四日市の戦後都市形成史

--コンビナ―卜全面化直前期までの都市開発・整備行政の実態について−-
坪 原 紳 二

1.はじめに

 三重県四日市市ではl959年、塩浜の臨海部において第1コンビナ−トが本格的に稼働を開始、引き続き60年代に入ると、その内陸部でも石油化学関達工場が次々と操業を始める。さらに63年には、北部・午起の埋め立て地で第2コンビナートが本格操業に入り、ここに四日市の石油化学コンビナートは全面的展開を見せるようになる(図1)。そしてこの過程と並行して、四日市ぜんそくに代表されるいわゆる四日市公害も、全面的に顕在化するようになるのである。
 本稿は第2次大戦後、この60年代初頭のコンビナート全面化=公害全面化直前期までにおける、四日市都市形成の実態を分析したものである。筆者は都市形成史研究の方法として、都市形成活動、その背景、そして結果として生じた都市環境、の3点を明らかにすることを心がけている。本稿ではこれらのうち、都市形成活動、特に三重県・四日市市当局による都市開発行政、都市整備行政の実態を詳述したものである。なお筆者は別稿で、四日市公害の歴史的生成過程を探るとの意図から、戦前期の同市の都市形成史を論じている。本稿はそれら論文の続編として位置付けられる。
 使用した資料は、主に四日市市役所所蔵の公文書、市議会議事録、及び三重県立図書館所蔵「伊勢新聞」(県内最大の地元紙)である。また、長年にわたり四日市公害解消のための活動を続けている“公害の語りべ”、澤井余志郎氏からは直接口頭で、あるいは『記録公害」を始めとする同氏提供の膨大な資料を通じ、さまざまな情報を得た。

2.住環境を無視した工場立地行政

 戦前の四日市では、住宅・工場の立地に対し県・市当局は放任的・追随的姿勢を取り、さらに県は自ら塩浜の大工場地帯に隣接して住宅地を整備、結果として住工密接の萌芽状態を生み出してしまつた。戦後、60年代初頭までの期間においては、塩浜の内陸コンピナ一ト形成の過程などにおいて、土地利用に対する放任的姿勢が依然、見出される一方、県市自ら住宅地に隣接して工場敷地を造成、もしくは設定することを行っている。以下ではこの後者の、住環境への配慮なき工場立地行政の実態を見てみる。

(1)午起海岸の埋立て、工場地帯化

 現在コスモ石油の夕ンクが威容を誇っている午起の第2コンビナート一帯の地は、元々明媚な、四日地随一の海水浴場であった。この環境の良さを反映して、36年2月、四日市で初めて決定された都市計画地域(用途地域)では、後背地を「土地閑静にして・・・住居地域として最も適当な所」として住居地域に指定していた。
 ところが戦時中、南部・塩浜の工業化が飽和状態になると、午起以北の臨海部が新たな工場用地として注目。43年5月には午起地先で、浦賀船渠造船所建設のための埋立て事業が着工されることになる。しかし同事業は、結局計画の3分のlほど(45.9ha)の埋立てが終わった段階で終戦を迎え中止となり、戦後しばらくは被災した造船所設備が荒廃した姿をさらしていた。
 一方、午起海岸の後背には、49年度の54戸を皮切りに、50年度60戸、51年度28戸、52年度35戸と、順次市営住宅が建設されていく。さらに海水浴場も復活、52年には「浜開きをまたず大賑いを呈」するほどまでになり、「各種娯楽設備も数を増し」 当初考えられていた土地利用がようやく日の目を見姑めた。ところがその矢先、同地海岸以北を埋立て大工業地帯を整備する構想が、再び県・市当局により提起され始めるのである。
 資料上、最も早い時点でこの構想を表明するのは、戦前、工場誘致に邁進、終戦により公職追放された吉田勝太郎の後を継ぎ、47年4月市長に就任した吉田千九郎である。彼は53年3月20日の市議会で次のように発言する。

私の考えを率直こ申し述べますならば、まず午起海岸を埋立てをしてあれを工場敷地のような形にもっていかなけれぱならないのじやないか・・・午起方面をひとつ手を付けて、そうしてそれを完成せしめて活用するようにする。また富田・富洲原方面の方もそれが完了した上においてこれを活用する・・・

 同年の5月20日には、愛知・三重両県当局、名古屋・四日市・桑名・鈴鹿各市当局などからなる伊勢湾工業地帯建設期成同盟会の、準備委員会が開かれる。この場で三重県側の第l次計画の一つとして、「朝明から鈴鹿川に至る地先の埋立てによる工業用地92万坪の造成」が決定され、特に県の池田企画本部次長は「工業用地の造成はまず午起海岸20万坪の埋立てから着手したい」と述ベている。そして54年5月27日の同期成同明解会第l回総会では、政府の木曾特定地域総合開発計画「三滝川−海蔵川地先の3区を埋立て…  臨海工業地帯を造成する」事業を追加するよう陳情することを可決する。前年度までに午起には計203戸の市営住宅が建設されていたが、その鼻先の海岸部に大工業地帯を造成することへの懸念は、この間、全く表明されることがない。
 その後午起地先の埋立ては、三重県が主導して、しかし四日市市とも連絡を取りつつ実現が図られていく。あくまで最終目標は三滝川から朝明川までl00万坪の埋立てであり、その第l期工事に午起海岸の埋立てを位置付け、国に着工を要望し続ける。そして57年ll月、午起の埋立ては県事業として着工の運びとなり、6l年I0月、69haの工業用地を造成して事業は竣工する。同地には大協石油(コスモ石油の前身)。中部電力、大協和石油化学、協和油化が進出、63年11月、四日市第2コンビナ−トとして本格嫁働を開始するのである。
 この埋立地上の土地利用に関し、午起の元住民、内藤正雄氏は澤井氏編『くさい魚とぜんそくの証文」の中で、次のように証言している。

