四日市はフィンランドの公害を防止した

大阪市立大学教授 宮本憲一

戦後の公害史は四日市からはじまったといってよい。四日市コンビナ−トは高度成長の旗手であり、以後の地域開発のモデルであった。ここに戦後の公害のあらゆる特徴があったといってよい。公害史に転換をもたらしたのは、一九六三〜四年の三島・沼津・清水二市一町の石油コンビナ−ト誘致反対運動であったが、この運動のスロ−ガンは「四日市の二の舞いをするな」ということであった。そして同じスロ−ガンで全国へ住民連動が広がったのである。この「ノ−モア・ヨッカイチ」の公害反対の世論と運動によって、これまで沈黙を強いられていた水俣病などの沢山の被害者が、ようやく立上って運動をおこしうるようになったのである。
四日市公害は国際的にも影響をあたえた。一九七五年、世界環境調査団は二手に分れて調査をしたが、私は宇井純君と一緒にフィンランドの国営コンビナート・ネステを訪ねた。会社の幹部とフィンランド大学の生態学の教授が開口一番、私にいったことは「われわれは四日市コンピナ−トの失敗に十分に学んだ」というのである。彼らの説明はこうである。まず、コンピナ−トをへルシンキから四○キロメールはなれた農村部につくった。これは四日市の都市計画の失敗に学んだというのだ。建設前から松林などの生態系の調査をはじめた。公・災害を防止する技術は未発達なので、四日市のように急いで沢山の大きな工場を集積させると危険と考え、ゆっくリと、ひとつずつ、小さくつくることにした。まず石油精製工揚をつくリ、安全を確認して拡張した。七−八年おいて発電所をつくり、その後、生態系の変化をチェックして、石油化学工揚をつくった。石油タンクは岩盤を掘って地下に埋め、排水は処理施設にいれる前に、池にためて浄化した。四日市のように高い煙突はやめ、燃突をふくめて、すべての工揚設備は松林の中にかくれ美しい景観をつくるようにした。

これはたしかに四日市コンピナ−トを反面教師として、その失敗を二度とフィンランドでおこさぬように周到に考えた対策である。これでも公害はおこっているのである。

四日市公害裁判はいうまでもなく中央政府の環境政策に決定的な影響をあたえた。この裁判は沢山の困難をかかえていた。私たちはまだ未熟であった公害の科学を、この裁判の中で前進させようと必死であった。私は公害裁判の科学者証人としては、おそらく日本ではじめて出席したので、いまとちがって裁判所もあつかいに苦労したようだが、私自身も胃が痛く、なるほど緊張した。この時のことはいずれ、ゆっくり書いてみたいが、あの時の三人の裁判官は、感性が豊かで、この事件の重大性をみぬき、正義のための客観的なデーターをもとめていたと思う。私は裁判長室で一緒に昼食をとりながら、彼らのもとめに応じて公害の内外の文献をひとつひとつ紹介したことを、いまなつかしく思いだすのである。

忘れないように

原告患者 野田之一

原告になるときは、いろいろと迷いがあったリ、裁判中はなにかと雑音が入ったリで気が重くなることもあったが、それも、裁判で勝ち、「公害がようなってきたんは、おまんらのおかげや……」なんて言われると、裁判やってよかったなあと思った。
だけど、二○年もたっと、公害裁判のことは忘れられ、病院や公害患者のなかからでも「裁判って、知らんなあ……」といったことを耳にすると、さびしい気がする。
工場や行政は、裁判までしなければならなかったほど、公害と、患者の苦しみがあったこと、いまもつづいていることを忘れんようにしてほしいと思う。

四日市判決

三重大学名誉教授 吉田克己

「四日市公害訴訟判決二○周年」という言葉をきいて、つきなみながら、もう二○年たったのかという感慨が深い。環境庁や県庁などで若い人に「四日市判決」について聞くと、さすがに知らないという人はいないが、何処で知ったのかと言うと、歴史(現代史?)で習ったと言う。「四日市判決はもう歴史か」とこちらがびっくリする。
しかし、四日市判決が歴史に残るものであることはもう明らかなことだし、私が必死の思いで勝訴のために努力した。疫学的因果関係」も定着した。判決当時、私は県公害センタ−所長兼プロジェクト・チ−ム総括として、この判決を背中に背負わせて貰って断行した県の硫黄酸化物総量規制条例も全国的に法制化され、定着している。確かに四日市判決は日本の公害史の転回点になったことは大きな事実なのである。

