四日市の工業化初期における
都市形成の実態に関する考察

工場操業に関わる問題を中心に

1、はじめに

(1)四日市公害及びその研究状況

 一九六〇年代より七〇年代初頭にかけ、三重県四日市市は“四日市公害”という言葉に代表される都市環境の極度の劣悪化現象にさいなまれていた。市民は巨大な石油化学コンビナートからの騒音・振動・悪臭に日々悩まされ、さらに“白いスモッグ”、亜硫酸ガスによる“四日市ゼンソク”を患う者も多数、出た。特にコンビナートの風下直下に位置する漁村、磯津は、七軒に一人はゼンソク患者がいるという惨状を呈したのである。
 この四日市公害の実態については、当時、研究者、あるいは地元自治体である三重県及び四日市市が多くの調査、研究を行っている。また公害に対する住民や労働者の動きに関しては、小野英二の詳細な著述がある。しかし、四日市公害という都市環境上の事実が生じた歴史的経緯、四日市公害につながる都市形成史を詳細に分析した研究は、現状把握に追われていた当時はもちろん、今日に至ってもなお極めて少ない。筆者が知る限りでは、戦後、海軍燃料廠跡の昭和石油への払下が閣議決定される五五年までの、地元政財界の動きを迫った平野孝の研究があるのみである。このため公害経験都市として四日市市や三重県が発信し得てきた情報は、公害病患者認定制度、硫黄酸化物の総量規制、あるいは脱硫装置などの公害防止技術といった、いわば対症寮法的知識に止まる。都市環境形成上の歴史的教訓は未だに発信し得ていないのである。
 

 (2) 本稿の内容

 そこで本稿では、四日市公害の歴史的教訓を得るための作業の一つとして、三〇年代初頭より戦争末期までの四日市の都市形成史を、都市形成に関わる営み(工場の操業、それに対する規制など。以後、“都市形成活動”)、その背景、及び結果として生じてくる都市環境、の三つの観点から探っていくこととする。
 三〇年代初頭というのは、後述するように四日市における工業化が本格的に始動する時期である。したがって公害の歴史的教訓を得るには、この頃より以後の都市形成史を分析すればよいと考える。
 また本稿では、特に工場操業に関する問題に絞って検討を進めていく。四日市公害の由来を探るには、都市計画的側面(住宅と工場の位置関係や工場の立地パターンなど)も重要であるが、これについては別稿で論じているのでここでは扱わない。
 使用した史料は、主に当時の代表的地元紙、伊勢新聞である。同紙の記事は、現在第一五巻まで刊行されている『四日市市史』に一部収録されているが、本稿執筆に際しては三五年一月より四三年一一月までの分については、三重県立図書館所蔵マイクロフィルムにより原史料に当たっている。

2、都市形成活動

 (1)工場立地、進行

 四日市を工業都市として発展させんとする構想は、一九世紀末既に芽生えていた。鉄道網の整備が進み四日市港の取扱い貨物が減少、商業地のまま止まっていたのでは経済的発展が期待できなくなったからである。
 しかし工場の立地はなかなか進まなかった。一八八八年操業開始の三重紡績(一四年東洋紡績に)以後、現市域内に進出を果した大工場としては、一七年新設の東洋紡績富田工場があるのみであった。
 名古屋港への対抗上、県は一〇年七月、第一期四日市港修築工事に着手する。二五年四月には埋立地、千歳町(四〇.三ha)が完成するが、ここへの工場誘致も思うに任せなかった。三〇年頃の同地の様子を、四日市倉庫常務で後の「工場誘致の一大恩人」榎並赳夫は次のように描写している。

