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この写真集に託するもの

四日市公害の現地の生き証人であり、独自の立場で反公害の運動を支えてこられた澤井余志郎さんが、長年地道に記録された膨大な写真を散逸させたくない、何かの形でまとめておくことができないかと思案されているということが、風の便りに伝わってきました。折りしも今年は勝訴判決20周年の年にあたります。国の内外にさまざまな問題が生起し、環境問題も地球規模の世代的責任が問われている昨今、澤井さんの写真を手がかりに、あらためて四日市公害訴訟の歴史的意味合いを振り返ってみることも必要ではないかという議論が、四日市公害訴訟弁護団の中でかわされました。
このようにして、弁護団有志と、澤井さんを中心とする現地有志とで編集委員会が作られ、作業が進行することになったのです。

昭和40年代は、日本の裁判史上、一時期が画された時代と言われています。富山のイタイイタイ病訴訟、四日市公害訴訟、熊本水俣病訴訟と「四大公害訴訟」と言われる裁判が継起し、次々と被害者救済の法理が確立していく中で、人権の砦として司法が光り輝いた時代でした。
その四大公害訴訟の中で四日市裁判は、進行形の公害を俎上にのせ、コンビナート立地をめぐる産業公害を裁くという点で特徴的でした。それは、昭和30年代以来の高度経済成長政策の負の部分を凝視するという意味で、また今後の産業政策に大きな影響を及ぼさざるを得ないという意味で、まさに世間の耳目を集めたのです。1972年7月24日の「米本判決」が政財界を震撼させた判決と論評されたのは、いわれのないことではありませんでした。
四日市公害の発端は、昭和30年の旧海軍燃料跡地払い下げの閣議決定にあります。昭和33年の昭和四日市石油四日市精油所の操業開始以来、急速に石油コンビナート(塩浜地区第一コンビナート)が形成されていきました。
昭和36年頃、市公害対策委員会も磯津地区の亜硫酸ガス濃度に注目し始めるのと軌を一にして、「塩浜ぜんそく」が表面化していきます。昭和38年には厚生・通産両省の「黒川調査団」も現地調査を行い、またこの年「磯津蜂起」と呼ばれる漁民の自然発生的抗議行動も起き、また反公害の市民組織として四日市公害対策協議会も結成されています。
「公害の街四日市」はこのように世間の耳目を集めていきますが、反公害の運動は一口に言って苦悩とともに曲折し低迷していたといって過言ではないようです。
第一コンビナートに次いで第二コンビナートも稼働を始め、既成事実は進行を続けます。四日市市民の手にしたものは、昭和39年にザル法の悪名高かった「煤煙規制法」の適用地域の指定を受けたことや、医療費の自己負担分を市費で補助する公害認定制度を発足させてことなど微々たるものであり、逆に何らかの抜本的対策が講じられないまま公害は危機的様相を深めていったと言えましょう。
四日市市職員組合が編集した小冊子「公害からの解放のために」には、この頃の公害患者の死亡状況を左表のように要約していますが、このような時、一つの象徴的事件が起こります。第三コンビナート埋立て問題です。

第二コンビナートの北方の霞ケ浦と呼ばれる地域、四日市市民に残された唯一の白浜青松の海浜地帯約40万坪を埋立て、第三コンビナートを造ろうという計画が県と市によって立てられ、当然のことながら反公害の住民と激突することになったのです。
四日市市当局は異常な努力で強行突破を試みます。「そのエネルギーの半分でも既存の公害に向けられたら」という痛烈な批判の中で「アメとムチ」の働きかけが続けられ、遂に昭和42年7月28日、公有水面埋立法に基づく市議会の賛成決議が、公害反対の市民がぎっしりつめかける中で、異例の無記名投票で強行採決されたのです。

