
またこのさいばんでは、行せいにもせきにんがあったと指てきがなされた。
ありゅうさんガスののう度が昭和51年以こうは県の定めたかんきょうきじゅん目標に達成し四日市のぜんそくの発生りつが低くなり、他の公害で問題になっていない地いきとほとんど差がなくなった。そのため公害の指定地いきはかいじょされ、あっさりと公害にん定かん者ににん定されることはなくなった。
にん定せい度がなくなるまでににん定された人に対しては、医りょう負たんなどを行なっている。
げんざい、「ありゅうさんガス」ののう度は年間平きん0、0O6ppmで、他の地いきとくらべほとんど変わらないところまできている。(図1) ちっそさんかぶつに関しても国定かんきょうきじゅんを達成している。だが「二酸化ちっそ」ののう度が少しふえつつあるのがげんじょう。
また、新たな問題としてダイオキシン問題、地球温だん化問題、光化学スモッグ、そう音問題などが挙げられる。ダイオキシン問題はき業側に原いんがあるのか、いっぱん生かつに問題があるのかさかい目が分からなくなってきている。ものをもやすことによって起こる地球温だん化につい
ても同様のことが言える。発電所や車、どこに原いんがあるのかだん定することができない。これがげんざいの公害の特ちょうである。光化学スモッグやそう音についてもまだかんきょうきじゅんに達成されていないのがげんじょう。自然について見れば、様々な開発の進行によりたくさんの緑が失われている。
かんきょうほ全課ではできるだけ緑を残すようにと指どうを行なっている。
以上のことよりげんざい、公害が完全になくなりかんきょうが良くなったと言い切るのはむずかしい。
苦じょうけん数は昭和47年をピ−クとし、公害ぼう止対さくなどのすいいにより、げん少ぎみであったが最近では少しふえつつある。(図2)
全国的なけい向で見るとそう音、しん動の苦じょうが最も多いが、それに対し四日市では悪しゅう苦じょうが最も多い。これは四日市のコンピナートが改ぜんされたといってもげんざいでもくさいのあるものをあつかっているせいである。(図3)
種類/月 | 悪しゅう | 大気おせん | そう音・しん動 | その他 | 計 | りつ |
大き業 | 6 | 4 | 11 | 0 | 21 | 11 |
中小き業 | 18 | 28 | 22 | 3 | 82 | 44 |
その他 | 10 | 11 | 11 | 5 | 39 | 21 |
不明 | 34 | 6 | 1 | 1 | 44 | 24 |
計 | 68 | 49 | 45 | 9 | 186 | 100 |
りつ(%) | 37 | 26 | 24 | 5 | 100 | / |
四日市港かすみがうら地区では、コスモ石油が自分の所で使う電気をつくるために火カ発電所を建せつする予定がある。当初、き業はタンクヤ−ド(石油の貯ぞうなどをするしせつ)を建てる予定だった。しかしと中で建せつ物が発電所に変こうされ、それが原いんとなり住民の間で反対運動が起こるようになった。き業、その土地の持ち主である四日市港管理組合と住民の対立が今も続いている。
(B)りん海部の開発
四日市港のりん海部には工場が多く立ち、いっぱんの人が海とせっすることはあまりできない。しかしげんざいでは四日市港管理そ合によって、海に親しめるしせつ「ポ−トビル」の建せつが進められている。このピルの屋上にはレストラン、てん望台などがつくられ、いっぱんの人も海とせっすることが出来るようになる。
ピルの完成予定は平成11年である。
四日市公害に対して運動を行なった澤井余志郎(さわいよしろう)さんの話をもとに作成しました。
一番ひどかったのは1963年の夏だった。
海の方で、くさい魚がでてきて魚が売り物にならなくなってしまった。特にいそつでは、三重火カ発電所が工場のはい水でよごれた四日市港の水をくんで、発電所を冷やした水をすずか川に流していたので、くさい魚しか取れなくなった。
そこで、漁しさんたちがはい水口を付けかえるようにがんんだが、一度付けたものはかえられないという対おうだったのではい水口をふさぐという実カ行使にでた。魚が売れないので生活ができず、けい官隊につかまってもいいという覚ごだったので、当然けい官隊が出てくるというさわぎになったものの、塩はま地区の連合自えん会長が出てきてあやまったのでおさまってしまった。
陸の方では、季節風によって春夏は市街地の方へおせんぶっしつをふくんだけむりが流れ、冬はいそりつの方へ流れてくるので、風下になる季節はぜんそくの発生がひどくなり、公害かん者の人達にとって地ごくだった。
また、1963年の6〜8月に第二コンビナートがそう業を始めたことによって、ススそう音、しん動、悪しゅうなど、あらゆる公害のじょうきょうが一度に出てきた。
海も空も1963年の夏が公害のじょうきょうがひどかったので、住民の方が行動を起こさないと、何も変わらなかった。
公害に対して起きた運動には、住民運動と市民運動がある。
☆住民運動
ひ害をうけている地しろの住民が、そこでの生活にがまんできずに起こした運動
午起海岸に市えい住たくが建った後、うめたてちができ、そこで、第2コンビナ−トがそう業をはじめた。その時には、人が住めるじょうきょうではなくなっていた。