田中(覚)知事がいっぺんに決めちゃった市としては、ここは荷揚げ基地にしよういう計画だった前市長の(平田佐矩)が非常に慨嘆しておりましたけれどもね、一日のうちにひっくりかえってしまった。

 しかし県側の見解の相違は、住環境への影響という点から見るとそれほど大きなものではなかった。以下は両者の対立を開設している。60年7月27日付け伊勢新聞の記事である。

午起埋め立て地70万平方メートル(20万坪)の利用については、市ははじめから中電が大協石油と連携して、エネルギーセンターをつくるにしても、北川10万平方メートル(3万坪)は、ほかに公共埠頭用地がないから、それをとったのこれの敷地に建設してほしいと要望しかし、県側は、同地の埋め立て地については、財政難から会社に埋立資金の一部を立て替えてもらっている関係上、中電側の同地区全部をほしいという要求を認めなければならない立場にある

 つまり、埋め立て地全面積の7分のlをめぐる見解の相違であって、住宅地に隣接して同地に石油化学コンビナ一トを作ることについては、市においても全く異論が無かったわけである。

(2)合成ゴムの立地誘導

 塩浜の第lコンビナートは、昭和四日市石油、中部電力、三菱化学などから成る臨海部に限られず、住宅地を飛び越えて内陸部にも展開している。この内陸コンビナートの嚆矢となったのが、57年12月9日、国策会社として設立された日本合成ゴムである。
 三重県及び四日市市は、57年5月の国会で合成ゴム製造事業特別措置法が可決される前後から、同工場誘致の運動を熱烈に繰り広げる。そして57年9月10日付文書で、日本合成ゴム設立 委員長・石橋正二郎より誘致条件に関する問い合わせを受けると、わずか6日後のl6日付けで、知事・市長連名の「回答書」を送付する。この中で工場用地については、「工場群及び埠頭に近く、道路利用、鉄道引込線敷設並びに工場廃水処理に便利で、何れも御要求の条件に適しております」という3ヵ所を推薦、そのうえで土地の買収に際しては、農地転用手続き、土地所有者、住民又は農家に対する補償問題などは一切県、市において責任を持って解決いたします」と言明するのである。
 3地点のうち同社は最初、全貌を現しつつあった臨海コンビナ−トに最も近い「六呂見地区」を望んでいたが、地下の折り合いがつかないので、日永A地区、!同B地区も含め、地質調査を行いこの結果と、地価をにらみ合せて建設地を決める方針にかわった」「問題は地層、地価の二つ」なのであった。
 つまり、合成ゴム立地の経過をまとめると、まず県・市が、企業側の利便性だけを考え工場用地の候補地を設定、その中から企業が、最終的には地価と地質だけを考えて敷地を選択。そしてその土地の買収の労を、県・市自らが取ったわけである。この間、住環境への影響という視点が挿入されることは全くない。しかし合成ゴムの建設場所に決まった場所は、六呂見・川尻の農村集落及び近鉄線西側の、社宅群を含む新興住宅街に極めて近接した地点であった。

 さらにこの新興住宅街は、後述するように戦後、毎年数回は浸水の被害を受ける水害常習地帯であった。その隣接地で、l0万坪にわたって水田を埋立て盛土して工場敷地を造成すれば、水害が一層激しくなることは容易に予測できたはずである。しかし立地の経過においては、こうした問題への配慮も、払われた形跡は見出せないのである。

(3)住環境無視した工場誘致運動

 戦後、60年代初顕までの期間には、上の2地区以外でも、戦前同様工場誘致・工業か推進のための運動が盛んに進められた。それらの中には、工場立地に直接つながったわけではないが、やはり住環境への配慮の欠如を示している例がいくつかある。以下、紹介しよう。

@海軍燃料廠の再開

 塩浜の臨海部には戦前すでに、大工場地帯が形成されていた。すなわち、40年の秋に東邦重工業、4l年l月に石原産業(銅錆錬と硫酸の製造)、さらに同年2月には当時わが国で最大規模の製油施設、第2海軍燃料廠が操業を始め、いた。そ、する地区には磯津などの既存集落、県が造成した新市街地などが存在、問題ある土地利用パターンもすでに姿を現していたわけである。
 この塩浜の工場地帯は当然、戦時中、激しい空襲の標的となったが、燃料不足で操業が停止していたこともあり、比較的被害は軽微なものに止まった。戦後、石原産業は硫酸、過燐酸石灰の製造を継続、東邦重工業も48年7月には東邦化学として再発足を遂げるのである。
 他方、海燃については、一部敷地で46年I0月、日本肥料(48年、東海硫安に)が操業を始めたのを除き、再開は大幅に遅れた。49年までは賠償施設に指定され利用凍結。賠償解除後は国際資本をも巻き込みながらの払い下げ合戦が繰り広げられ、政界の変動ごとに決定は二転三転。ようやく55年8月になって、昭和石油への払い下げが閣議決定され、塩浜一帯における石油化学コンビナート形成が一気に進みだすのである。この間、近鉄線以東の市街化は一層進行し、また海燃と鈴鹿川に挟まれた綱長い土地には47年度、市が引揚者用住宅56戸を建設、平和町という名の新しい町が生まれていた。つまりこの閣議決淀は、都市計画的に見れば、間題ある土地利用パ夕ーンのせっかくの改善の機会を放棄し、その拡大再生産を容認するものだつたとも言えるわけである。
 では果して地元四日市は、上の経過にどのように関わっていたのだろうか。早くも49年3月には、「伊勢新聞」紙上に次のような記事が掲載されている。

四日市市、同商工会議所及ぴ四日市港振興会は、かねてから旧第2海燃の臨海地帯(塩浜)を全面的に開放して工業地区として活用する方途を港都振興策の一環として取りあげ、県及び中央要路に陳情運動を続けていた

