4月9日は海山道の稲荷祭にあたっていた。朝早くから午後になっても、海山道参りの人は菜の花に埋まって歩いていた。

−丹羽文雄『菜の花時まで』−

 1960年代前半頃まで、四日市地方は、4月ともなると、辺り一面、菜の花の黄色のじゅうたんで敷きつめられていた。
 花の終わったあとの菜種油の生産は、江戸時代元禄の頃より、“伊勢水”として有名になっていた。
 その菜の花は、四日市に石油化学コンビナートが作られ、公害が激化した頃、その姿を消していった。

四日市公害は、菜の花畑を根こそぎつぶしたところで発生し、何人もの自殺者、1000人を超す公害ぜん息患者を生み、“俺たちにも生きる権利がある”と、被害者が公害裁判を起こし、患者側勝訴判決によって公害発生源対策がとられるようになった。

現在、四日市公害は「終結」した「克服」したと、言われている。確かに、発作に苦しみ、自殺することでその苦しみから逃れるといった悲惨な状況はないが、以前として600人近くの“公害認定患者” がおり、病院通いもしている以上、「終結」「克服」などで、そうした患者たちを切り捨ててはいけない。

公害ぜんそくを引き起こした”亜硫酸ガス(SO2)が、環境基準値以下になったことは事実であり、その分、発作の苦しみも低減した。だからもういいということにならない。“ノーモア四日市”“公害イメージ払拭”は、言葉だけでなるものではない。

そこで、「公害地域再生」・「原風景回復」を考え、実現を図りたい。その一つは、“渚”の復活であり、“菜の花の風景よみがえり”である。(松林、砂浜、泳ぐ、貝採り、立干といった”渚”の復活は、長期展望にたってやらなければならないとして、当面、菜の花の原風景復活を考えたい)

菜の花をこよなく愛した四日市出身の作家・丹羽文雄は、四日市市名誉市民であり、四日市市は、“丹羽文雄記念館”づくりについて、本年度、調査費を計上、計画実現を目指している。その記念館は、菜の花に囲まれて建つことこそ、丹羽文雄にとって意義あることである。

一方、四日市出身といっていい、ジャーナリストの伊藤章治さんは、四日市を離れたあとも、いつも四日市、−丹羽文雄の描く菜の花の風景に共感−を想っている。(東京新聞 「論説室から」1999/6/27)

伊藤章治さんは、公害裁判の頃、中日新聞四日市支局記者をしていて、小野英二のペンネームで、「原点・四日市公害10年の記録」を、勁草書房から出版、現在、東京(中日)新聞東京本社で、文化部長を経て、編集局次長。

滋賀県の愛東町では、町の休耕田に菜の花を植え、21世紀はじめまでに菜の花からの油で自動車を走らせようと、“菜の花プロジェクト”がスタートしている。
菜の花の風景は四日市が本場、愛東町のことなども参考にしながら、菜の花の風景をよみがえらせたいものだ。そのため、志のある者、関係者・団体の創意、努力を結集して!