公害被害が放置されたまま産業優先の既成事実だけが大手を振って進行するーこの事態にどうしても歯止めをかけなければならないという切なる思いが、公害訴訟提訴につながっていったのです。
「しかしなあ、わしは覚悟しとるんや。一日も早う訴訟やってもらいたい。誰に頼んでもだめなんだから、もうこれしかないんや、裁判だけや。」ー最後の期待をかろうじて司法の正義につないだと言ってもよいこの被害者の痛恨の心情は、後に最終準備書面の中でも触れられたところですが、公害都市四日市の当時の状況を浮彫りにしてあまりあるものです。
いわば被害者たちは起死回生の一手として裁判を求めたのです。
被害者たちの裁判への期待は、現地の運動家を通して名古屋の東海労働弁護団のなかに持ち込まれてきました。なにせ全国初の大気汚染訴訟であり、乗り越えなければならない壁はあまりのも多くありました。被害者をどこに特定するのか、自治体や国の責任を問えないのか、低濃度亜硫酸ガスの人体影響等の因果関係はどうか、コンビナート構成各社の共同不法行為の立証は大丈夫なのか等々、模索に模索が続けられました。
訴訟担当の弁護団は東海労働弁護団の枠をはるかに超え、名古屋弁護士会の中堅・若手の総力を結集する形で形成されてきていましたが、訴訟提起の決意そのものが法律家集団にとって使命感に支えられた思い切った決断だったといえるでしょう。
原告は公害激甚地磯津地区の公害病認定患者9名、被告は第一コンビナート構成企業6社、賠償請求額8340万円余ー直接の加害企業に対する素朴な不法行為責任の追及を通して混沌の中に一筋の道を切り開くのが目的でした。
ちなみに訴訟提起の当日、マスコミに感想を求められた四日市市の助役の一人は、「喘息など長野県にもある」と心外な気持ちを吐露してしまいました。訴えられたコンビナート構成企業との、この一体感こそ、開発を推進してきた自治体当局の本音だったのです。
訴訟提起後の経過は、別記年表で明らかです。注意されなければならないのは、訴訟がこのような目的をもつ以上、運動もそれにあわせて再編成されていったことです。
第一回口頭弁論の前日である昭和42年11月30日、「公害訴訟を支持する会」が誕生しました。この市民組織は、個人加入を建前として、公害訴訟を勝利させるという一点に市民のエネルギーを結集することを呼びかけました。四日市市では画期的なこととのことですが、数ヶ月を経ずして3000名の会員を獲得したと言います。公害の原因等についての研究体制も整備され、情宣活動の質も高められました。
折りから訴訟提起に注目したジャーナリズムの動きとあいまって、公害反対運動の沈滞間は一掃され、運動は訴訟を軸にして前進していきました。
要するに、低迷と挫折の中にも公害反対運動が厳然と存在したからこそ訴訟という手段に踏み切ることもでき、また公害訴訟を軸として公害反対運動も再編強化されていったと考えられます。
訴訟の後半の頃からですが、反公害の助っ人として「四日市公害と戦う市民兵の会」というユニークな組織等も誕生し、四日市公害の原点磯津の住民と深くつながりを持つようになりました。

次第次第に天の利、地の利が備わってきました。全国津々浦々に公害反対の民の声が満ちはじめ、それぞれの土地のそれぞれの戦いであった4つの公害訴訟が、最初はかすかに、最後は大胆に、一筋の太い糸で結ばれていきました。
昭和46年6月30日、富山イタイイタイ病裁判に勝訴して疫学的因果関係論を確立し、ついで同年9年17日、新潟水俣病裁判に勝訴して公害企業の過失責任論に金字塔を打ち立て、そして翌昭和47年7月24日、いよいよ四日市公害訴訟判決を迎えるに至ったのです。
コンビナート構成各企業の共同不法行為による公害責任を断罪した「米本判決」は、このような天の利、地の利、時の利を反映した確固たる判断であったといえるのではないでしょうか。
実際に判決当日、通産大臣中曽根康弘は、その真意はともかくとして、「米本判決を神の声として受けとめる」と言明しました。判決当夜のNHK討論会の席においてでした。しかし彼は、通産行政の長として加害企業各社に控訴断念を指導せよという原告側の要望には耳をかしませんでした。

被告ら企業各社に控訴を断念させ、米本判決を確定させたのは、判決を高く掲げて迫った四日市公害反対の運動でした。判決当日強制執行に着手した後、翌日から被害者住民は上京し、丸の内の三菱三社ならびに昭和四日市石油各社を巡って直接交渉に入りました。無用な抗争をやめ、事実を直視せよという被害者の要求は、全国津々浦々の公害反対の世論とあいまって、被告各社に控訴を断念させ、しかもその後の公害反対運動の足がかりとなる誓約書を各社から獲得することに成功しました。
三菱各社の変わり身の早さと比較して、電力業界の危機感をバックとする中部電力が最後まで控訴断念に抵抗したことが印象的でしたが、怒涛のような反公害の潮流が米本判決のインパクトを増幅させ、企業姿勢の転換を導き出したのです。
注目に値するのは、各社の誓約書には単に控訴の断念だけでなく、三菱油化の河原田地区進出の中止や昭和四日市石油の増産計画の見直しなどが盛り込まれていたことと、住民・諸団体の立ち入り調査権を認めるなど画期的な内容が含まれていたことです。
被害者住民の反公害の矛先は、米本判決を確定させた後、自治体当局にも向けられました。裁判の被告とはされなかったものの、無反省な拠点開発のお先棒をかついだ責任は明白であったからです。三重県当局も、四日市市当局も、過去を謝罪し米本判決の精神に立った反公害の立場を約束せざるを得ませんでした。三重県当局により硫黄酸化物の総量規制が全国に先駆けて四日市地域に施行されていったのもこの裁判が契機となっています。
四日市公害訴訟の最終段階に、公害の原点磯津の母親を中心に、磯津地区のほかのすべての公害病認定患者の救済を求める声が高まり、第二次訴訟提起の動きが起こっていました。弁護団は当面の訴訟に的確に勝利するべく力を集中するようリードしていましたので、米本判決確定後、踵を接してこのことが問題化することは明らかでした。
このような流れが存在したからこそ、前述した東京行動などには磯津のお母さんたちが多数参加していたのですが、誓約書でも、磯津の全公害病認定患者への賠償問題を、現地磯津の公民館で誠意を持って交渉する旨各社に約束させてあったのです。
この土台の上で磯津直接交渉は三ヶ月余り続けられ、この年11月30日調印されました。救済された被害者は140名、賠償金額は五億六千九百万円でした。
昭和48年には、四日市市全域の公害病認定患者への賠償問題が問題化しました。これは公害患者の会を中心に運動化されましたが、被害者側のこのような直接請求の声をかわす形で、「四日市公害対策協力財団」なるものが四日市全域の企業群によって作られ、患者の会は、この財団と交渉することを余儀なくされました。