あの辺一帯草茫々と我がもの顔に『ギリス、チョン』が鳴いていた。潮風が葉末をなで無情の月影が淋しく淡く『もったいないものじゃ』とばかり照っていた。…

 商工会議所、市公会堂を除けば、巨費を投して造成した埋立地もほとんど未利用のままだったのである。
 この停滞状況に転機をもたらしたのが、三二年の東洋毛糸紡績進出であった。市南部、近鉄線塩浜・海山道駅間の同線沿いに敷地を画し、綿工業主体であった四日市地方の繊維工業界に羊毛工業を導入する契機となる。三五年には内陸部の常磐、日永にそれぞれ、やはり羊毛関連の三重製絨所及び東洋モスリンが設立される。同年は売れ悩んでいた千歳町も「買収申込殺到」となり、三菱飼料、杉浦製飴などに加え四日市の重化学工業化の嚆矢となる、日本板ガラスが進出を決定する(三六年一二月より操業)。同地は三五年中にほぼ完売となり、市当局及び地元財界は新たな工場適地を市南部、塩浜の広大な水田地帯に求めることになる。
 三八年一二月、ここでの工場用地造成と港湾施設整備 (“第三期修築工事”)を担うべく「四日市築港株式会社」が設立、同年、東邦重工業、銅精錬と硫酸製造を手懸ける石原産業、及び海軍の製油施設、第二海軍燃料廠の進出が決定される(東邦重工業は四〇年秋、石原産業は四一年一月、海燃は四一年二月操業開始)。さらに四〇年には塩浜の西方、東洋モスリンの近接の地に陸軍製絨所が設立される。
 南部臨海部が飽和状態となったのを受け、今度は市北方沿岸の工業地帯化が目論まれる。そしてその第一弾として四一年三月、着手されたのが、先の四日市築港鰍ェ行なった四日市港の原点、稲葉町地先での埋立てであった。生み出された三万余坪は新潟に本拠を置く大協石油の工場敷地とされ大協町と命名、四三年七月操業開始の運びとなる。最後に四四年にはさらに北方、海蔵川を越えた羽津地内、関西本線沿いに富士電機が設立されるのである(図)。
 以上見てきたように、三〇年代初頭を画期として四日市の工業化は本格的に始まり、以後、軍施設も伴いながら戦争末期に至るまで、工場立地の動きは継続されるわけである。
 こうした近代大工場はいずれも大量の水を取水し、汚染された排液・排煙を放出し、あるいは騒音・振動・悪臭の発生源となる可能性を持っている。したがって良好な居住環境・生産環境を維持・創出するには、公共側が住宅・工場の立地を適切に誘導し、かつ工場操業のあり方を厳しく規制することが必要となる。特に漁業環境の維持には、厳格な排液規制が不可欠である。そこで以下では、市及び県当局の工場操業への接し方を検証してみる。

 (2)市、工場操業には無関与

 三五年七月二二日付け伊勢新開は、「四日市港を中心として伊勢湾沿岸がわが国第一の羊毛工業地帯となった結果、各工場排液が漁業上に重大影響ありとして各所で漁民との紛争を惹起している」と報じている。四日市沿岸海域の水質汚染は、羊毛工業からの排液によりその始まりを告げたのである。
 これについて当時の四日市市長、吉田勝太郎は三八年の年頭、伊勢新聞紙上で次のように語っている。

なかなか難しいですが時が解決してくれるでしょう。
工場誘致を市の発展第一義とする当市としては速やかに円満解決を熱望しています。

 つまり排液浄化を義務付けるといった厳しい措置を自らとる意志はなく、あくまで補償(金銭)問題としての解決を望んでいるわけである。
 当時最も地元新聞紙上を賑わしていた排液問題の一つに、東洋毛糸と農漁民との間の紛争がある。三二年の同工場設立当初から磯津漁業組合が補償を要求、その後四日市漁業組合、農業関係の塩浜南旭農家組合も加わり、損害賠償訴訟まで提起される事態となる。これに対し「市当局並びに市会においてはこれが円満解決に努力を払い」、磯津漁組及び農家組合については三八年、四日市漁組については四〇年、いずれも金銭解決に至らせる。そして、両漁組に対しては毎年八〇〇〇円ずつ市が支給することとし、また農家組合の方は過去の被害の補償金二、五〇〇円中、半額を市が負担することにしている(残りは会社が負担)。
 塩浜の突端を埋立て立地した石原産業については、漁業権及び将来の漁業被害に対する補償問題が起こるが、この際には「市勧業課長らの尽力により…円満解決を見」る。
 つまり市は、金銭問題として処理するためには努力を惜しまず、かつ場合によっては補償金を分担することもいとわない。しかし工場操業のあり方そのものを問うということは、していないのである。三五年六月一一日付け伊勢新聞には、次のような記事が掲載される。

四日市市幸町市役所前昭和透明紙会社の工場から九日 午後八時過ぎ出火…同工場は化学工場で平素もガス発散のため悪臭鼻を突き付近住民を困らせているが、出火原因は二硫化素に引火したこととて悪臭で寄り付けぬくらい…・工場の出火は今回が二回目…

 市役所の隣接地であるにも係わらず、このようにずさんな企業経営が許されていたわけである。当時の市の、工場操業に対する寛大な姿勢を象徴的に示していると言えよう。

 (3)県も工場操業には無関与

 伊勢湾沿岸で羊毛工場の排液による漁業被害が深刻化する中、三五年七月、磯津漁組は「四日市市、三重郡楠、常磐、日永各村に設置された羊毛工場からの廃液流出により」漁獲高が激減し、「また同海岸は魚類の産卵地区であったのが排液のため貝類と共に斃死して繁殖せず、帆立貝の如きも漁獲絶無の状態に陥っている」とし、三重県水産試験場に実態調査を依頼した。同試験場は工場排液の影響を研究することを約束、八月九日の伊勢新聞は、試験場の技師が県工場課立会いの下塩浜及び楠村の「羊毛工場の浄化せざる排液と浄化装置ある工場の排液の二種を採取……試験場に持ち帰り目下魚介類を同液混入の海水内へ放ち…試験研究」しており、「結果の判明するには少なくも約一ヶ月を要する」と報じている。
 しかし漁民にとっては切迫した問題であったにも係わらず、結論は翌年にまで持ち越されてしまった。そして三六年四月になってようやく伊勢新聞に次のような記事が掲載される。

