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四日市歴史(公害を含む)資料館の設置と公開を


四日市公害学習と公害資料館

四日市再生「公害市民塾」

四日市歴史公害資料館

 生活を記録する会と公害市民塾は、7月24日、市長宛、公害資料館の設置と公害学習の場として、本町プラザ4階のある環境学習センターを公害にリニューアル(更新、復興、再生、再開発)してほしいとの(おねがい)をしました。
 その後、『四日市市史』の編さんが来年3月で終了することとなり、市史編さんに関わって収集された、貴重な、膨大な、しかも、きちんと整理され、市資料目録も作成されている(中央緑地内、校倉造りの旧資料館)のをどうするかについて、どうやら、総務部から教育委員会に移管、『四日市市歴史資料館』(仮名)とすることになりそうだとの話を聞き、深く研究する場合、公害だけ別の所に置くよりは、同じところで、公害に関連する政治・経済などの資料も見られるようにした方がいいだろうと、歴史資料館として公開するならば、あえて公害資料館を別につくらなくてもいいのではないかと考えることにしました。

 そうしたことで、歴史資料館をどのように発足させるのか、公開についてどのようにするかなどについて、11月2日、橋詰興隆、沢井余志郎とが、佐々木教育長に確かめるべく会いに行きました。
 「庁内で、どこも引き受け手がないので、教委であずかり、資料は今のままにして、閉めてしまいます」“公開はしないのですか”「そんな予算もありませんので、見せることはしません」“そのことは、固まってしまった(決まってしまった)ことですか”「そうです」

 二の句がうけない、とはこういうときのことをいうんだろうと思いました。市史編さんのために、史資料を提供した人たち、公害でいえば、四日市ぜんそくという、かってない病気について研究された資料など、四日市市民のみならず、国内的、世界的にも貴重な宝である史資料を、遺跡からの発掘品を収納していた旧資料庫に閉じこめ、錠をかけて死蔵するというわけである。そんな恥知らずな、文化都市を目指す四日市に泥を塗るようなことをさせてはならないと思ったが、この場で教育長にあれこれ言う張り合いをなくし、善後策は後で考えることにした。

 この席で、もう一つふれたのは、小学校3,4年生用の「社会科副読本」に、「四日市ぜんそく」とよばれる病気があるのに、公害裁判のことはひとことも書かれてはなく、「国や県や市では公害をなくすためのきまりをつくり、ふせぐための仕事にとりくみました・・・・」とある。
 これについて、「教育委員会は、どんな事実認識、歴史認識をしているんですか。公害裁判をやった、被害者側が勝訴したから、公害をなくすための決まりがつくられ、工場も公害を出さない努力をしました、となったのに、そのことを触れない記述は偏向としかいいようがない」と言ったところ、これから改訂版の印刷にかかるところだから考慮すると、こちらは前向きな応対でした。

 それともう一つは、公害学習について、社会科副読本に、平気で、公害裁判ぬきで公害が改善されたと書くのは、悪意ではなく、判決からでも30年ということで、公害裁判があったことはおぼろげながら知ってはいても、そのなかみは知らない−知らないというのはこわいこと−からで、教師が、四日市公害について基礎知識だけでも知る、学習する場がほしいことと、毎年10月頃になると、小学校5年生(その多くは、市・県外の学校)が、社会科見学(公害学習)で四日市市を訪れるが、四日市には、市の環境学習センターと、県の環境学習センターの2つがあっても、どちらも公害学習をするにふさわしいものではなく、結局、語り部ボランティアをしている、野田・沢井といったところに話がきて、塩浜小学校へ受け入れをお願いすることとなり、塩小に迷惑をかけている。これについても、教委として考えてもらいたいと要望しておいた。

 

四日市歴史公害資料館 追記

  瓦版48号(上記)に、市教育長の話として、「資史料は公開せず、格納(死蔵)する」ことを書きましたが、11月28日に市教委総務課長、29日に市環境保全課長より、「瓦版48号に書かれているのは正確ではなく、公開することを前提に、予算もあげており、死蔵するということではありません(教育長にはそこまでのことを話していませんでした)市史編さん室でもそのように話していましたので、橋詰さんにこのことを伝え、来年1月末か2月になるであろう予算編成まで静観することにしました。
 小学生などの公害学習についても、なんらかの動きがあるのではないかと思っています。

2001.11.30