田尻宗昭氏の面影
弁護士 郷 成文
ここに私宛の一通の電文があります。「ゼンメンショウソココロ力ラオイワイス タジリ」発信地は和歌山県田辺市。
田尻さんは、海上保安部警備救難課長としての新任地から、この祝電を寄せられたのです。
この年、岩波新書から『四日市・死の海と闘う』を出版されたばかりでしたが、短い電文の中にひたむきな海の男の情念が鮮やかに感じられました。
四日市在任中の田尻さんが、日本アエ口ジルや石原産業の港湾汚染に立ち向かわれた経緯は前記著作にも記されていますが、水質汚濁と大気汚染と形は異なっても、四日市公害訴訟の行方には深い関心を寄せられていたようです。
一九七一年七月、石原産業の企業内証人に対する反対尋間の段階で、人を介して弁護団との接触を求められてきました。奇しくも田辺へ赴任される当日の早朝、駅前のホテルの一室で初めてお目にかかったときのことを今でもまざまざと思い出します。
公害たれ流しに対する憤リ、企業人の誤った忠誠心等々、話は尽きませんでした。大きな眼をぐリぐりとさせ「頑張って下さい」と励まされましたが、それから一年後、勝訴判決となったのです。
田尻さんは一九九○年七月四日、亡くなられました。
大島・今井両先生を偲ぶ
四日市公害訴訟の因果関係、即ち低濃度亜硫酸ガスと閉塞性肺疾患の因果の証明は「疫学的立証」によりました。既に富山イタイイタイ病裁判でとりあげられた手法ですが、三重県立大学医学部公衆衛生学教室所属産業医学研究所のスタッフが、綿密なデータ−と専門的知見を提供してくれました。
大島秀彦光生は同研究所の助教授、今井正之先生は同講師、主任教授の吉田克己先生ともども証言台に立って下さいました。大島先生にはSO2濃度と喘息発作との相関関係について、今井先生にはラットの動物実験について貫重な証言を頂きましたが、弁護団医学班の顧間格として種々お教え頂いた両先生の温容は終生忘れ得ないところです。
両先生は相次いで亡くなられましたが、心から御冥福を祈る次第です。
父「米本清」のこと
弁護士 乾 てい子
父は、今は松阪市になっている田舎の村の村長さんの次男として生まれました。「やまが」育ちでしたので、どこか大きな自然を感じさせるところがあリました。たくさんの趣昧をもっていまして、自分で採ってきた土をこねて茶碗を焼いたリ、写真を撮ったり、草や木を育てたり、書や絵をかいたリなどする一方、鳥や犬などの動物をとても可愛がって飼っていました。どれも形にこだわらない自然流で楽しんでいる様子は、いつも自然のいのちを愛していたようにみえました。
裁判官の頃は、家で仕事の話はしませんでしたので、四日市の公害裁判にどんな気持でかかわったのかを聞いたことはあリませんが、当時私が長男を出産したときに、仕事にさわるからというので里帰リさせてもらえなかったくらいでしたので、とても緊張して集中していたのだと思います。前任地の大垣で白内障の手術をして片方の目はほとんど視力があリませんでしたので、たくさんの本を読んだリするのは大変だったのでしょうが、そんなそぶリはあリませんでした。
父が平成元年三月に死去し、三回忌を迎えた時に、家族で父をしのぶ小冊子を作リました。公害裁判の関係の新聞記事を引用した中に、弁護士の北村利禰先生の談話があリました。父の葬儀の日、先生は「裁判の間われわれは米本さんに全幅の信頼をおいていた。判決当日は名医にかかったような気持で、死んでも(負けても)仕方がないと、非常に落ち着いた気持だった。と話されたとあリます。裁判官としてこれほどの幸せはないと思います。