患者の会の「四日市公害被害者に対する汚染源企業による共同救済に関する提案」に企業側は答えず、姿をくらます等、「財団交渉」は難航し、患者の会が四日市商工会議所に泊り込み篭城すると言う経過もありましたが、この問題はこの年の10月「公害健康被害の補償とうに関する法律」が国会で成立し、全国の公害健康被害の救済の道が曲がりなりにも開けたことをきっかけに、四日市市全域の患者達には財団に一定の上乗せをさせることで一応の解決を見ました。

米本判決は、その後の四日市の反公害の闘いにも種々の影響を与えています。小野田セメント公害訴訟は米本判決に勇気づけられて提訴され、勝利しましたし、三菱油化に判決後の誓約書で河原田地区進出を断念させた流れを受けて、同じ地区の住民が魚アラ処理場反対に立ち上がり、いくつかの訴訟も経て建設を断念させました。
判決後獲得した企業への立ち入り調査権は数度しか行使されていまいせんが、四日市公害を監視する住民の動きは、「記録・公害」誌の発行等根強く続いております。
東芝のハイテク工場の進出の問題、石原産業の廃棄物処理場の問題、さらには老朽化したコンビナート施設の災害問題等、原点に戻って考えなければならない問題も多々存在します。また、ゴルフ場における農薬汚染問題等の四日市周辺の新たな環境問題も注目されてきております。

あれからすでに20年の歳月が流れようとしています。
その20年の総括は短い紙面では不可能です。しかし、この写真集が、単なる懐古趣味の所産ではなく、観る人の受けとり方は百人百様であるとしても、少なくともそれなりに重い歴史の足跡を刻印しているものである以上、この小論も一つのまとめをしなければならないと思われます。
今、「米本判決」といっても、道行く人々のほとんどは答えることができないでしょう。たとえば、四日市市環境部のパンフレットを見ても、公害訴訟も、住民運動も何一つかたられていません。単に、昭和30年代のコンビナート操業に伴って大気汚染が発生したこと、呼吸器疾患が社会問題化したこと、しかし総量規制の導入によって硫黄酸化物の環境基準が達成されたことが平板に語られているだけです。そこには、一方的受忍を強いられた住民の苦悩も、無視され続けて死を選んだ患者の怒りも、そしてまたあの夏の日のめくるめくような勝訴判決の感動も何一つ語られてはいないのです。
確かに総量規制は一定の進歩だったでしょう。しかし、その選択は、大きなあやまちをかみしめた反省の結果であり、また企業や自治体にそれをかみしめさせたものが被害者住民のぎりぎりの闘いであったことが忘れ去られるとき、単に進歩だとだけ言い切れなくなるのではないでしょうか。現に、新たに窒素酸化物をめぐって環境問題は大きな課題をかかえているのです。
また、企業の公害問題への一定の転換が存在し、日本が技術面で公害防止先進国と自負する一面がかいまみられるとしても、前述した歴史的認識に立った真実の反省がないかぎり、資本の論理はひたすら拡大されていく結果となります。日本企業の海外での公害たれ流しの問題がクローズアップされているのもいわれのないことではありません。
地球規模の環境問題がしきりに叫ばれてきている昨今、この写真集が産業公害の原点を足元から見つめ直す手がかりともなれば幸いだと心から思う次第です。
(文責・弁護士 郷 成文)
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