四日市公害被害地を訪ねる

JR四日市駅を出発

本町プラザ(4F・四日市市環境学習センター)

四日市には、この市の施設と、山の方の桜町に、三重県環境学習情報センターと、同じような施設が2カ所ある。共通しているのは、どちらも公害ぬきということである。

市の環境保全課は、「公害は環境に含まれる」と言い、公害の話を聞きたいと言われれば、市の職員がお話をしていますとしているが、公害とは、被害を被ることであり、たとえば、毎年秋に公害学習で四日市を訪れる小学校5年生の知りたいことは、「なぜ、ぜんそくになったのですか。どんなに苦しいですか。」「コンビナートの工場が来た時どう思いましたか。」「コンビナートがにくいですか。」「何で裁判をやったんですか。」と言ったことであり、こういうことこそ語り継ぎたいことなのである。こうしたことを、たまたま係となった市の職員に求めるのは無理である。

環境の中に公害が含まれているという言い方は、ここ四日市では全く正しくない。公害を覆い隠す、公害にふれさせないために使われているとしか言いようがない。

環境教育はどこでもできるが、四日市公害学習は四日市でしかできないことを知るべきである。

四日市は江戸時代より菜種油の生産が盛んで、“伊勢水”としてその名が通っていたし、四日市出身の作家・丹羽文雄は、四日市をえがくときには好んで菜の花をとりあげている。『菜の花時まで』−「4月9日は海山道の稲荷祭にあたっていた。朝早くから午後になっても、海山道参りの人々は菜の花に埋まって歩いていた。」

塩浜街道、公害のひどい頃、ここは、“公害銀座”と呼ばれ、悪臭、粉塵など、五感でとらえられる現象があり、街路樹の葉も、年1回生えかわるのではなく、2回、3回とかわっていた。工場のまわりには、亜硫酸ガスに強い木ということで、夾竹桃やカイズカイブキが植えられている。強いといっても、枯れることがあり、枯れて植えかえしたのを写真に撮ったこともある。

第1コンビナート(臨海部)

 曙町から大井の川を渡ると、塩浜街道の東側に位置するのが、第1コンビナート。
 北の方から三菱モンサント化成四日市工場。この工場は、量はカネカに比し少ないとはいえ、PCBを生産しており、生産禁止になってからPCBが集まってきており、プラント撤去後の空き地で焼却処分する計画を立てている。
 モンサントは、PCBや水銀、カドミウムなどの有害物質を入れたドラム缶をこっそりと、鈴鹿市の山林へ埋め立て廃棄していたのを住民が知り、さわいだところ、県と工場は60本程度と言っていたが、掘り出させたら、1243本も出てきた。(1974年4月)


モンサントの次は、三菱化成四日市工場。公害裁判で、モンサントと化成は、排出量は少なく煙突も低いので、原告患者の住む磯津へは煙が到着しないと、数式で反論しており、判決でこの両工場は協同不法行為からはずれるという心配もあった。
 この両工場の数式を、磯津に近い工場に当てはめると、煙は磯津に到着する。

 次は、三菱油化四日市事業所。この工場が、コンビナート各工場の原料となるガスを、ナフサ(粗製ガソリン)を分解、主原料のエチレンを生産するコンビナートの心臓部である。
 現在は、昭和四日市石油からナフサを供給してもらうのではなく、そのほとんどを海外からのやすいナフサを輸入、そればかりではなく、エチレンの生産設備のプラントも撤去してしまうありさまで、コンビナートの態をなしていない。
 三菱油化は、化成からはじき出された人たちで会社を成り立たせ、やがては、化成をしのぐ、業界第一の石油化学会社となったが、化成との合併を目指す社長に重役たちが反乱、やくざまがいの争いの末、社長を追放、三菱銀行出の重役が社長におさまった。その一部始終を、企業小説家の清水一行が『背信重役』の題名で小説化している。(角川文庫、集英社文庫、最近では徳間文庫)このクーデターのおこなわれたのは、公害裁判判決の年の6月であり、7月が判決という会社にとってもっとと重要な時期である。

 この3社は、国際競争力をつけるとして、1994年10月1日に合併、東洋一の大石油化学会社「三菱油化」となった。
 その前日の9月30日は、公害ぜんそく患者たちのよりどころであった県立塩浜病院が閉鎖された日で、病院の屋上に上ってコンビナートを撮影、その帰り、化成の前を通ったら、「三菱化成」の看板をはずし、「三菱化学」の新しい看板をとりつけていた。

 取り壊された県立塩浜病院跡地は、「人が呼べる施設を」と行った地元自治会の要望などで、健康センターが43億円で建てられたが、利用者が少なく、毎年2億円の運営費を支出、借金返済もあり、市民オンブズマンから閉鎖してはの意見も出されている。

昭和四日市石油四日市精油所

 徳山、岩国、四日市にあった陸海軍燃料廠跡地の争奪戦を、国際資本も加わって繰り広げられ、昭石は当初、岩国に決まっていたが、最終的には四日市海軍燃料廠跡地に、将来、三菱とコンビナートを組むことを条件に払い下げを受けた。
 昭石は、裁判中に8万バーレルのプラント増設をし、判決の頃、完成をみていたが、判決後、住民の合意なしに運転しない旨の誓約書を書き、何とかして同意を得ようと、中央労働団体幹部や、地元有力者、学者などを味方に、運転を可能にした。そのときの技術管理部長は、その後、三菱シェル石油の社長になった。
 昭石の従業員で、心ならずも会社側弁護士付きとなった社員が、定年を前に退社、『罪の量』(つみのかさ)という小説を書いた。その小説の半分は公害裁判の進行、あとの半分は、労組役員選挙に会社が介入、共産党員が10万キロリットルのタンクに閉じこめられ、原油を流し込まれたあと、別のタンクに移送されることによってあとかたもなくなくなるなど、フィクションだがノンフィクションでもある小説で、会社が敗訴したことを口惜しがったが、公害患者に思いをいたす従業員はいなかったと、なげいてもいる。(青柿堂・発行/星雲社・発売)

