1−2 地域史の立場からみた被害者・住民運動資料保存の意義

−『四日市市史』を編さんして−

1.はじめに

 私が四日市市史編さん事業に加わったのは、今から約10年前です.1998年3月には、四日市公害関係資料を含んだ『四日市市史』第15巻(史料編現代U)を、発行いたしました.本日は、その編さん事業を通して私が感じたことを、いくつかお話ししてみたいと思います.参考までに公害関係の目録資料も持参いたしました.
 ところで、私は「公害のデパート」といわれた富山県の生まれです.高校生時代にイタイイタイ病の問題を学んだりして、地域原発と環境の問題を研究してみたいと思いたったわけです。現在は、地域経済論という分野を専攻しておりまして、地域の産業活動、開発政策、そして環境・公害問題の歴史分析・現状分析に取り組んでいます.

2.『四日市市史』の概要

 さて、『四日市市史』は、全20巻からなっています.各時代ごとに研究者で溝成される部会を置いており、私は近現代史部会に所属しています.部会の対象時期は、明治初期から始まり、1988年(昭和の終わり)までです。部会の構成員は9名で、「政治・行財政」、「産業・経済」、「社会・文化」の各分野を分担しています.私は主として農林漁業、重工業、地場産業(ここは万古焼きが有名)を担当しました.先ほど紹介した「史料編現代U」の発刊で、史料編の刊行はすべて終わったことになります.
 1945年までを対象とした「近代I」から「近代V」の各巻は、政治・行政編、産業・経済編、社会・文化編という通常の編さん方法で行い、まとめやすいものでした.しかし、「現代」に入る と途端に難しくなってしまいました.経斉の問題がそのまま政治の問題にはね返り、さらにそれが社会問題になってしまうことが日常化しており、各領域をバラバラにすると問題の全体像がつかめなくなるからです.その典型が、四日市公害問題でした.
 四日市のコンビナート形成は、塩浜地区でなされました.同地区で戦前に建設された海軍燃料厰が戦後売却されることによってコンビナートがつくられたという歴史があります.高度成長期に、そのコンビナートを中核にして、イオウ廃棄物が大量に排出されたわけです。最盛期には、一日平均230トンというイオウが排出されて、公害が発生しました.問題は全分野にまたがっており、政治・経済・社会という割り方では到底処理できませんでした.そこで、現代編では時代ごとに割って編集していくことにしました。「現代編I」は1960年まで、「現代編U」は1960年から1988 年までを扱いました.
 いまひとつの難しさは、行政が行っている市史編さん事業であるということと、多くの当事者が生きているということです.資料の掲載、公表が、なんらかの形で政治問題化・社会問題化する危険性がつきまといます.これらの問題を調整し、刊行に踏み切ることができました.今後は通史編2巻の発行を残すのみで、編さん事業は最終段階に入ってきています。通史編については、現在「近代編」の担当分を書き上げたところで、公害の問題はこれから来年度にかけて扱う予定です.

3.『四日市市史』と公害

 部会では、現代編の目玉は公害問題であるという共通認識を当初からもっていました.そのために、市の担当者も交えて何度も議論をしました.その上で、編さん事業の中で公害を要にすえることにし、戦後史の中心テーマとしました。全体1000ページのうち、350〜400ページを公害にあてました。学際的であるということで、政治学、経済学、社会運動の人々が分担して入るというやり方をとったわけです。これはこれで大変でした。何故なら、各人の問題意識が違うし、資料の読み方についても困難がありました。一番難しかったのは、自然科学的な知識を持った人がいないということでした。公害問題というのは、自然科学の知識がないと適切な分析も評価もできないわけです。編さん事業というのは、どこの自治体でも自然科学者が入るのは自然編くらいで、地質学者や地形学者はよく入っていますが、生物学者や医学関係者は入ってきません.この部分をどうカバーするかが問題になりました。そこで、裁判当時活躍された吉田克己先生(当時、三重県立医大在職、疫学的論証を行われた)を招いて、かなり濃厚な勉強会を行いました。いろいろな分野の研究者が、自然科学的な知見を勉強し、それに基づいて作業を進めました.
一方、資料収集については、主に事務局の方にお願いしてきましたが、彼らも以上のことを前提にして、方々に資料収集に出かけました。また、研究者サイドとしては、公害に関する行政資料については、すべて公開して欲しいと要望しました。この結果、私たちも自由に市役所内の文書庫に入って、あらゆる資料を見ることができました。基本的に市役所にある資料は、すべて、かなり立ち入った内容の資料まで見ることができました.