県工場課では…今回某工場の排泄汚水がやや有害と認められるに至ったので、同工場に対しては断乎として排泄汚水の浄化設備を命ずるに決したが、その他の工場に対しても順次完全な浄化設備を慫慂…今後新設される工場に対しては最初から同浄化設備を行わしめる方針で進むことになった。

 遅れはしたものの、この記事によれば県は、工場排水を厳しく規制することにしたかのようである。ところがわずか一カ月後の同紙上で広木県水産課長は、「工場から排泄する汚水が沿岸漁業に打撃を与えていることは否定し得ない事実…工場新設に当っては全く無害となる程度まで汚水を浄化排泄する設備を希望しているわけだが、強制することができず自発的行為を待っている状態ではなはだ不徹底」と率直に述べている。
 三八年一月二日の伊勢新開は「工場の排液及び工場用水問題が関係方面で種々調査研究を必要とされるので、県では明年度…調査費一万円を計上」したと報じている。
しかしやはり、この調査に基づき何らかの規制措置が取られた形跡は見当らない。
 県は工場・漁民間の紛争の高まりの中、調査は行う。ただしそれは遅々としたものであり、かつ工場排液の影響が明らかになっても、厳格な操業規制を課することはしなかったのである。

3、背景

 次に、右で指摘したような特質の都市形成活動(工場立地や市・県の規制行政)の、背景を考えてみる。

 (1)市の工場操業無関与の背景

 @工場誘致=市の発展、との思想

 三四年六月、市長に就任した吉田勝太郎は、「四日市の発展は工場誘致にある」とし、したがって「四日市と工場誘致とは絶対に離すべからざるもの」と述べている。彼臼く、「工場立市」は「市是」なのであった。
 こうした工場誘致(工業化)=市の発展といった考え方は、当時の市会や地元財界の中に満ち満ちていた。四日市市会は派閥争いにより、「徹底的波欄紛糾を宿命づけられている」とまで言われるほど紛糾を重ねた時期もあった。しかし工業化そのものの是非をめぐつて論争が行われたことは、三〇年代より戦争末期に至るまで一度もない。そして「工場誘致一本槍で進んできた吉田市長は、三八年、四二年と 二度にわたり、市会で満場一致再選されるのである。
 三八年一〇月二一日挙行された石原産業の地鎮祭には、 県知事、同経済部長・土木部長などに加え、四日市市からは「吉田市長、加藤助役、小田川土木課長、石榑市会議長以下各市議、商工会議所議員、工場誘致の斡旋者榎並四日市倉庫常務、市内の関係各官公衙長、有力社長代表者」が出席、総勢数百名に上ったという。いかに当時の市有力者が、市の命運を工業化に託していたかが理解できよう。
 さらに三七年七月、日中戦争が勃発し戦時色が濃くなってくると、四日市の工業化=お国のため、という発想も生まれてくる。このことは次の吉田市長の発言に端的に示されている。

四日市としては工場誘致、隣村合併による「大四日市市建設」に邁進しなくてはならぬ。……人口一〇万の大四日市市建設の理想を実現してこそ忠勇なる皇軍将士の労苦、尽忠に対する感謝の実行であると深く信じている。……

 こうした発想の延長として、三九年になると塩浜での工場地帯造成に、学童を勤労奉仕させることまで行うようになる。
 四日市に工場を誘致し、その工業化を図ることが市のためでありかつお国のためでもあると広く信じられている状況では、工場進出を妨げ、あるいは既存工場の撤退を招きかねない厳格な操業規制は、市当局の視野にはほとんど入らなかったものと思われる。

A周辺市町村の工場誘致熱

 このような市の姿勢にさらに拍車をかけたのが、周辺市町村の動向であった。すなわちこの時期には四日市市に限らず、多くの県下市町村が工業化=発展と考え、工場誘致に努めていた。対抗上、厳しい規制を控えざるを得ない状況があったのである。以下、県下市町村の工業化に向けた動きを追ってみる。
 四日市市の南に接する楠村は、三三年中央毛糸、三四年東洋毛織の誘致に成功、以後工場の建設が相次ぎ、三六年末には「工業立村の村是に基づき道路の改修…に努めつつある」とされる。「以前の純農村は一変して工業地域と化し」、三九年末時点で大小工場は二〇ほどにもなっていたという。
 四日市市の北、四一年に合併編入されることになる富洲原町の場合、三五年に同町海岸部一〇万坪を埋立て東洋紡を誘致することを計画、三六年四月には同社と次のような内容の契約を結ぶことを、町会が可決する。