 いまはない、中部三重火力発電所。
 石炭で出発、重油にきりかえた。裁判中に120メートルの煙突がたてられた。

【疾風汚染】

 大気汚染は、風向きによって左右される。夏季には、海側から内陸部(市街地はコンビナートの風下となる)へ、冬季には、鈴鹿山脈から伊勢湾へ(磯津は風下となる)と風が吹く。従って磯津地区は12月から3月にかけ、高いSO2汚染がみられるようになる。

 中部三重火力発電所(断面図)の煙は、発電機の建屋でダウンし、鈴鹿川でダウンしたまま磯津の集落へ流れこんでいく。第1コンビナートではどの工場も、火力の煙突よりも低かった。
 発電機を冷やすのに、生物ゼロの四日市港の海水を使い、反対側の鈴鹿川に放水、くさい魚発生の原因をつくった。

石原産業四日市工場

 ぜんそく裁判の被告工場(民事)でもあったが、四日市海上保安部(田尻宗昭警備救難課長)に、1日、10万トンの廃硫酸(検挙までに1億トン)をたれ流しを摘発され、刑事裁判の被告ともなり、10年間の公判をへて、有罪判決(罰金8万円)があった。

四日市公害激甚地・磯津

公害訴訟原告患者・漁師、野田之一さんが、現地で説明。

公害激甚地校・塩浜小学校

 塩浜小では、公害のひどかった頃、公害に負けない体力作りで、うがいをした。蛇口が40個ついたうがい場が今も6カ所あり、「ただしいうがいのしかた」の看板が残っている。
 それと、塩浜小の校歌にコンビナートを讃える詞があり、その部分を改作した。
 谷川俊太郎作詞の、県立四日市南高校の校歌も、公害という被害を知り、作詞者が一部改作した。

三重県立塩浜病院

(公害裁判の頃は、三重県立大学医学部付属塩浜病院。その後、県立医学部が国立大となった時点で大学とはなれ県立病院となった。)
 塩浜病院の中に、県立大医学部付属産業医学研究所があり、大畠助教授、今井講師(いずれも原告側証人で出廷)らが常勤。調査・研究にあたっていた。
 原告患者野々田之一さんは、活性炭で濾過した吸気を送り込んでいる空気清浄病院(6室、24ベット)に、結局10年間入院していた。
 野田さんたち漁師の患者は、朝3時半頃、看護婦さんに起こしてもらい、伊勢湾の沖合へ漁に行った。入院患者が漁に出かけるとは何事かと言われたが、@医療費はタダでも、生活補償はない。A四日市を離れれば発作が起きない。医者も治らないのだから働けるうちは、働きに行け、と言っていた。
 17時になると、夜中から明け方に発作を起こしてかけこんでくる患者カルテファイルを守衛所におき、すぐに処置できるようにしていた。


塩浜病院は取り壊され、その場所に建設されたヘルスプラザ

第1・内陸コンビナート

 三菱化学川尻追分工場の南(内部川)に、三菱油化河原田工場建設計画(エチレン30万トン)が持ち上がったが、200人の地主のうち、2人の反対者からはじまった阻止は、判決の年の6月、断念に追い込んだ。四日市でたった一つだけ成功した住民運動。

 松下電工の東側、国道23号線横に、三浜小学校があり、ここも、塩浜小につづく公害被害校。NOx測定でここだけが基準オーバーであったが、2〜3倍の緩和で基準内になった。

第2・午起(うまおこし)コンビナート

 白砂青松の海岸に、住宅団地を造成したが、海岸を埋め立て、1963年6月、第2コンビナートを建設、中電、大協石油、市長はいずれも「郎」のつく名前で、三郎町と、知事が命名した。

納屋小は、2重窓にしたりで公害対策をしたが、人口も減り、廃校となり、現在、校舎の一部を学習センターなどに使用している。

第3(霞ヶ浦)コンビナート

裁判提訴(9月1日)の年の2月、市議会・強行採決で埋め立てと、工場誘致を決め、四日市でたった一つ残された海水浴場はなくなった。

埋め立て、工場建設は、公害裁判と並行して進め、判決の年の1972年2月1日、結審の日に営業運転を開始した。

第3コンビナートは、出島方式だから公害はない、公害防止協定を結び、もしも公害発生のさいは市長が対策を講ずると約束。営業運転開始とともに悪臭に困り果てた住民が市長に対策をせまったところ、「味噌屋の前を通れば味噌のにおいがする。コンビナートが操業をはじめればコンビナートのにおいがするのはあたりまえ」と言ってのけ、住民はあきれて帰ってしまった。

大協石油(現・コスモ石油)は、霞の自社地に、残渣油を燃料に、中部電力へ買電するための火力発電所(一期20万キロワット、二期も同)を建設するとして手続きは整え、’03年3月完成予定であったのに、すすんでいない。

県と市の折半になる四日市港管理組合は、開港100周年記念で、100メートル、100億近い予算になるポートタワーを建設、80メートル辺りに展望室を設けた。

四日市公害裁判原告患者 野田之一さんの言葉から

「空気もきれいじゃなくて、なんも自慢ができんふるさとやけど、・・・私は心配なことが一つ増えました。コンビナートは衰退していくとおっしゃったが、四日市中に張り巡らされているパイプラインは、どうなるんやろう。わしはもう70を超えているので、いいのやけど、子どもたちにはこんな四日市を残したくない。心配事が一つ増えました。」