法学研究の道を決定した裁判

名古屋大学教授 森島昭夫

四日市公害裁判は、私の法学研究の道を決定した。二四年前、アメリカ留学から帰った私は、日本の法律学が余リにも社会から離れているのではないかと思い、現実を知るため、
まず地元の公害裁判を傍聴することから始めた。毎回傍聴している間に、いつの間にか原告弁護団の会議に出るようになリ、澤井さんや多くの方々にお目にかかった。強烈な体験であった。
それからも、私は現実に動く法を見詰めて歩き続けている。

飢えと病

名古屋大学助教授 吉村 功

飢えと病、これが私の行動のキ−ワードです。公書問題で何かの寄与をするのが、私の一つの仕事だと考えたのは、これが病に関係していたからです。私が、四日市に足を運んだのは地元主義、足下主義のせいです。自分ができないことは人に求めない、足下をきちんとしないうちは他に手を出さない、こういう発想法によっています。四日市との関わりが続いている最も大きな要因は、澤井余志郎さんとつきあったためのように感じます。四日市に菜の花畑と白砂の海浜を取リ戻せたらなあと思います。

私と四日市公害

三重大学教授 谷山鉄郎

私が三重大学の助手として奉職したのは昭和四○年、四日市石油コンビナートが華々しく
操業開始して間もないころで、公害間題がマスコミで取り上げられたころである。すさまじい水稲などの農作物の被害や松枯れを目前にして、私はこの調査研究をやろうと決意した。
あれから二六年が経過したが、公害間題は地球規模へと拡大した。今やゼンソク患者数も、公害指定地域だけで、全国で二万人に達した。四日市地域の亜硫酸ガス濃度は、高煙突拡散だけでは解決されず、総量規制の導入によって着地濃度は低下したが、依然として強い酸性雨は降リ続いている。今や、窒素酸化物の総量規制を自動車を含めて実施しないと酸性雨は解決されないだろう。酸性雨が解決されないかぎりゼンソク患者数は低下しないであろう。大気汚染や酸性雨に正直に反応する植物を通して公害のすさまじさを湾岸戦争後の環境調査、東南アジア諸国などで実施している。

僕にとっての「公害の原点」

弁護士 水野武夫

四日市公害訴訟に参加したのは、弁護士二年目を迎えたばかリの昭和四四年五月であった。誘いを受けて、こんな裁判が成リ立つのかなと思いながら、簡単に参加を承諾した記憶がある。現地も見ていない、被害者にも会っていなかったのだから、「公害被害者根絶のために」などという大義はない。これが、二○年余りも公害間題に取り組むきっかけになろうとは、思ってもみなかった。
この裁判を通じて教わったことは、余りにも大きい。このときの経験が、大阪空港公害訴訟や甲子園浜公害訴訟などで大いに役立った。弁護士会の公害委員会での活動への原動力にもなった。
四日市公害裁判は、小生にとって文字どおリ「公害の原点」なのである。そしてまた、弁護士としての生き方を決定づけられた事件でもあった。よくぞこの裁判に参加の機会を与えられたものだと今でも感謝している。

感動の日々

東京新聞文化部 伊藤章治

駆け出しの新聞記者として、昭和四○年から四年余、中日新聞四日市支局に勤務、公害のすさまじさと反公害運勤の高まりを追う日々がつづいた。初め、もの言わななかった患者たちが、堪忍袋の緒を切り、公害訴訟へと突き進んでいった感動の日々が忘れられない。
東欧の激動をテレビでながめながら、「これは四日市と同じでは」と思った。「人間が人間らしく生きる世の中」を求めて戦った患者たちは、確かに世界史につながっている。
(『原点四日市公害一○年の記録』の著者・小野英二は、伊藤章始の筆名)