 第1条 乙(富洲原町−筆者注)は…海面…埋立て、約十万坪の工場敷地を構成する権利、並びに同所埋立用土砂を埋立地付近より採取するの権利を獲得し、これを甲(東洋紡−筆者注)に無償にて譲渡するものとす(第2、3条略)
 第4条 …漁業権問題、海水浴場権問題、排水問題、その他埋立て工事に基因し紛議を惹起するおそれある事項については、乙は…自己の負担において責任をもって関係者と交渉し、埋立工事に異議なき旨の承諾書を取り、これを甲に提供し将来甲に対し何ら迷惑を及ぼさざるものとす(第5〜11条略)
 第12条 乙は甲の操業により生ずる廃液を富洲原港湾内に放流することを承諾し、かつ自己の負担において関係漁業組合より、右に関し一切苦情を申出ざる旨の承諾書を取り、これを甲に提供し……甲をして安易に事業経営をなさしめ、万一苦情等の生じたるときは、乙において責任をもって解決をなすものとす…
 第13条 甲が工場敷地内において工場用水を鑿井取水する場合、他より異議の申出または紛議を生じたるときは、乙において責任をもって解決をなし、甲に対し何ら累を及ぼさざるものとす
(以後第19条まで)

 住民対策は町が一切の責任を負う。したがって工場の建設・操業には、決して支障を生じさせない旨の規定を含んでいるわけである。東洋紡誘致は結局実現を見なかったものの同町の工業化は着実に進み、例えば三八年八月より一年間で機機器具製作工場が三社、立地したという。
 視野を広げて見ると、まず桑名市では「日立製作工場の拡張、さらに国道筋及び江場方面の工場地化が唯一の原因」となって、三八年度中、宅地転換した農地面積は五万坪以上に上っている。
 陸上交通の発達に伴い、四日市市では商業港から工業港への転換が模索されたが、このことは県都、津市でも同じであった。三六年二月、大田市土木課長は伊勢新聞紙上で「従来の商業港から工業港とすることを理想…一大工業地の建設が理想」と語っている。そこで「大工場の誘致については各都市とも…好条件を提示し大拍車を加えているので…他都市に勝る好条件を提供し、工場誘致に邁進」することになる。そして三九年には、同市中茶屋町の瀬木機槻製作所が大拡張を行うに際し、「重工業誘致を熱望する堀川市長の斡掛により」御殿場海岸に一万四千坪の敷地を確保、さらに市は「同工場への参急線路引込み、水道、道路などの施設に遺憾なきよう便宜を図る」ことにするのである。
 四日市市は工業立市を市是としていたが、やはり松阪市は三八年、「工業立市の見地より四月の新年度早々工場誘致に乗り出すことになり…工場誘致調査を作成、近く関係筋に送付して誘致に努めることになる。
 四日市市及び以上の三市はいずれも三六年五月の港湾協会総会に、自港の修築工事への国庫補助を要請する決議を上げるよう要望している。「とにかく津、四日市、松阪、桑名の各地が港湾修築拡確のため、あらゆる機会をとらえて実現に努力せんとして」たのである。
 松阪市と神戸製鋼をめぐり「猛烈に争奪を演じ」三九年、誘致に成功したのが宇治山田市である。同市は伊勢神宮を擁し“神都”と呼ばれていたが、一方で「工業都」をめざし、神鋼誘致決定後も周辺町村を合併し各種大工場を誘致、一大工業地帯の建設を目論む。
 さらに目を内陸部に転じてみると、例えば上野市の場合三九年四月、「四日市市の活況ぶりを視察し…「来れ工場」の念に燃えている」と報じられている。四一年四月九日付け伊勢新開では、次のような上野市長、杉森萬之輔の談話が掲載される。

中にはこういう静かな街に煤煙をもって来んでもよいじゃないかという説もありますが、退嬰的な考え方をしとっては世に遅れてしまいます。…いずれは上野市も煤煙の洗礼を受けねばならんのですから、積極的に逞しい取り入れ方を考えた方がよいと思います。

 そして同年一二月には、工場誘致委貝会を設置することになるのである。
 最後に当時の県下全体の工場誘致熱を示すものとして、次の伊勢新聞の記事(三五年七月一一日付け)を紹介しておこう。

大工場誘致による地方発展をめざして、最近県下各地 各都市に工場誘致熱が非常に高まり、県工業試験場にも工業用水としての適否を調べる水質検査の申込が続々来ている。…

 このように三〇年代より戦争末期に至る期間、三重県下市町村は挙げて互いに競いつつ工場誘致に邁進し、かつ農漁業や住民生活への被害に対する免責規定まで締結する所もあったわけである。しかも実際に工場の立地が進んでいた。工場誘致=市の発展とする四日市市としては、厳格な操業規制を施行することには二の足を踏まざるを得なかったのである。

