高花平小と塩浜小が共同学習
高花平小学校5年生の社会科学習で、四日市地域学習の一つとして、四日市公害や漁業などのことについての社会見学が、昨年12月から計画され、教室での学習が行われてきたが、かつての公害激甚地である磯津と塩浜小学校を訪れ、現地学習することになり、公害訴訟原告であった、漁師であり公害病認定患者の野田之一さんと、公害市民塾(公害を記録する会)の沢井余志郎とが、語り部、案内役をした。
高花平小の5年生は、高花平団地バス停から三交バスで近鉄四日市駅へ、近鉄電車で塩浜駅へと、バスと電車に乗り、9時30分に塩浜駅で沢井が落ち合い、塩浜街道沿いに歩きながら、三菱化学の事務所や厚生施設などの建っているところには、かつて四日市商業高校があった(全日制は尾平へ、定時制は富田へ移転)、塩浜地区市民センターの南側にある昭和四日市石油の体育・厚生施設などのあるところには、かって塩浜中学校があったが、1キロメートルほど西へ移転したなどについて説明。双方とも、すぐ側に、球型タンクや巨大タンクが立ち並んでおり、
なぜ移転せざるをえなかったかは多くの説明を必要としない。
石原産業へ通ずる道路のクリーク側の道路を歩く。ひっきりなしに昭石へ出入りするタンクローリーや、石原などへのトラックが行きかっている。
野田さんが10年ほど入院していた、あるいは公害ぜんそく患者が発作をおこしてかけこんできた県立塩浜病院や、 塩浜中のように移転できないでそのままきている塩浜小学校は裏側となるが、道路一本へだててコンビナートと近接していることのこわさなどは実感できる。
磯津の漁港や町中まで行ければいいのだが、時間の制約から、磯津橋の北側で、さきっぽに冠をつけたような煙突が2本建っているところは、かって、三重火力発電所があった。老朽化でとりこわした跡地を昭石が借り、重油の中からガソリンなどを精製する分解センターをつくったが、火力は70メートル、昭石などはもっと低い煙突ばかりで、鈴鹿川の川口300メートルほど離れた磯津のまちへ高濃度のSO2
が流れこんだり、すすなども降らせ、多大の被害が生じた説明などしているところへ野田さんが来てくれた。
塩浜小の視聴覚室で、高花平小の2クラス39名(転校生が出たので減)、塩浜小1クラス40名がいっしょになり、自己紹介のあと、両校いっしょに、先ず、うがい室へ。塩浜小の子どもにとってのうがい室はたんなる手洗い場でしかないが、過去、公害のひどい頃の子どもたちがここで1日6回うがいをし、乾布まさつもしていたことなどについてあらためて知る機会になったようだ。高花の子たちは、弁当・水筒持参なので、水痘のふたをコップ代わりに、壁にはられて残っている“うがいのしかた”を見ながら、“うがい”を実習。その後展望室へ上がって周囲を見渡しながらの説明。同じ四日市でも高花平小は山間部に近い方で、コンビナートや巨大タンクを見渡しながら「ワァーッ、すげえ」。
災害についてはいまも危険と隣り合わせにあることを実感したり、70年代頃までのひどい公害に思いをはせたりできる塩浜小学校である。
塩浜小の子どもたちにとっても、いつでも自由に展望室へ上がってこられることはできないで、高花小の子どもといっしょに上がることで、塩浜小の子は、塩浜小のこなりに思うことがあったのではないだろうか。
視聴覚室での共同学習は、野田さんに、それぞれ質問をするということではじまった。
塩浜小の5年生は、前年秋に、野田さんに学校へ来てもらい、主に漁業の話を聞いて学習をしていた。後で磯津では、孫たちから、野田さんの話した漁のことなどを聞き、野田さんに「よおはなしてくれた・・・」とねぎらいの言葉をかけていたそうだ。
野田さんへの質問は、コンビナートの工場ができたときにどう思ったか。ぜんそくにかかったとき・・・。塩浜病院へ入院したときのこと、公害裁判を起こそうと思ったのは・・・、
工場をどう思うか、ぜんそくはどのように苦しいのか・・・など、両校とも、子どもたちは手を挙げて質問をくりかえしていた。
そうしたことのなかで、野田さんが、塩浜小の子に、わしらは小さな頃から、誰に教えたれるっていうこともなく泳ぎをおぼえ、鈴鹿川で手づかみで魚をとったりしていたが、 いまの子は、すぐそこに海があっても泳ぐわけにはいかないので、スイミングスクールへ行って泳ぎを習っているが、このなかに、習いに行っている子はいるかとたずねたら、一人だけ、そおっと手を挙げていた。
塩浜小の子は高花の子に「塩浜へ来てどう思ったか」と質問、「くさいにおいがした」と答え、逆に「高花平をどう思うか」と聞かれたが、ほとんどのこが高花平へ行ったことはないと答えていた。
また「家族に公害患者がいるか」の質問に、磯津の子が「うちのおばあちゃんは、寝るときに枕元へゴミ箱をおいたりして、ぜんそくが出ると死ぬほど苦しいって言っている」と答え、いっしゅんシーンとなってどの子も耳をかたむけていた。
山間部(高花平小)と、海岸部(塩浜小)の子どもたちの共同学習は、同じ四日市市内とはいえ、大きく異なる地域環境なわけで、これからの社会科学習に、新しい一つのあり方を示したような気がした。
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