 四日市市議会は事態の二転三転にめげることなく、海燃施設転用促進委員会を作り中央に繰り返し陳情を行う。

四日市市議会の海燃施設転用促進委員会は20日地元としても新しい情勢に応じあらためて促進運動を展開することになり、来月初旬池田通産省に直接陳情する

 吉田千九郎郎市長も自ら頻繁に上京、陳情するなどし、海燃再開に努めた。そして55年5月、市長職に返り咲いた吉田勝太郎は、初登庁時の記者会見で「旧海燃は平和産業としてぜひとも早く再開してほしい」と発言、さらに6月29日、市議会における施政方針演説で次のように打ち上げる。

燃料廠の跡に石油化学工業に再開をいたしたい塩浜地帯において石油工業が開始されました際は、全地帯は完全なる総合化学工業地帯となることは明らかでありまして、その再開とともに、これと関連性を有する化学工場の新設ないし拡充、拡張の実現には極力努力いたしたいと存じております

 こうした四日市市当局や市議会の姿勢が塩浜のコンビナー卜地帯化にどれほど寄与したかは別にして、彼らは自ら建設した市営住宅も含め、隣接地区に配慮することなく、海燃跡を「全面的に開放すること」を要望、「全地帯は完全なる総合化学工業地帯となることを願っていたのである。

A大製鉄所の誘致

 午起の埋立て、合成ゴム誘攻にめどがつくと、県・市は当初からの構想であった午起北、霞ケ浦の埋立て・工業化に邁進するようになる。そして南部・塩浜には石油化学コンビナ−トが形成されつつあったのに対し、ここには重工業、特に大製鉄所の建設を目論むのである。以下は57年9月12日付「伊勢新聞」の記事である。

四日市市は国策合成ゴムの内定したあと、中経連で計画している大製鉄所の誘政に本腰を入れることになった。計画によると海蔵川以北冨洲原漁業基地までの海岸約100万坪を埋立てて贈呈、とりあえず35万坪に年産50万トンの製鉄所をたてようというもの
平田助役の話
ぜひとも誘致実現につとめたい。

 「中経連で計画している大製鉄所」の任には、富士製鉄が筆頭株主となって58年9月設立された東海製鉄が当たることになつた。
 三重県も、58年7月には議会が同製鉄所誘致の決議案を可決、同じく誘致に動いていた「愛知県議会の向うを張って立地条件の有利な伊勢湾臨海業地帯桑名―四日市地区に同製鉄所を誘致しようというもので、製鉄所誘致特別委員会を設け」る。さらに9月、田中知事を部長とする「県、県議会、関係地元を一丸とした「製鉄所誘致促進対策本部」を設置(県企画調査課内)、田中知事自ら先頭に立って、全県的な誘致体制も整え、会社側の依頼で工場立地調査書もl2月上旬に全部提出し終った」のである。
 ただし県は誘致先として、四日市の他、川越及び桑名の両臨海部も掲げており、かつこれら2地区の方を埋立費用の点などから、四日市よりむしろ強く推していた。このこともあってか先の記事以後、四日市市は目立った動きをせぬままであったが、しかし58年12月になると、俄然誘致運動を積極化させる。

東海製鉄所のゆくえを静観していた四日市市では11日同市議会製鉄所誘致対策委員会を開き誘致合戦に乗り出す方針を決めた。このため12日には、吉田市長山口市議会議長、らが午後1時、東海製鉄本社を訪れ具体的な打ち合わせを行なったのち、同夜上京、富士製鉄の永野社長(東海製鉄会長)ら首脳部と懇談、四日市への誘致を申し入れることになった。

翌年初頭、伊勢新聞紙上に掲載された座談会では、山口議長は市議会は市側と協力し全力をあげて誘致に努力する、平田助役はこれから更に各団体が力を合わせて台誘致運動を展開したいと決意を述べる。平田は同年5月、吉田勝太郎から市長の職を継ぐが、さっそく、同月たまたま来四した通産相に対し平田市長も立地条件は四日市が一番、水も豊富、なにとぞ誘致方にお力をと地図を広げて説明、陳情に相つとめたのであった。
このように霞ケ浦、あるいはその北部臨海部への製鉄所誘致に励む県市であるが、富田富洲原の漁村など、背後の既存市街地の居住環境に対する影響は、やはり議論するされていない。たとえば後に公害訴訟の提起者となる前川辰男市議は、59年7月1日の市議会で川崎、尼崎、北九州を引き合いに出しながら、一般論として工場公害に注意する必要性を指摘する。しかし、具体的に霞ケ浦の問題となると、霞ケ浦を埋め立て、工業用地とするのも大変結構出し、そういうことになると思うと工業化を容認、そりに伴って海水浴場及び漁場が失われることに対し、施策を示すよう要求するにとまるのである。
東海製鉄をめぐる愛知県との誘致合戦は、59年6月12日、同製鉄が愛知県横須賀地区への進出を決定したことで、三重県側惨敗の形で終止符を打つ。だが三重県、四日市市の大製鉄所建設の夢は、膨らみこそすれ衰えることは全くなかった。
早くも6月7日付伊勢新聞には、田中知事が上京し東海製鉄の横須賀地区決定を察知、その足で八幡製鉄を訪ねた旨が報じられている。そして道知事が18日に上京したところ大体の話がまとまったため、急いで土地造成その他について誘致先の四日市代表(平田市長、山本議長−筆者注)と打合わせた。つまり県は、東海製鉄と入れ替わりに八幡製鉄を次なる誘致目標とし、かつ誘致先は今度は四日市一本に絞ったわけである。ただし工業開発の構想そのものは、四日市臨海部にかぎられていなかった。10月、田中知事は東海製鉄敷地決定の経緯と題する声明書を公表するが、この中で彼は桑名から四日市に亘る臨海工業地帯の立地条件の土地造成計画を至急進めていくつもりである。」と宣言するのである。
一方四日市市の平田市長も、東海製鉄の誘致不成功が決まったその日の記者会見で第2の製鉄所誘致に本腰を入れていくと言明、以後、山本議長、田中知事の3者で、議会にも極秘裡に八幡製鉄との交渉を進めていく。この間、播麿造船が霞ケ浦地区への進出を希望するが、四日市市は、大工場の建設予定地を切り売りすることはできないと否定。さらに平田市長は、八幡側が当初120万坪の埋立を計画していたのに対し、東海製鉄、八幡製鉄戸畑工場をしのぐ一流工場を建設してほしいと懇請」80万坪増やして200万坪の大製鉄所計画に変更させるのである。そして市長主導で漁業補償交渉を6億余(県市折半)で妥結、八幡の進出意向が固まった段階で始めて59年12月17日、知事は八幡誘致の構想を発表市長は市議会全員協議会に報告する。
いきなり大構想を打ち明けられた市議会は、さすがに鵜呑みにすることなく、25日の全協以来大荒れの状態となる。しかし議会は、漁業補償を中心とする財政負担の問題に限られており、公害への懸念は表されない。結局30日の全協で、漁業補償の市長案はそのまま認められ、年が明けて補償調印が済みしだい、市議会に八幡製鉄誘致特別委員会を設けることとなる。状況は県議会も同じで、中南勢出身の県議から財政負担の問題が提起されるに止まる。
つまり、県市当局は後背の住宅地に対する影響を考えず、とにかく大規模な埋立てを行い大製鉄所を建設することに執心、議会もそうした執行部の姿勢に基本的に追随していたわけである。
さて、県市が心血を注いできた製鉄所の誘致だが、結局八幡製鉄も不成功に終わる。60年12月、同社は予定地の地盤が悪いことを理由に、進出断念の意向を明らかにするのである。これに対し平田市長はまだ諦めない。