(2)工場立地進行の背景

@市の活発な誘致活動

 三〇年代以降、四日市市へ工場立地が進んだのは、一つにはその港が産業基盤として優れていたからであった。水深が深く、かつ港内へ土砂を流し込む河川もない天然の良港であることに加え、県は第一期修築工事(一〇年七月より二六年一〇月)、第二期修築工事(二九年四月より三六年三月)を総計九〇〇万円を投じて実施、同港は近代的港湾設備を誇るに至ったのである。また、地下水が良質かつ豊富で、工業用水の確保が容易であったことも重要な要因であろう。しかし同時に、四日市市の工業化をめざす市当局や地元有力者が、前述の周辺市町村の動向に刺激されつつ、企業側に好条件を提示・提供しながら工場誘致活動を活発に展開したことも、見逃せない事実である。
 四日市市への本格的工場誘致第一号とされる東洋毛糸の進出に際しては、市は工場敷地買収費一五万円中七万円を補助、その他基盤整備費も一部負担している。また先に見た富洲原町の例と同様、「工場設立後において発生する一切の問題は市が責任をもって処理する」との免責規定も締結する。
 三四年六月吉田勝太郎が市長に就任すると、同氏は自ら先頭に立って工場誘致に努め、翌年一月には市議一三名よりなる工場誘致委員会を設置する。二月になると日本板ガラス誘致のため「吉田市長は二五日大阪に出張、同社重役を訪い種々懇談し……全力を注いでその成功を期している」とされる。そして市会は「排水により、万一問題を惹起したる場合においては、四日市市役所はこれが解決を引き受くるものなり」との条件を受け入れるのである。
 三六年三月二五日より五月一三日までの五〇日間、四日市市は七〇万の予算をかけ「国産振興四日市大博覧会」を開催し、全国から一二〇万の人々を集める。この博覧会も、実は工場誘致活動の一環として行われたものであった。吉田市長は次のように語っている。

博覧会は結局手段であって目的そのものではない。博覧会開催を機会に各地から人を集め、実地に四日市そのものを認識せしめ、工場誘致を図ろうというのは最初からの目的の一つだった。…

 三六年三月の第二期修築工事完了を受け、近代化された港湾設備を広く宣伝することが目的だったわけである。引き続き同年三月には、市は四日市港を紹介するパンフレット五千部を印刷、「全国主要都市の大会社、港湾関係者」に送ることにしている。
 日本板ガラスの隣接地に三九年、設立されたのが第一工業製薬だが、同社誘致に際しても三七年春「四日市市長はわざわざ、京都本社を訪問、その旨を披いて慫慂」している。
 三八年になると、十数年来の小作争議が解決を見た塩浜への工場誘致活動が活発化する。「正月早々吉田市長を陣頭に立て、県の援助で猛烈な工場誘致活動」を行い、そして東邦重工業、石原産業の二大工場誘致に成功する。
 この時期は県下市町村どこも工場誘致に傾倒していたわけだが、新聞報道から判断するととりわけ四日市市、特に吉田市長の誘致活動は文字通り「東奔西走」上京も頻繁に繰り返すという精力的なものであり、四日市への工場立地を促した重要な要因と考えられる。また誘致活動の過程で工場側と取り交わした免責規定は、市の工場操業への寛容な姿勢を、いわば義務づけてしまったと言えるだろう。

A県の誘致活動

 一方県当局は、三〇年代前半までは地元と相並んで四日市への工場誘致に努めていた。これは先にも述べたように、第一期四日市港修築工事で造成した県有埋立地、千歳町の売却が進まず、県財政を圧迫していたからである。経済情勢が好転した三五年には、工場を「四日市港に誘致すべく猛運動を展開、日本板ガラス誘致に際しては知事自ら同社長を訪問し進出を懇請、さらに隣接地の地価が四〇〜四五円/坪であったのに対し二六円という売却値を提示する。 そして同年中にはほぼ全土地の売却に成功するわけだが、これ以降、県当局が四日市市へ工場を誘致するために、継続して熱心に活動したことを示す記録は、無い。
 千歳町完売後、市当局・地元有力者は塩浜を新たな工業地帯とすべく、ここでの第三期修築工事実施を要望する。 しかし松本県経済部長は、「当分は現状で十分だと思う。 …将来背後の工業が大いに発展し、同港の利用がますます増加するに至ってから第三期修築工事を考慮しても遅くはない」と、慎重な姿勢を見せている。
 三六年一 一月二五日付け伊勢新聞は、県が第二期修築工事の完了を受け、「明春早々に港務所を設置して建設時代から積極的経営時代へと進出することになった」と報じる。四日市港重視の姿勢の現れのように見えるが、同年一二月一四日の県会で四日市市出身の県議、山本源助は「経費の点から見ましても、あるいは機構の点から見ましても、躍進四日市港の港務所としてははなはだ貧弱なものではないか」と不満を表明している。同氏は続けて、「各関係会社に払下になっております土地…未だにそこに何らの施設も行われず……放られておる」と発言する。県当局に、土地が売れさえすればよいといった姿勢があったことをうかがわせる。
 三九年一月一七日、「伊勢臨海工業地帯(桑名港より四日市港に至る)の…開発の完璧を期せんとす」る「伊勢臨海地方計画委員会」が設立される。本委員会は会長を知事とし、委貝に県総務部長・経済部長・土木課長を含む以外は、四日市市長、同市有力者など四日市市関係者で占められており、実質的には四日市港を中心とする臨海地帯の工業化を図るため、県当局を巻き込んで地元主導で設立されたものと言えるだろう。しかし「四日市臨海工業地帯建設の指導的役割を勤める」とされた同委だが、第二回会合が開かれたのは一年以上経過した四〇年六月二九日、第三回もやはり一年以上間隔を置いて四一年七月八日に開催されるといった具合で、協議機関としてほとんど機能していない。県当局の四日市市工業化への冷めた姿勢がここにも現われている。
 県当局は戦前のこの時期、あくまで県有地売却の観点から四日市への工場誘致に取り組んだのであり、県下市町村の中で特に四日市の工業化を重視していたわけではない。 したがってその四日市市への工場誘致活動は、場所的にも期間的にも限定されたものであった。誘致活動の主役は何といっても市だったのである。