あの”勝利“以後

NHK名古屋放送局 二日市 壮

石原産業四日市工揚に向う貸切りバスの一団は、まさに意気軒昂、戦勝気分にあふれていた。全員、顔が輝やいていた。
一九七二年七月二四日、公害訴訟原告勝利の判決を受けての仮執行団のバスに私は同乗していた。しぶる工場正門を裁判所の権威を示して強引に通過。事務所に入ると、執行官は
すぐ金庫の中の現金を収納した。八、○○○万円ぐらいはあったように思う。湧き起る歓声。私は取材考でありながら、心情は被害住民と一致していた。
あれから二○年、県や市はもう四日市の公害は克服したという。公害防止技術も世界に売リ出そうとしている。しかし四日市の公害は、まだなくなっていない。
四日市の教訓も十分に生かされずに、環境破壊は日本の深層で進み、世界各地で激化している。

「四日市」について

東海テレビ 大西文一郎

あの歴史的な「勝訴判決」のあった一九七二年よリ二年前の一九七○年のひと夏を、磯津のうどん屋さんの二階に泊リ込んで、ドキュメンタリー制作に取リ組んだことを、いまで
も、鮮明に記憶しています。真夜中、二階の窓をあけて寝ていると、〃亜硫酸ガス〃のにおいで、よく目を覚まされたこと。磯津の漁師さんに、「事ある時だけ来るようなテレピなんか、信用出来ない」と言われたこと。塩浜小学校の校庭に掲げてあった「コンビナ−ト賛歌」の校歌のこと。そして、塩浜小学校の生徒たちの顔、顔……。あの子たちも、もう立派な大人になっていることだろうナ。
ところで、地球規模の環境汚染は、止まるところを知らない速さで、進んでいます.先日も、チェコ・北ボへミア地区の大気汚染のピデオを見ました。六○年代の四日市の再現を
見るようでした。四日市は「勝訴」しましたが、地球は、少しもきれいになっていません。環境破壊も、世界各地で確実に進んでいます。「判決二○周年」を機会に、みんなで、話し合いましょう。「四日市」が思い出となってしまわないように。

感謝する時代に

公害訴訟を支持する会代表委員 吉田うた

四日市公害訴訟も歴史的存在になリつつあるが、当時、日本中に実状を訴え、支援を続けた者達は、思い出す度に胸があつくなる。現地で「俺ら会社で食っとるのやで何も聞かんといてくれ」と悲しげに目を伏せた食堂や靴屋の小父さんの顔が目に浮ぶ。そんな苦しい中を子孫のためにと原告になり、勝利をかちとってくれた方々のおかげで今日の四日市があることを市民全体が素直に感謝する時代がきているのではなかろうか。

支持する会の活動をふりかえって

元三重県教組北勢高校支部書記長 岸田和矢
津市立南郊中学校長

全国初の大気汚染訴訟が提訴された時、これを支持する人々の力が弱かった。そこで、「四日市公詳訴訟を支持する会」を組織し、会員は個人加入を原則にして活動した。だが、団体を中心とする運営にならざるをえなかった。この点を判決後、企業側に巧妙に突かれてしまった。
支持する会は、会員の拡大・運営上の間題など、内部の議論にかたよリ、相手企業の対応の分析等に欠け、ひそかに進められていた策謀に乗せられ、判決を迎えてしまった。公害訴訟の相手企業は、日本の産業界の中心の企業であり、判決の影響は日本経済の命連を左右するだけに、あらゆる角度から対応を計画し対処したと思う。勝利判決を武器に、動揺する各企業よリ、立入権などの画期的な成果をあげながら、企業側の攻撃によリ、いかしきれないような体制にされ、現在の路線の定着化と公害の空洞化を許してしまった。
「米本判決」をもう一度考え、公害の原点をみつめ、新しい運動の構築をはかる第一歩としたい。