4.公害資料の収集・編さん

 本日のテーマにも関連しますが、問題は収集過程の難しさにあります.資料があまりにも分散しすぎている。しかも、四日市市内だけでなく、中央官庁のある東京や三重県内にも随分散らばっていました。市役所の中だけでも、議会サイド、担当課サイドがあります.しかも担当課は、いくつにも分かれている状態でした。四日市市の場合、都市改造もやっているので、都市計画関係(図面も含めて)も大量にありました.
 私の分担は、企業関係だけでしたが、最初の段階でピックアップしたもので1000点以上、その中で史料編に掲載できたものは20〜30点です。紙幅の制約で、ほとんどのものが載せられていません。企業の方も、大気汚染では昭和四日市石油等々のコンビナート企業、硫酸を四日市港に垂れ流した水質汚染の石原産業などがあるわけですが、このような会社資料はなかなか出てきませんでした。企業関連資料で、私たちが入手できたもので最良のものは、三重県あるいは四日市市役所に対する提出資料でした。これらが綴じられたものが幸いすべて残っていました.これらを使わせてもらって、各年次ごとで会社側がどれだけ原油を使用したのか、どれだけイオウ分が出ているのか公害防止設備にどれだけ投資しているのか、どういう設備をつくっているのかがわかりました.運動団体関係では、本日ご参加の澤井余志郎氏が集められたり、書かれた資料をかなり使わせていただきました。これらが残っていなければ、もっとしんどいことになったのではないかと思います。公害問題が盛んだった時期、いろいろな機関誌、ビラができましたが、それを発行していた団体が現段階ではほぼ消滅してしまっていて、資料がどこへ行ったかわからない状態になっています.それらを澤井氏がずっと収集されていて、それをもとに市史編さん室の方で目録を作ってもらいました。この目録を私たちは大いに参考にさせていただき、資料を収集することができました.
 労組関係では、コンビナート内労組、教員組合、市職労などがありましたが、これらは比較的集まりやすかったかと思います.
弁護団事務局は、特に裁判関係資料を残しており、非常にきちんとした数字的なもの、論証過程などを知るための参考資料となりました.
 裁判所の方は、所内資料の公開にはかなり難しいところがあり、閲覧はできましたが公開まではできませんでした.勉強にはなりましたが公開できなかったことは残念です.
 新聞記事も大変な件数にのぼりましたが、市史編さん嘱託の一人が元図書館職員であり、その方が中心となってほぼ完全な目録をつくっていただきました.地元紙の伊勢新聞だけでなく、全国紙も含めてすべてカード取りを行い、明治初期から現代まで揃いました.それ以外に、澤井文書などの個人文書、行政文書の目録も整備され、非常に助かりました.
 問題は公害担当だけでも5、6人おり、すべての人が資料をリストアップすると何千点という分量になってしまうことでした.それをどう秩序づけるか、グルーピングするかで、かなりの時間を費やしました.抄録資料は、それだけでは意味がわからないのでなかなか出せません.まとまった形で、当時のある時点の状祝や問題がわかる資料(一応市史は、市民向けということで編さんしていますので)を中心にする以外ありませんでした。そういう意味で新聞資料を多用せざるを得なかった悔いがあります.
 歴史の証として貴重な資料でありながら未公開のものをどうするかについては、今後の四日市市の宿題になるかと思います.特に今回の市史刊行計画の中で入り込む余地がなかった、政府の調査報告書の類や多くの学術団体の調査報告書を集成しておく必要があります.裁判所関係の資料も膨大にありますが、すぐ利用する形では整理されていません.以上のように宿題も多いわけです.たまたま、非常に力量のあるスタッフがいて資料の収集と目録づくりがなされたことは、後世に残る貴重な財産ではないかと考えています。