四日市市議会の北部開発委員会は、22日午後4時50分から本会議に引き続いて開き八幡製鉄誘致のための善後策を改めて協議した。この委員会で平田市長はあくまで八幡を誘致するには地盤の弱いこれまでの海面埋め立て計画を断念して、市が同製鉄の住宅団地敷地に予定していた同市洞津(羽津力)奥地の丘陵地約600万平方メートルに建設するような方法をとるよりほかない」と述べ、委員会もこれを了承した

 内陸部にこのような大製鉄所を造成すれば、一層深刻な公害問題を招く恐れがある。こうした環境上重大な計画の変更を、せいぜい数日の検討で行なってしまっている。ここにも、当時の工場立地行政の特質が如実に表れているといえよう。

3.既成市街地の環境改善、放棄

 四日市市当局の住環境を顧みない姿勢は、工場立地行政に限らない。すなわちこの時期には、保健・衛生、安全、アメニテイ等、さまざまな面で、低地部の既成市街地の環境を改善することに、同市は極めて消極的であった。これについて以下、詳しく見ていく。

(1)市宮住宅の改善、放棄

 臨海部で埋立てが始まり、住環境が脅威にさらされつつあった午起(午起町・高浜町)の市営住宅は、内部的には竣工間もない頃から、すでに相当劣悪な状況を呈していた。以下は56年8月、高浜町2区自治会から市に提出された陳情書である。

私共の高浜町2区は市営住宅ばかりで、台所汚水の排水路がほとんど破壊致して全く衛生上憂慮にたえないのであります。当局に対して再三、再四お願い致しておりますが、今尚未着工にて一日もゆるがせに出来ず、あえて良識ある御審議の上何卒早急なる修理方を町民連署にてお願い申上る次第であります。

 しかしこの陳惰でも、なお市は動かなかった。58年l0月、再度改修陳情が出されるが、「下水側溝は頗る簡単なもので木製のものは既に跡形もなくなってしまい、現在残っておるものはコンクリート造りのもののみであり」「下水停滞し不潔を極めております」と訴えている。本陳情書によれば、高浜2区は大部分が49年度に建設、53年の台風l3号で「下水側溝の側壁はほとんどが倒壊」、町内で応急措置を取ったものの「市の塵挨車及び糞尿運搬車等のため破壊されて」しまったという。
 市営住宅の改善が怠られていたのは、午起だけに限ったことではない。以下に57年9月7日付『伊勢新聞』の記事を引用する。

市営の住宅、アパートは……計878戸.…既存公営住宅の中にはすでに耐用限度に達しているものも多く……戦後急造された上新町の68戸(6畳1間)はト夕ン屋根、板囲いのおそまつなバラック建である上、長い間風雨にさらされて羽目板はくさり、屋根は吹き飛んでいるありさま。…

 さらに市は、改善を怠るのみならず、市営住宅を居住者に払い下げてしまい、改善の責任を完全に放棄するという施策も進めていた。前述の、海燃脇に作られた平和町56戸は午起同様、13号台風で被害を受ける。54年3月15日の市議会には、この市営住宅の建物を被災したままの状態で住民に払い下げる議案が上程される。これに対し水野栄三郎市議は、次のように反対意見を述べる。

市営住宅を払い下げることによって、あの13号台風の被害を受けた不良住宅とみなすべく住宅がよりよく改良せられるかどうか。この住民にそれをよりよくするだけの負担能力があるかどうか。という問題、もう一つ市はこういうような不良住宅をそのままの姿で払い下げることによって市は一応厄介逃れをする、面倒な問題から逃れるというような考え方のもとにこれを払い下げるのではないか……

 そして、市が修理をし、市営住宅のまま賃貸するよう主張する。以下は建設部長・鬼頭鉄郎の回答である。

あの災害を受けた当時、住宅の居住の方に来ていただきまして、それを復活して改善してお売り致そうか、あるいは現在の風水害にあったままお売り致しましょうか、いろいろ相談致しました。その結果、あそこに入っておられまする住民全体の意志と致しましても、このように市が修繕費をかけていただきましてこれの払い下げを受けることは非常に苦痛でありますので、私の方である程度修繕を致しますから、是非その災害を受けたままで譲っていただきたいという住民の方の意志発表もございました。…