(3)県の工場操業無関与の背景

 しかしもちろん、県は工業化そのものの価値を認めていなかったわけではない。やはり県の発展にとり工業化、もしくはそのための工場誘致は不可欠のことと考えていた。
だからこそ三八年三月二八日には、「県内各市長、各方面代表者」を網羅した「三重県地方工業化委員会」を設置するのである。
 そしてこの工業化重視の発想が、四日市市同様、工場操業に対する規制の甘さにつながっていく。このことは三五年一一月二九日の県会で、工場排液の問題について問われた知事の、次の回答によく表れている。

本県といたしましても現在の工場の程度で満足すべきものでなく、これ以上まだまだ力を入れて工場誘致に努むべきもの…その工場を誘致するとともに起るただ今お尋ねの排液、その他産業上の被害の問題…適当なる妥協の下に新産業と旧産業との調和を図る…両方の産業を眺めて、妥協の下に工場を誘致して行く…

 あくまで県下の工業化を進める必要があり、したがって旧産業(農漁業)を守るために一方的に新産業(工業)を規制するわけにはいかない。「適当なる妥協」、すなわち新産業の排液にも多少は目をつぶり、旧産業に我慢してもらわねばならないと言っているのである。

(4)農漁民の対応

 市も県も、行政当局は工場操業を規制するのに及び腰である。残るは住民である。彼らが公害企業の進出に断固反対し、公害の垂れ流しに対しては強く抗議し改めさせることをしないかぎり、環境の破壊は免れない。しかし四日市市ではこの時期、一般市民はもとより直接生計が脅かされる農漁民でさ、え、生産環境(生産現場も含む)を守るため、持続的に行動することをしていない。市の姿勢に符合して、金銭間題としての処理に終始甘んじてしまっているのである。このことをまず、漁民の方から見てみよう。
 市南部に漁場を持つ磯津漁組は、三二年東洋毛糸設立当初から、同社の排液による漁獲減に対し補償を要求する。その後四日市漁組も補償を要求、さらに三五年には両漁組とも、日本板ガラスの専用岸壁築造に対し損害補償請求を行う。日本板ガラスの問題については市が、両漁組に一千五百円ずつ会社から支払うとの和解案を提案するが、四日市漁組は少な過ざると拒否、三五年一二月一二日には次のような回答を市に寄せる。

(一) 東洋毛糸の排水に対する漁業上の損害に対し、市では奨励金名義で磯津漁業組合に一千円、四日市漁業組合に二百円を交付することになっているが、これを同額六百円ずつ交付することに改めること
(二)磯津漁業組合との漁区を突堤を境界としてこの際はっきり区分けすること
そして前記条件履行の場合は…板ガラス工場の補償金二千五百円は無条件にて承認する

 すると今度は磯津漁組側が「不満を爆発」、三七年一一月二九日「組合員の少ない四日市漁業組合側を上げて当方を据え置く法はないと不平を言い出し、市長に増額を要求する」に至る。
 三八年二月、市会は東洋毛糸問題に関し両漁組に各々毎年800円交付する案を可決、一五日磯津漁組は同案を承認する。しかし四日市漁組側は「少額にして到底円満解決に応ぜられず」とし、東洋毛糸を相手に損害賠償訴訟を提起、四〇年六月、ようやく磯津と同条件で妥結する。このように両漁組とも補償金の増額には熱心であったが、そもそも漁場を侵す構造物は作らせない、あるいは排液をきちんと処理させるといったことは、この間、少なくとも記録上は全く追求されていないのである。
 四〇年六月には石原産業と磯津・四日市・富田三漁組間の補償契約も締結される。同契約には磯津に二万、四日市に一万二千、富田に一万円を交付することがうたわれ、さらに漁組側は「今後漁業被害については一切報償を求めぬ」との条項も含まれていた。そしてこの条項は「単に石原のみでなく、その他の工場にも適用される」ものだった。つまり三漁組は一時的な補償金と引き換えに、将来にわたり海が汚染されることを、事実上容認してしまったわけである。
 四〇年六月二九日、第二回伊勢臨海地方計画委員会は午起海岸地先二五万坪を埋立て、ここに浦賀ドックを誘致する計画を承認する。これを受けて早くも翌月には「同海岸で多年海苔養殖に従事してきた業者二五名は…沖x養殖に変えて進むことを申合わせた」。ここでもやはり、工業開発に対し自らの生産環境(生産現場)をあっさり放棄してしまっている。
 一方農民の方はどうか。東洋毛糸の排液被害に対しては、塩浜南旭農家組合も損害賠償訴訟を提起、三八年三月、次の和解案で合意に達する。