せんたく物がススで真っ黒になるので、主ふが集まり、き業にススを出さないようにとおしかけた。そこで、き業は、朝、あらったせんたく物を回しゅうし、かんそうさせて、夕方、各家庭へ返しにきた。しかし、住民は、各家庭にススがふってもだいじょうぶなようにアクリルの屋根をものほし台に付けることを要求した。屋根の取り付けは、き業が、ススの公害をみとめたことになるのできょひし、回しゅうを続けた。
結局住民はあきらめ、自分たちで屋根を取り付けた。
☆市民運動
地いき住民以外のかく新だん体(せいとう、労働そ合など)が起こした運動
’61年ごろは、自治会単位の運動だけだったが、’63年の夏、7/lには社会とう、共産とうなどのかく新だん体と、労働組合などが集まって市民大会が行なわれた。しかし、住民運動と結びつかず、すいたいしていった。
住民運動については自治会長が問題であった。
本来、住民の代表としてき業や行せいに対し、文くをいうのが自治会長の役目である。しかしき業や行せいにだえこまれてしまい、コンビナ−トを建せつすることにさん成してしまった。また地いきの住民たちも、自分たちの代表の言うことを聞かざるを得ないと考えた。
こういうじょうきょうの中でコンピナートがかく大し公害が広がっていった。
市民運動については、かく新だん体のうわべだけの行動が問題であった。かく新だん体は運動を一つの行事であるかのように行なった。運動が新聞にのる時などは、人を集めてただ行事を消化するかのようであった。
行せいはすぐには動かなかった。
1963年ではまだ公害とは言わず、工場が建ってからおかしなぜん息かん者がでてきたというじょうきょうだった。そこで行せいにうったえたのだが、そのごろは公害をきせいする法りつがなく、行せいとしてはけんげんがないので手の打ちようがないという対おうだった。一おう無料でけんしんをして、ぜん息かん者がふえているということは分ったのだが対さくは立てられなかった。
はい水口をふさぐというような実力行使におよぶ住民運動がおこったことによって、いおうさん化物のそう量きせいや公害病にん定かん者せい度等の対さくがとられるようになった。
始めはされなかった。
塩はま地区の連合自治会のどく自のアンケ−ト調さでは、いそつの住民の2わり以上に何らかのこきゅう器しっかんがあることが分っていた。市の方の調さは、名古屋大学と三重大学にいらいして行われたが、大気おせんによるものと思われるこきゅう器しっかんがあまりにも高いひりつで出てきたので、えいきょうをおそれて公表しなかった。
そこで、かく新はの市会議員が自分達のせきにんで調さの結果を発表し、公害がひどいと
いうことが問題になった。
1963年のごろにくらべたら雲でいの差で良くなった。
しかしそれは、ほっておいて良くなったのでも行せいの力で良くなったのでもない。
大気おせんについては、1967年9月1日から始まった公害さいばんによってひ害のじったいが明らかにされ、き業にもなんとかしないといけないと思わせ、四日市市が単どくで行っていた公害かん者にん定せい度(医りょう費ほ助)を国が行うようになったからである。
また、1972年のはん決でかん者側が勝そし、いおうさん化物に対する法りつやきそくができたからである。
終わったとは言えない。
海も空気も前よりはずっときれいになってかんきょうが良くなったのはたしかだが、かんきょうが良くなるというのと公害が終わったというのは同じではない。なぜなら公害によって公害病にん定かん者になった人は今でも病気に苦しみながら生きている。公害が終わったといってしまうとかん者の人達のそんざいをひ定することになる。
コンピナ−トはパイプでつながっている。塩はま小学校の通学路の下あたりにガスパイプが通っているが、コンビナ−トができてからげんざいまで、だいぶ年月がへつのにパイプを取りかえていないので老きゅう化
している。それが地しんなどのさい害がおきた時にどうなるかが心配な事である。
コスモ石油が四日市港のりん海部に火カ発電所を建せつするということで、「りん海部の土地を買ったときにはタンクヤードを建てるといつていたのに、なぜ火カ発電所を建てるのか。」としつ問をしてみたが、はっきりとした回答を得ることは出来なかった。
また「住民のりょうかいは得たのか」と聞いてみると、住民の代表のりょうかいを得たのでりょうかいされたものとみなすという回答が帰ってきた。
だが自治会長が住民にこういったことを説明することはないのでき業のじょうほうが住民
に公表されているとは言いがたい。
四日市市にぜひ公害し料館をつくってほしい。四日市ではげんざい6O0人以上の公害病にん定かん者の方がいる。また公害病かん者ににん定されてからなくなられた方がほぽ同数いる。中には苦しさのあまり自殺した人までいる。
当時、人々を苦しめたコンビナートが今でも大型化され、そう業を続けている。そこでかこにこういう出来事があり、二度と同じ事をくり返してはいけない、と分かるようなものやしせつが必要。
1963年当時のじゅう業員の人達は、自分たちの工場が公害を出し問題となっているのでしょく場から公害が出ないようになんとか努カをしていた。しかし今のわかいじゅう業員の人達は公害体験が無いのでそういった事は考えようとはしない。だからかこのせんぱいたちの努力が理かいできるように研しゅうなどを行なえば、今後とも公害をなくそうとする考えが生まれ、続いていくのでは。