 いわば住民の持ち家指向に便乗して、住宅改善の責務を放棄しているわけである。しかもここは海燃跡に隣接した、将来同地で石油化学産業が操業を始めれば、深刻な環境に陥ることは目に見えている場所であった。ところが、一方で海燃の再開に向け運動を進めつつ、他方でここを住民に払い下げてしまう。二重の意味で無責任な措置であったと言わざるを得まい。
 この議案は、結局反対意員を述ぺたのは水野一人のみで、可決。平和町の市営住宅払下げは実行されることになるのである。
同年9月24日の市議会では、建設部長はよりあからさまに、市営住宅払下げの意図を述べている。

市営住宅に対してとります処置でございますが……すみやかに低廉な価格で払下げを致したいと思います。そうすることによって惨理費の支出をできるだけ少なくし、御本人の自由意思によりまして、完全な修理をしていただいたらどうかと考えております。

 これに対しやはり水野市議が「市としてこれをなおして家賃をとって貸しておいてやるということの方が、私は社会政策の上からいって当然ではないかと思う。……やっかいものは払い下げればそれで片がつくという考え方だけは、いま一度考え直していただきたい。」と諌めるが、同調する市議はいない。市の姿勢は変わらず、同年l2月22日の市議会には、「経過年数29年に達し、老朽はなはだしく、居住者の負担において修理を続けようやく維持しておる」南町、浜本町の市営住宅10戸の払下げ案が上程、異義なく可決となるのである。

(2)住工密接の放置

@大協爆発事故に際して

 54年l0月、戦前来四日市旧港地先で操業を続けてきた大協石油が、大爆発・大火災事故を引き起す。

15日午前11時半ごろ四日市市大協町1丁目、大協石油四日市製油所(所長石崎重郎氏)の第3タンク(C重油7千トン入り)の上部が突然大音響とともに吹飛ぴタンクはたちまち高さ百メートル余の猛炎を吹きあげて一面火の海と化し午後12時5分タンクヤ−ド付近に置いてあったアスファルトドラム缶約1千本に次々と引火爆発……現場ほ千メートル余の黒煙をあげて地獄図のような様相を呈した…

 同製油所は、「工場敷地に隣接し約500戸の民家が県道をへだてて密集しており」、付近住民が「ぞくぞく家財道具を運んで、街を透げまどう様は空襲以来の大混乱であった」という。
 火災は一夜越して翌日16日の夜11時50分頃、工場敷地3万6千坪の3分の1をなめ尽くしようやく鎮火となった。幸い住宅地への類焼は免れたものの、当然のごとくl7日付『伊勢新聞』が報じているように、「都市設計の面からも再考を要するという意見が強い」。ところが同じ紙上で吉田千九脇市長は、「このような大火に現在の消防設備がいかに貧弱であるかがはっきりした。……この教訓を生かし消防陣の強化をはかる」と、専ら消防体制についてのみ言及、都市構造上の問題には一切触れていない。事実、その後市は、同地の土地利用を防災の観点から再編することに主動的に取り組むことをせず、単なる付近住民・大協間の交渉の、仲介約に甘んじてしまっている。
 市役所市長室で行われた交渉で、住民側は大協に安全確保のため1!項目の「要求をたたきつけ、再三不穏な空気をはらみながら抗議が繰り返された」。そしてこの11項目の中には、「工場地帯と民家の間に適正な安全地帯を設けよ」という、抜本的対策も含まれていた。ところが吉田市長の「あっせんにより」変渉が進められ、同市長が「間に入り」、結果として11月7日の3回目の交渉において、「工場と一般道路の間には完全な防火壁をつくる」などの措直で妥結、先の抜本策は見送られてしまうのである。
 11月の『弘報四日市』には、『大協の大火 2度とおこすなこわい火事 一にも二にも火の元注意」と題する次のような記事が掲載される。

市議会では去る26日全員協議会をひらき,消防経過の概要報告や前后措窟を協議しました。今その日に出動した消防団を参考に掲げただけでもいかに大火事であったかに驚かされます。
17万市民の皆さん!!これからはだんだん火を使うことが多くなります.火事はいつ、どこに、どんなにして起るか分かりません。お互いに火の元に十分気をつけましょう。

 大製油所の爆発事故を市民一般の火の不始末の問題にすり替え、抜本策の必要性を糊塗しているとは言えないだろうか。

A塩浜内陸コンビナ―卜形成に際して

 戦前の四日市では、そもそも住工密接の弊害が十分認識されておらず、そのことが住工密接の萌芽状態を生む一つの原因になった。大協の爆発事故は、こうした未熟な都市計画思想が改められる大きなきっかけになるわけだが、そのことが実践に結ぴつかないのは同事故以後も同じであった。
 58年10月着工の合成ゴムを皮切りに、塩浜内陸部には6O年になると松下電工、高分子化学、味の素、江戸川化工と次々に石油化学関連工場が、既存住宅地を介在させながら敷地の造成に取りかかる。これに対し61年1月16日、市議会南部開発分科委員会で伊藤太郎市議が「工場地帯・住宅地帯の区分はするのか」と質問。以下は平田市長の答弁である。

住宅地は1坪売っても丘陵地帯で求められることになるので、そのようにしむけていただくなら自然そういうふうになると思うが…

 つまり、工業開発の進展に伴い塩浜の地価は上昇しており、現在所を売れば、近く市が丘陵部に開発予定の住宅団地に十分住まいを確保できる。したがって住工分離のため特別な措置を講ずることはせず、工場地帯から住宅が自然淘汰されるのを侍つと言っている。実際に、少なくとも60年代初頭までにおいては、市が同地の住工分離に正面から取り組むことはなかったのである。

(3)遅々とした排水対策

 この時期、四日市市民が最も悩まされていた問題の一つに、浸水被害の頻発がある。戦後地盤沈下が進行、かつ都市化の進展に伴い不透水面が拡大、ところがー方で排水対策を怠ったため、わずかな雨でも市内各所が水浸しとなる“汚水の都”と化していたのである。
 早くも48年9月には、「雨降れば汚水の街jと題する次のような記事が『伊勢新闘』紙上に掲載される。