一 一三年度(昭和−筆者注)以降毎年一千円ずつを市から農業関係者……に奨励金として交付する。ただしこの一千円は会社から市へ寄付した形式による
一 過去の分……の補償金として二千五百円の一時金を交付する…

 しかし不思議なことに、排液被害をなくすための措置について何らかの取り決めが結ばれた事実はない。
 三八年からの塩浜の地一帯における工場地帯造成に際しては、進出工場や軍による大規模な土地買収が進められた。そして従来あった耕地三七〇町歩中、三〇〇町歩が失われたという。この時の地元農家の対応はどうであったか。以下は三九年五月一二日付け伊勢新聞からの抜粋である。

土地所有権の移転でこの四月一日から五月一一日までに請求された印鑑証明書数はザッと五百通…印鑑証明書を貰いに来た子を背にした百姓のおかみさん、お爺さん達の面は黄金色に輝いている。…某中地主の三〇万円を筆頭に、土地五町歩位の小地主がザッと一〇万円近い現ナマを握った勘定となる…

 抵抗報われず泣く泣く土地を手放したというのではなく、両手を挙げて自らの生活基盤たる農地を売却していった様がうかがえる。
 この時期、四日市のすぐ北、桑名の沿岸部では注目すべき住民運動の成果が挙がっている。すなわち三七年、同地への三重晒ウェス工場建設計画が浮上したのに対し、排液による漁場汚染を懸念した関係五漁業組合は乾海苔商、時雨蛤商等も巻き込みながら反対運動を展開、「漁民一千名を動員して漁民大会を開き徹底的な反対デモを行う等」し、「徹頭徹尾根強く設置反対を叫」ぶ。そして六月、電話の架設まで終えていた同工場の進出を断念させることに成功するのである。
 一方四日市市においては、補償問題に取り組む運動はあったが、既存の生産環境にあくまでこだわって、それを守りぬこうとする運動はなかった。このことは四日市市への工場立地を促したまた別の要因であると同時に、次に述べるように工場操業のあり方にも、当然影響を及ぼしたと考えられる。

4、都市環境

 最後に、2で挙げた都市形成活動の結果、生じた都市環境上の特質について考察する。

(1)水質汚染、顕在化

 行政当局は工場の操業規制に及び腰である。農漁民も補償要求に埋没し、生産環境に固執しない。これでは工場側は、多大な費用を負担してまで、あるいは大きな不便に耐えつつ、公害を出さぬよう自らの操業を律することはしない。一方で工場の立地だけは急速に進む。結果としてこの時期には早くも、公害現象が姿を現し始めるのである。その一つは水質汚染である。
 三五年七月、磯津漁組が県水産試験場に調査依頼した際挙げた理由(「魚類の産卵地区であったのが排液のため貝類と共に斃死…」)には、この時点での四日市沿岸域における水質汚染状況が語られている。ただし三五年段階では、まだ汚染はそれほど進んでいなかったものと思われる。なぜなら同年中には何度か、豊漁を告げる記事が新聞に掲載されるからである。
 しかし三六年になると汚染は決定的な事実となってくる。
豊漁の記事はもはや見られなくなり、同年一二月一五日の県会では、林県議が東洋紡の富洲原町地先誘致の問題を質する中で、次のように発言している。

四日市市内にも毛織会社が設立されたために、四日市港内における魚族は死滅し、付近の漁民は四日市港内においてとっておりました「イナ」鰡の類が、一尾もその姿を見せないようになった……また、寵に入れた魚も皆死んでしまうということが最近の事実であるということを聞いております…

 こうした水質汚染による漁業被害の問題は、当時、伊勢湾全域にわたるものであった。このため同年五月には対策として、漁業者より「沿岸漁業振興委員会」を組織することが提起される。しかし四日市沿岸域の汚染はとりわけ進んでいたようである。このことを示すのが、「魚のいない伊勢湾」と題する三七年一二月九日付け伊勢新開の以下の記事である。