5.公害資料の保存・整備の必要性

 最後に、四日市市史編さん事業に関わって自分自身が感じたことを4点あげます。

@公害問題の一般性と地域性
 公害問題は高度経済成長の裏返しとして、日本史の一断面ということで取り扱われる場合がよくあります。ところが、どこでも公害が起こったわけではないということに注意する必要があります。ある地域、例えば四日市市というところにコンビナートができて、それが排出する亜硫酸ガスによって四日市ぜん息が発生したわけです。西淀川の公害は西淀川の地域的条件があって発生したものです。このように非常に地域性のある現象です。この点をしっかり見すえる必要があります。公害をテーマに全国ひとつの資料集成をつくるということではなく、その地域に即した社会経済現象をトータルにつかめるものでなければ、公害発生そのもののメカニズムもその原因究明に関する論拠づけも難しいわけです。私は地域の様々な分野の資料と一体のものとして保存・利用されるべきだと考えます。

A公害は終わったわけではない
 四日市でも公害認定患者の高齢化が進んでいますし、これまで発症しなかった人も新しく発症しています。ところが現在では新規に認定を受けられないという問題が起きています。四日市では今も問題が続いているわけです。これからも、どんなことが起こるかわかりません。様々な環境変化によって患者の症状の現れ方もちがってくる可能性が強い。その意味で過去の資料をしっかり保存しておくことが、今後の公害問題に取り組む上でも重要になるかと思います。

B地球上で2度と同じ誤りを繰り返さないために(四日市での「初期公害」との関係で)
 四日市の戦前史を見ていると、誘致企業による公害が、すでに昭和7〜8年から出ていました。私はこれを「初期公害」と呼んでいます。東洋毛糸紡績という塩浜地区に誘致された工場が悪液を垂れ流していました。これによって魚介類が死滅してしまうということが起こって、当時、漁業組合等が猛烈な運動を展開しました。しかし、その解決の仕方が問題でした。市と県と毛糸会社が補償金を積んで、それで一斉に黙ってしまう。当時、石原産業が誘致される時期でしたが、今後石原産業に伴う問題に関しては一切保証を求めないという念書も交わされています。こういう歴史が、昭和36年版の市史には描かれていませんでした。四日市で上のような問題があったことを地元の人々はあまり知られていません。この史実が語り継がれていれば、戦後の四日市公害の展開もまた違っていたのではないかと思うのです。いずれにせよ、歴史を正しく語り継ぐことが重要です。
 他方、私のところに日本の公害問題を勉強したいという留学生がきています。中国をはじめとするアジア諸国は、現在、開発の進展のなかで大変な公害問題に直面しています。彼らは、日本の公害問題と、その解決方法などを学んで帰りたいというまじめな問題意識を持っています。日本の公害資料の保存と研究は、このような世界的な意義もあるのです。

C公害資料の整備体制と公共団体、運動団体、研究者
 公害資料は、放っておいたら分散と喪失を免れないという危険性をはらんでいます。これらを整備するためには、いわゆるNPO、住民団体だけではだめです。公共が何らかの形−市史という形や、資料館をつくるという形等−で支援し、資料を保存する必要があります。その中で運動団体には牽引車となっていただきたいと思います。専門家である研究者の協力を得ながら、3者の役割分担をしっかりとつくっていく必要があると考えます。

岡田知弘(京都大学大学院経済学研究科教授)