ちょっとした降雨があると小河川や下水道の氾濫が至る処にみられ子供がその汚水の中で遊んでいるそぱに“日本脳炎発生、河川で子供は遊ぶな”のポスタ−が度肉な顔を見せ…国際貿易都市を誇る同市の士木関係予算のなかに町時代から引き継いだ富洲原地区の下水道費7万2千円を除いて同市の下水道費は一銭一厘もないのが現状…

 こうした状況は市の中心、近鉄諏訪駅や諏訪公園一滞においても同じであつた(図2)。52年7月には、同地域の住民が西部水害対策協議会を結成、市に対策を求める請願書を提出する。

6月24日のダイナ台風によつて四日市西部はほとんど浸水の憂目を見、続いて2度に及ぶ降雨によつてその都度当西部地区は浸水の苦杯をなめさせられたのであります.……以前にはかかる水害はほとんどなかったのであります。地盤沈下のためとはいえ、原因の最たるものは……遊水地帯を失った農用水の処理のためには在来の水路の倍化、もしくは倍々化が必須なるにもかかわらずその処理がほとんどなされていないことである。…このことに対してその責任の、市当局と都計当局とのなすりつけ合いを見ることは市民として諒解に苦しむ…

 8月、今度は「本県下第一の商店街」諏訪新道商店街が、「一度雨が降りました場合……おぴただしい浸水で、開店休業の状態となり通行上にも非常な支障を来し、又汚水が混合されて衛生上甚だ遺憾」と窮状を訴え対策を陳情する。
 四日市市民にとってほとんど唯一の憩いの場、諏訪公園も降雨時には惨状を呈した。

見渡す限り泥水の広場、子供たちが箱船を漕いで繕購いい遊ぴ場にしているが、これは四日市諏訪公園のあまり自慢にならない雨上りのスナップ。23日の豪雨で市内各所に浸水騒ぎを起し……公園広場は排水悪く深いところでは膝近くまであり、24日になってもこのような始末。戦後の市内の下水道は不完全なまま整備が進まず、少し降れば泥水の街となってしまう…

 その後市中心部では、県による戦災復興土地区画整備事業が進行、70m(幅員)道路が姿を現し、近鉄線直線化に伴い諏訪駅は廃止、四日市駅が新設される。こうして近鉄・国鉄両四日市駅、及びこれらを結ぶ中央に並木道を有する70m道路という、今日の四日市中心部の基本構造ができ上り、不燃建築物も増加、近代都市としての体裁を整えるようになる。しかし排水の悪さは一向に改善されなかった.以下は58年l0月l9日付『伊勢新聞』の記事である。

四日市ではいまだに下水道の不備からわずかの雨でもあちこちに時ならぬ湖?を造るありさま……市役所付近は近鉄四日市駅から国鉄四日市駅に通じる市内第一のメイン・ストリ−ト、通称70メートル道路が走り近くには商議所、地裁支部、税務署など官公斤、会社の多いビジネス・センターだが雨の降るたびにはけ口を失った水が路上にあふれて……あたり一面ヒザまでつかる有様。また諏訪新道なども同様で50ミリそこそこの雨で床下浸水の店も出る始末。「これでも県下ーの都会だろうか」と住民や通行人を嘆かせている。

 新たに四日市の交通の結節点となった近鉄四日市駅も、その駅前の状況は惨憺たるものであった。

駅前道路の歩道にはあちらこちらにフ夕なしマンホ一ルが口を開けており、おまけに道路は車道がやっと舗装されただけで、自家用車を持たぬ庶民どもは雨が降るたぴにクツもズポンもドロドロ。

 次にこの中心市街地周辺の、拡大しつつあつた住宅地に目を向けてみると、やはり排水対策を求める陳情が各所から出されている。例として、県営・市営住宅が建設されていた曙町からのものを引用する。

大井ノ川北避門が……数年前より腐食…現今では避門も無きに等しい様な状態であります。……ここ数年間は雨季から夏期ともなれぱ、たとえ天候が良くとも大潮の満潮時4・5日間は海水の氾濫により家財を床上又は天井裏まで揚げ、昼夜2回ずつ押し寄せる海水は厠を浸し汚物は床下、庭はもちろんのこと炊事場までにも流失されて日常の勤めにも事欠き衛生的にも不潔極まる…前記避門の修理増強を完全にしていただくより他に施策はないと思われます。

 また、大協石油の隣接地区、稲葉町・北納屋町は、工場だけにでなく水害にも脅かされていた。

特に昨年(53年―筆者注)の13号台風には三滝川尻右岸堤防が約350米間において数ヶ所ほど決壊…日常の降雨時におきましても雨水はまたたく間に氾濫……今尚決壊箇所すら修築されておらず…大潮満潮時にはいつの時期にも危険にさらされており、両町民が脅々として……

 その後市は護岸工事を施し排水措置を講ずるも、「俳水処置も馬力僅少のため降雨量に押され何等効力なく、降雨期には各戸度々に及ぶ床上浸水にて」稲葉町住民は58年12月再度排水対策を陳情することを強いられるのである。
 以上のいわゆる旧市内部分に対しては、雨水排除を主な目的に下水道の整備が進められていた。しかしこれまでの引用文中にもあるように、その進捗は極めて遅々としたものであった。
 本来、県が復興区画整理により道路を整備するのと同時並行的に、下水管を埋設していくべきだった。50年7月20日の市議会で小西清七市議がこのことを指摘するが、吉田千九郎市長は次のように答弁、下水道整備を後回しにする。

都市計画と下水工事というものは併行して、理想的に行うのが本質なんであります。しかしながら四日市が戦災に会いまして、この市民の経済面等を考え合せますとき、ここに多額の金を使いますことは、今や立ちあがらんとする市民にひじょうに大きな負担を相かけます…

