塩浜は公害の原点 四日市は、戦後日本の大気汚染公害の原点です。 |
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火力発電と石油化学工業のコンビナートが、日本で初めて四日市の塩浜地区につくられた。(公害発生源の出現) |
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先ず、“くさい魚”が発生、磯津の漁師は大打撃を被った。 |
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つづいて、粉塵、すす、悪臭、騒音などで、生活と健康に多大な被害を被るようになった。 |
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ついには、“塩浜ぜんそく”と呼ばれる呼吸器疾患の患者が多発した。 |
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高度経済成長の政治によって引き起こされた“公害列島”のはしりが、塩浜で四日市で起きた。 |
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1964年(昭和39)4月、第1号となる公害犠牲者が出た。石原産業退職者で、塩浜本町に住む古川善郎さん(60歳)である。 |
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平田佐矩四日市市長は、1963年(昭和38)夏に、塩浜地区連合自治会が、自治会費ではじめた、ぜんそく患者の自己資金の立替払い(3ヶ月で資金を使い果たして取りやめ)と同じように、公害病と認めた患者の医療費負担の公害認定制度を1965年(昭和40)5月から発足させた。第1回の認定患者の18人で、うち12人は入院患者で、そのほとんどは磯津の人たちであった。 |
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1966年(昭和41)7月、公害患者の木平卯三郎さん(76歳)が、病苦と生活苦で首つり自殺。 |
★ | 1967年(昭和42年)2月、公害発生源対策も、患者救済にも、これといった有効な対策のないのに、四日市市議会は、霞ヶ浦埋立と第3コンビナートの誘致を強行採決。この市議会へ傍聴に来ていた公害患者の大谷一彦さん(60歳)が、このあとの6月、の首つり自殺をしてしまった。 |
★ | 「このままでは殺されてしまう。生きるために・・・」と、磯津の9名の公害患者が、塩浜第1コンビナートを相手取っての訴訟を、この年の9月に提起した。 |
★ | この年の10月、塩浜中学校3年生の南君枝さん(15歳)が、公害病死。 |
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1969年(昭和44年)12月、四日市海上保安部が、廃硫酸を垂れ流しした石原産業四日市工場を摘発。海の汚染に初めて、司直の手が入った。 |
★ | 公害ぜんそく裁判は、1972年7月、原告患者側全面勝訴の判決があった。原告患者を代表して野田之一さんは「これで公害がなくなるわけではない、なくなったときに、ありがとうとあいさつします」と述べた。 |
★ | 磯津では、子ども(塩浜小児童)が患者の母親たちが中心となって二次訴訟を準備したが、判決後、直接交渉で補償協定を結んだ。 |
★ | 磯津以外の公害患者下の補償は、コンビナートなどの工場が「四日市公害対策協力財団」を設立。“磯津なみ”の補償金を支払った。 |
★ | 国は、この財団の方式をまね、公害健康被害補償法を制定、、全国41の大気汚染地区の患者救済にあたった。 |
★ | 公害裁判の判決は、行政の責任にもふれており、三重県は、国に先駆けて硫黄酸化物の総量規制を実施、国はこれに追従するとともに、公災害を防ぐことをふまえ、工場立地法を制定した。 |
このように見てくる限り、四日市は、大気汚染公害(被害と対策)の原点である。 |