1999年10月6日

四日市市長 井上哲生様

四日市再生「公害市民塾」

代表 澤井余志郎

四日市の原風景“菜の花畑”の回復について

 1960年代前半頃まで、四日市地方は、4月ともなると、辺り一面の田んぼは、菜の花の黄色のじゅうたんで敷きつめられていました。
 花の終わった後、菜種湯として生産され、江戸時代元禄の頃より、「伊勢水」として有名になっています。
 その菜の花は、四日市に石油化学コンビナートが作られ、公害が激化した頃から、その姿を消していきました。

  1.  四日市公害は、1972年7月の「四日市公害ぜんそく裁判」での「患者側勝訴判決」がきっかけとなり、厳しい法規制や公害防止技術の研究開発もあり、改善をみるに至っています。
     かといって、今も600年近くの公害認定患者がおり、病院通いやひどい発作に苦しんでいる患者さんたちもおられる以上、「克服」「終結」などといってすまないことだと思います。

  2.  そうしたことから、改善の証として、また被害者・市民への癒しとして、公害前の四日市の原風景「菜の花畑」の回復を、行政としても積極的に取り上げていただき、純国産(地場産)の食用油「伊勢水」の復活と、滋賀県愛東町にならっての軽油代替燃料作りへと進める「四日市のよみがえり」をはかっていただくようお願いします。

  3. 「菜の花畑」の再現については、四日市が生んだ作家丹羽文雄さんが、たった一句だけ作った俳句「古里は 菜の花もあり 父の顔」(鵜の森公園にある句碑)とか、小説「菜の花時まで」に、・・・・・・・4月9日の海山道の稲荷祭にあたっていた。朝早くから午後になっても、海山道参りの人は菜の花に埋まって歩いていた。・・・・・・・・あるいは「をりふしの風景」には、・・・・・・・・子供のころ、崇願寺の庫裡から眺めると、一望の菜の花畑であった。姉弟の思いでは、菜の花によって象徴されている。・・・・・・・・・・など、四日市は菜の花との思いを強くされています。

  4. その文豪、丹羽文雄さんに、四日市市は、1978年3月、名誉市民の称号を送り、本年度の市予算に、“丹羽文雄記念館”の調査費を計上されているとのことでもあり、地域文化の発展、公害地域の再生の両面からも、ぜひ“菜の花畑”の再現を進めていただくよう、お願いします。