 その後、市の鬼頭建設部長は51年8月には下水道整備の計画を作り、議会に示すと約束。しかし実行は延ぴ延びとなり、たまりかねてこの間、一貫して下水道整備を要求し続けてきた水野栄三郎市議が52年5月26日の議会で進行状況を質問。これに対し市長は、「下水計画は実際は準備期聞中」とし、53年度から「実行の第ー歩をめざしていく」と回答する。計画は52年未に―部が完成、議会に示されるが、53年度着工は見送り、54年度も末になってようやく予算が計上、着工の方は55年4月にまで持ち越される。
 つまり市街地の切迫した現実に比し,着エにこぎつけるまででさえ相当な期間を要したわけだが、その後も事態の進展ははかばかしくなかった。
 計画では三滝川を境に爾を第1期、北を第2期と分け、うち第1期計画は総額4億8千万円の5ヵ年事業(54〜58年度)とされた。しかし実際に毎年投入された額は、予定通り事業を進めるには余りに少ないものだった。以下は56年3月19日市議会での鬼頭建設部長の答弁である。

これを5ヶ年間に実施するといたしますれば、約年間1億円の費用が必要であるということが言えるわけでございます。しかして昭和29年度から3ヵ年にかかりました費用は2千百万円でございまして、この1億に比ぺますとはなはだ微少…今まで実施いたしました下水は…効果的なものは何もないのでございます。…

 結局最終年度が終つた段階でも1割ほどしか完成しておらず、5年計画は9年計画へ延長を余儀な<されるのである。
 では、下水道計画の対象にすらなっていなかった新市域の状況はどうであったか。まず南部・塩浜について見てみる。52年10月、同地区より次のような「雨池川改修陳情書」が提出される。

当雨池川は…塩浜地区を流れて日永地区に入り各所の排水を集めて天白川名で大井の川に注入している。従来少し大雨となれば満水となり、地盤沈下の悪条件も加わって水はけは極めて悪く、本川西方地域の田畑約70町歩は冠水数日に及ぷことが常となっている。更に又本川東側…大字馳出地内の海山道住宅は離れ島となり、大井の川町58戸、海山道町l77戸、馳出町269戸、松泉町266戸、小浜町290戸等は最も被書の度多く、床下浸水は普通であるが時に床上浸水の難に見舞われることもある。

 これに対し県の耕地事務所は55年より同川の改修工事に着手、59年6月には「全エ事の約9割を完成……地元の人たちをほっとさせている」と報じられる。しかしポンプの能力は「農業土木点(的カ)観点から割り出したものでございますので、市街地排水的に考えますと能力が不足」していた。浸水の悩みは解消されることなく、59年9月、同地区住民は陳情書の中で、次のように市当局の怠慢を難じている。

駅西、松泉、小浜、御園第2、塩浜第2、大里町の地区一円にわたり、毎年1回以上は全蝋区の道路一帯は河川と化し、人家に至っては、松泉町一帯並ぴに小浜町北部は必ず床下浸水の被害を蒙っている…その都度関係各方面にこの対策をお顧いいたしているものの、今だに市当局は何らこれに対する施設を講ぜられず、今日に至っています。

 市の北部、富田・富洲原地区については、四日市市に合併される(41年)前、すでに富洲原町が下水道整備を行っている。しかしその設備は、戦後の地盤沈下、都市化に対処するには不十分なものであったし、ましてや富田地区の方は、市中心部や塩浜に劣らず、激しい浸水被害を受けていた。以下は51年7月、同地区より提出された陳情書である。

当富田地区においては……夏期に入ると少なくとも毎年3・4回は、ほとんど全戸床下浸水…このようなことは、終戦後特に著しくなったものであって、これが原因としては、
{1}昭和19年12月7日以来、数回にわたる東海地方大地震により、全面的に地盤が沈下したこと、
{2}急激な人口増加に伴い、荒地、水田などを埋立てて住宅の新築が行われ、水の遊び場が少なくなったこと、
{3}用悪水路並びに各町内に埋設の下水管路(溝渠)が著しく荒廃して流水の疎通を妨げること、
用悪水路の浚渫、下水管路の清掃修築…陳情いたします。

 市は対策として54年8月ポンプ場を新設、これにより富田・富洲原の「各町村2千戸』は「全く水の恐怖から解放されることになる」はずだった。ところが56年10月、富田地区から次のような陳情書が提出される。

排水機が設置され、もう大丈夫だとの市当局の言を信じて参ったのであります。ところが本年12号台風の際、高地区西町、中町、代官町、古川町の一部は浸水…15号台風の際にも前記以上の水禍に見舞われ汚水は流出し目もあてられない状態でありました。…俳水機ができても排水溝の清掃が完全でないのと排水溝が狭小なため…

 つまり行政当局の改善措置は、やはり中途半端なものだったのである。58年5月には海沿いの浜地区も加わり、「各道路とも排水極めて悪く、雨季ともなれぱ路面は泥濘と化し」と窮状を訴え、側溝の整備を陳情している。
 以上見てきたように、戦後40年代・50年代を通じ、四日市市が浸水被害の解消に向け本格的に取り組むことは、中心市街地も含め市内いずれの地区においても無かったわけである。

(4)おざなリな公園整備

 県施行の戦災復興都市計画では、当初、公園整備に対し相当積極的な姿勢が示されていた。市中央部に大小17の公園を計画、各々テニスコートやプールまでが整備されることになっていた。しかしこの構想は、その後ほとんど実現を見ない。そして地元自治体たる四日市市当局自身は、公園整備に極めて消極的であった。
 50年3月26日の市議会で吉田千九郎市長は、公園の整備は「もう少しすべての点に余裕ができてから考えてもよい。小都市におきましては一歩郊外に出れば大きな自然の公園があります」と発言、現時点での公園新設は時期尚早との見解を示す。
 その後、四日市が「小都市」とはいえない状況になってからも、新たに公園を整備することへの消極的姿勢に変りはなかった。この結果、56年2月には、「煤煙にかすむ民生」と題する次のような記事が『伊勢新聞』に掲載される。

公園と名のつくものは諏訪と鵜ノ森の二つだが、その名も春国園、港楽園などという歓楽街やパイ一屋でとりまかれた諏訪神社の境内が「公園でござる」とは無理にもいえない。鵜ノ森にしたところが、自然公園という名のコートの他これという施設もない。これも神社を中心の一画。結局四日市には公園もないということになりそう。