伊勢湾内における漁業は年々衰微し…殊に本年は一カ年を通じて皆目漁獲がなく、内海唯一の鰯ですらその影少なく小型船舶業者は全く悲鳴をあげ、ついには禁止漁具、機船底引き網を使用して漁業違反に罰せられた者も多くある。県水産課において停船命令の厳罰に処せられた者が、今日までに四日市磯津、三重郡富田・富洲原両町で六隻、愛知県より密漁に乗り出した船舶一〇隻…

 漁業違反により停船命令を受けた船が四日市沿岸域に集中しているということは、同地域の漁業が際立った打撃を受けていたことの反映であろう。
 四〇年代に入ると塩浜一帯の工場群を初め、重化学工業の操業が本格化してくる。当然、水質汚染のさらなる進行が予想されるが、漁民の被害の訴えなど、そのことを示す記録は見当らない。これは水質が改善されたからではなく、四〇年の石原との契約により漁業組合が補償請求権を放棄したこと、あるいはそもそも戦時体制下、お国のための工場に文句など言えなくなったこと、さらには漁民が多数、徴用されてしまったことなどが原因と考えられる。
 つまり四日市市沿岸では三〇年代半ばより水質汚染が顕在化し、四〇年代に入るとその状況は少なくとも横這いのまま(おそらく悪化しつつ)推移し、終戦を迎えることになったと推測できるのである。

(2)地下水涸渇も顕在化

 この時期に顕在化したもう一つの公害現象に、地下水の涸渇がある。六一年発行の『四日市市史 上(昭和三六年版)』によれば、三五年より三六年にかけ、三重製絨所、東洋モスリン、日本板ガラスなどが次々と操業を始め、各工場とも井戸を掘って工業用水を確保したため一般民家の井戸が涸渇、市営水道の給水申込者が激増したという。また三七年三月二日付け伊勢新聞は、誘致された大工場が「工業用をはじめ従業員の冬期における暖房並びに夏期における冷房装置のため……大口径の鉄管により昼夜間断なく地下水を汲み上げている」ので、市内銭湯の井戸水が激減し湯屋業者が悲鳴を上げ始めたと報じている。
 四〇年代に入り塩浜方面で大工場が操業を始めると、これら工場もやはり、何ら規制なき下で自由勝手に深井戸を堀り工業用水を確保していった。例えば石原産業の場合、「手っ取り早く深さ地下六五〇尺の大井戸を開鑿…工業用並びに飲料用水の自給自足の自信を得ることに」なる。しかしこの「自給自足」は、周辺住民の通常の井戸を犠牲にしたうえで成り立つものであった。以下は四一年三月二五日付け伊勢新開からの抜粋である。

塩浜地帯は付近大工場の大漁模な鑿井と接続する鈴鹿川での大量土砂採取の関係からか、最近井水の涌出量が極度に減退した。工場敷地造成のため県道白子・四日市港線沿いに移転した約三百軒の如きは日々の炊事にさえ困る有様…

 四日市市営水道は三九年末より二年にわたり時間給水を実施、その後も夏場に限らず幾度か給水制限を行っている。このことは先の市史の記述のように、地下水(井戸水)の涸渇が給水需要増をもたらし、それに水道設備の拡張が追いつかなかった結果とも考えられる。
 豊富な地下水を誇った四日市市であったが、大工場の無制限な大量取水はそれをも涸渇させ、地下水位の低下をもたらしたのであった。

5、まとめ

 以上、四日市市の三〇年代初頭より戦争末期までの都市形成史を、工場操業に関する問題に絞りつつ、都市形成活動、背景、都市環境、の三つの観点から分析してきた。
 都市形成活動については、まず三二年の東洋毛糸設立を先駆けとしてこの時期、工場立地が急速に進行したことを述べた。しかし立地した工場の操業を、生活・生産環増を守るため規制することは、市も県も行わなかった。こうした市・県の姿勢の背景には、いずれもが工場誘致=発展と強く考えていた事実があった。また市については、周辺市町村が挙げて工場誘致をめざしていたことが、工場への寛容な姿勢をさらに加速させることになった。一方工場立地が進んだ背景としては、活発に展開された工場誘致活動を挙げ、かつこの誘致活動はあくまで市(県でなく)が主役となって進めたことを述べた。そして農漁民が補償要求に終始する状況が加わり、都市環境については、水質汚染及び地下水の涸渇という二つの公害現象が顕在化したのである。
 六〇年以降のいわゆる四日市公害は、“臭い魚”に代表される海の汚染により幕を開ける。また戦後四日市市は他の工業都市同様、地盤沈下が激しく進行するが、地下水の涸渇はいわばその先行的現象とみなすことができよう。
 戦後の都市形成史を分析し、本稿で指摘した公害及び戦後新たに生じてくる公害の推移を追跡、六〇年代四日市公害へとつなげていくことが今後の課題である。


 引用文は当用漢字、現代仮名遣いに改め、必要に応じ句読点を加えた。なお、文中の…省略個所を示す。

年代は西暦表示とし、一九〇一年以後は下二桁のみ記す。