「公害の街」から「星空の街」へ

元四日市市職労委負長 有竹 一師

大気汚染都市として世界的に悪名を轟かした「四日市」が、住民の反公害闘争の窮極として「公害訴訟」を提起、勝利して二○年。この間、公害ぜんそく患者が数多く死亡しました。また自殺まで追いやられもした。私は、地方自治体職員労働組合の、労働運動の一環として、住民のくらしと健康を守るため闘ったことが、頭の中を昨日のように反射してきます。私はあの貴重な訴訟勝利の意義を絶対に風化させてはならないと「星空の街」という甘い表現に四日市の空を酔うことなく、常に地域環境を良くしなければならないと想っている。

公害行政のまきかえし許さず

元三重県議会議員 萩原量吉

当時、私は高校の化学の教師として、教組に公害対策委員会をつくリ、地域の公害学習会などに参加しながら公害訴訟を支持してがんばっていました。訴訟が結審を迎えた一九七一年、県議選に立候補して県議会で県公害防止条例の抜本的改正や公害対策予算の増額のため努力してきました。勝利の判決がどれだけ大きな力になったか、その後の行政や企業の取リ組みの姿勢が大きく変リました。
今、あらためてこの判決の趣旨を生かして、公害行政のまきかえしを許さず努力をかさねる必要性を痛感しています。

あの旗を!

公害患者をはげます会会長 訓霸也男

水質や土壌ではなく、雲をつかむ思いで扼腕の時、科学者や弁護士に支えられ、そして勝利を世界に送った。亡き山崎心月老が墨染のコロモで、ひそんでいる患者を訪ねまわった。患者の会は、地方自治法二条三項の一 『住民及び滞在者の安全、健康及び福祉を保持すること」この旗を追求した。多数の発生源煙突を横目に、患者住民は行政要求をくリかえした。
子どもに黄色いマスク、公害住宅入居不補充、患者認定制度等々。公害は、右左もれなく全地域住民の害、地域問題である。住民自治は、最低の者を満足させる運動である。しかし単なる経済要求とうけとられては、地域に白い目が残る。文化的要求へ高められなかったことは、わが力量の不足として臍を噛む。
空を残す、しかも真を写した記録こそは、静かでも風化しない。そして住民自治は二○年たっても風化しない原点の原点である。

こん日こそ米本判決の意義を

公害から子供を守る母の会役負 清水民子

忘れません。四二年九月、津地方裁判所四日市支部へ「公害の訴状」が提出されました。母親の熱い願い「公害から子供を守る」運動が大きな力の中へ入っていきました。公害被害者救済法も出来、公害はやっと法律の上で認められました。四五年三月「公害から子供を守る塩浜母の会」が出来ました。公害から子供を守るそのための関心を強く持ち、一人一人が考えるだけではなく、公害病やその原因となる公害をなくし、母親が手をつなぎあい、生身の体で受けとめて立ち上がリました。
四七年七月二四日、四年二ヶ月にわたってすすめられていた「四日市公害裁判」が原告側全面勝訴の判決が言い渡されました。
「人の生命、身体に危険があるときは、企業は経済性を度外視して最高の技術知識を動員して防止すべきである」
この事は、工業地域の大気汚染に苦しむ人々に勇気を与え、青空をうばった企業はもとより、政府、地方自治体を追及しています。
今日もまた、公害発生源のコンビナ−トの煙突から燃が出ています。悪臭に悩まされています。燃焼塔から炎が出ています。
環境行政が後退しています。公害意識が風化しています。今も公害は続いています。
こん日こそ、米本判決の意義をもう一度、衿を正し原点に戻して、何をなすべきかを熟慮すべき時ではないでしょうか。

「助っ人」として学ぶ

四日市公害と戦う市民兵の会 伊藤三男

学生時代は三重県を離れていて、戻って教員になったのが一九六八年。だから、僕の教員生活は四日市公害とともに始まったともいえる。悪臭と汚れた大気に驚き、組合の動員や
ら公害対策委員、そして市民学校をきっかけとしての市民兵の仲間入り。
市氏兵は「助っ人」を標榜してはいるが、僕にとっては患者さんとの語らいが、教員のみならず、僕自身の人間としての高まリに力を与えてくれたような気がする。反公害運動は
「自分のため」のものでもあったというのが実感である。
この写真集はそうしたかかわリの多くを振リ返リ、残された課題やら、未来への道のりをも考えさせてくれることとなった。