 58年度より四日市市は、l0ヶ年計画の都市計画事業に着手する。総予算は11億9200万円だが、このうち道路・橋梁関係が10億2480万、全体の86%を占めており、公園整備費はわずか7360万しか計上されていない。しかも計画されている2公園のうち―つは、三滝川を海蔵川に切り換えてできる廃用跡に整備するもので、戦前来県が取り組み、実現の目処が一向に立たない事業であった。
 こうした市当局の姿勢に対しては、市議会においても批判の声が上がる。例えぱ58年3月19日には北村与一市議が「大四日市18万の都市にいこいの場所がない」と指摘し、「一大公園」の建設を要求する。しかし59年5月、市長に就任した平田佐矩は、公園の不足を認めつつも依然その設置には慎重な姿勢を示す。以下は同年6月、平田が議会で行った所信表明の一部である。

当市には市民の行楽或は憩いの場所とも称すべき施設がほとんど欠除(如カ)致しておりますので、是非こうした場所をつくりたいのでありますが、何分相当な経費を要するものと思料せられますので、一般事業の緊急度、財政事情等を慎重に検討した後、態度を決定致す所存であります。

 公園の新設に消極的なだけでなく、その維持管理についても、極めて不十分な対応しか行われていなかった。当時、四日市の「唯一のオアシス」とされていた諏訪公園は、54年8月、工費50万円で植樹が実施、「塵の公園から緑の公園として面目を一新した」と報じられる。ところが早くも59年には、「東西南北に抜ける通路でしかないほどに荒れ果てている」と形容されている。惨状を呈していたのは、降雨時だけではなかったわけである。
 戦災復興区画整理で整備された70m道路には、52年より中央部分に600本の植樹が開始、四日市にとってのシンボル的道路とすることが目指された。しかしここでさえも、維持管理は極めて不徹底だった。57年7月18日付『伊勢新聞』に掲載された市氏からの投書を紹介する。

四日市のメ一ン・ストリート、70メートル道路のグリーン・ベルト地帯は同市の美観を代表する中央道路であり、小公園であるにもかかわらず、最近は全く荒れ放題でよくもここまで放置してあるものと感心させられる。

 「雑草が茂り、中には大人の腰までも伸びている」ような状況だったのである。
都市化・工業化が進む中、公園・緑地の必要性は高まっていたにも関わらず、行政当局はその整備を一貫して怠り続けていたと言うことができるだろう。

(5)丘陵地開発に邁進

 市は50年代後半より、開発可能地として丘陵部・山間部に着目するようになる。早くは57年3月20日の市議会で吉田勝太郎市長は、住宅地は「なるべく海岸を避けまして後方地帯の田園をつぷさない方面において考えるぺきじゃないか」と発言、園浦企画課長も「丘陵地帯に住宅地をもって行くという考え方で進めております」と述べている。その後、平田市長の代になると構想は急速に具体化、59年8月には市議会で「北部山間地帯に森林公園を建設し、住宅地帯にも公共施設をふやす」 「南部丘陵地帯は…住宅を含めて開発を促進する」という市長構想が示される。これを受けて60年7月、全市議を委員とする総合開発特別委員会が組織され、この中に北部開発分科委員会及び南部開発分科委員会が設置。そして同年9月には市長は、「北部地区は下野、大矢知、羽津、三重の4地区の民有地594平方メートルを買収し、大住宅団地を建設……南部地区は四郷、内部、日氷の3地区165(万カ)平方メ一トルにも住宅地を達設する」という住宅団地開発構想を明らかにする。
 また、丘陵部は公園適地としても往目された。例えは60年3月15日の市議会で、平田市長は八幡製鉄誘致と絡めて次のような考えを表明する。

八幡が製鉄をいたしますると、どうしても大きなダムを作らなければならない。その周辺に森林公園といいますか、市民公園のようなものを設定いたしたい……こういうようなものを取り入れまして、市民の憩いの場所としていいところができたということに導いていきたい……

 このように四日市市は、丘陵部・山間部の開発に市当局・議会一丸となって取り組み始めるわけだが、肝腎の低地部の既存市街地についてはこれまで見てきたように、劣悪な環境のままに放置していたのである。

4.まとめ

 以上、四日市における戦後、コンビナートの立地・操業が全面化する直前までの都市開発行政、都市整備行政の実態を詳細に追ってきた。
 前者については県・市当局は、北部・午起において既存住宅地の目と鼻の先で工業開発に向けた埋立てを実施、一方南部・塩浜の内陸部では、既存住宅地の隣接地へ国策会社・日本合成ゴムを立地誘導するということを行った。そして、こうした住環境への配慮の欠如は、海撚再開運動、あるいは大製鉄所誘致運動の中にもまざまざと見出すことができた。
 都市整備行政については、低地部では市営住宅が老朽化甚だしく、住工密接地区が存在し、排水状態は劣悪を極め、公園・縁地が著しく不足していたにも関わらず、これら諸問題の改善に積極的に取り組むことを怠り、良好な住環境の実現は専ら丘陵部において追求されたのであった。
 こういった性格を有する都市行政の背景には、周辺市町村も含めて戦前来の、強力な工業化指向があった。また、結果的にコンビナ一ト全面化直前期において、住工密接地区は戦前に比しさらに拡大し、したがって危険市街地も相当程度拡大していたし、拡大しつつあった。排水不良地区も、一向に改善されることなく各所に残存していた。これら都市行政の背景、あるいは結果として生じた都市環境上の特質については、稿を改めて詳しく論じることにしたい。
 最後に本稿を執筆するに際しては、四日市市役所市史編纂室・議会事務局、三重県立図書館及び澤井余志郎氏より多大な協力を受けた。ここに感謝の意を表する。

 


 引用文は当用漢字、現代仮名遣いに改め、必要に応じ句読点を加えた。なお、文中の…省略個所を示す。

年代は西暦表示とし、一九〇一年以後は下二桁のみ記す。


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