1.第5学年 社会科指導案 日本の工業(工業の発展と公害)
 
T.目標
    ・日本の工業の移り変わりや工業地域の分布、各種工業生産の様子などについて 調べ、日本の工業の特色を理解する。
    ・一つの産業は多くの関連会社、関連産業と密接につながりながら成り立ってお り、そのことが、産業の二重構造を生んでいる。このことが労働者の生活にも 大きな影響を与えていることを理解する。
    ・工業の発展は、国民に大きな利益をもたらした一方で、公害により環境や人間 の健康やいのちを奪ってきた事実を理解し、国や企業の利潤追求のあり方と人 間が生きることの意味について考える。
    ・日本の文化と芸術を伝える伝統産業について理解し、大工場の生産システムと 対比させながら、伝統産業に携わる人々の思いについて考える。
 
U.単元、題材について
 日本の工業の大きな流れは、明治時代に始まる。国の近代化をめざす政府は、西欧に肩を並べるため、急激な西洋化政策をとる。富国強兵もその中の大きな柱であった。国営工場として、全国にいくつも工場を建て、多くの人々がその工場で働いた。外国からの技術や機械を取り入れる一方で、労働者は長時間労働とわずかな賃金であった。こうして、軽工業を中心として、日本の工業は発展を遂げる。さらに、第1次世界大戦後には、化学工業などの重化学工業も盛んになる。
 そして、第2次世界大戦後、日本の復興と共に、四大工業地帯を中心に、日本の工業は大きな発展を遂げる。特に、もともと港があった地域にコンビナートが形成された。工場が単発であるのでなく、関連した工場同士がパイプラインなどでつながれ、原料輸送などを短縮しつつ、製品化した物をすぐ輸出できる利点がある。こうしたコンビナートが、1960〜70年代に各地につくられ、工業地域も全国各地につくられるようになった。もともと第2次世界大戦前から京浜、中京、阪神、北九州の工業地帯が成立していたが、石油、鉄鉱石などを輸入し、それを製品化することが工業の主流になり、それまで盛んだった繊維工業などの軽工業は除々にその比率を少なくする。さらに、新しい石油工業基地として、それまでの四大工業地帯の他に、臨海地域に京葉、瀬戸内、東海などの工業地域が形成されるようになった。結果、工業地帯・地域が太平洋沿岸にベルト状に連続することとなり(太平洋ベルト)、日本の高度経済成長を支えることになる。
 高度経済成長をめざす政府の方針により、所得倍増など、経済面で大きな成長を遂げたものの、土地、用水の確保の問題、汚水、大気汚染などの問題が発生した。そのため、沿岸部の工業地から、内陸部への進出が始まる。その結果、それまでの鉄鋼、石油化学工業のような大量の原料や用水を必要としない、組立を中心としたIC、コンピューターなどの電気機械、自動車などの工業がさかんになり、臨海部から内陸部、都市から地方への進出が更に進んでいる。こうした工業地域の拡散が進む背景には、高速道路や鉄道、地方交通の整備が進んでいることもその要因であろう。
 日本の工業は、原料を輸入し、製品化し輸出する加工貿易を中心として発達してきた。 鉄鉱石、石油、天然ガス、石炭などの主な工業原料やエネルギー資源は日本ではほとんどとれず、外国からの輸入に頼らざるをえない。その中で一定の利益をあげるためには、高品質、高性能な性能の製品を低コストで生産する必要がある。そのために、まず削減されるのは人件費である。そこで、工場はオートメーション化され、低賃金の労働を得るため海外へ工場を建設する、部品は海外で最終製品化だけを国内で行うなどの現状がある。製品・技術開発などに力を入れる一方で、手間がかかり、また精度を要求される部品などは下請け、孫請けの会社へ低コストで任せ、安い部品をそろえる。このようなシステムが、日本の安くて高品質な製品を作り上げてきた。しかし、それが海外での貿易摩擦や日本製品バッシングなどを生んだ。
 一方、日本の生産システムを海外の人々が取り入れることで価格差も少なくなってきており、日本の今後の大きな課題となっている。
 また、低価格・高品質な製品を作り上げてきた中に、産業の二重構造がある。一つの企業は、その企業単体で成り立っているのではない。その下に多くの関連工場、関連産業とつながり、成立している。部品など精度を要求されるものは、関連工場などで安いコストで多く作らせるシステムになっている。そのため、関連工場は、面倒で人手のかかる仕事をしているものの、生産額は伸びず、親会社の意向で製品価格も抑えられることもしばしばである。当然、賃金も思うように上がらない。規模も小さく、設備も不十分な中での経営は、親会社の経営状態に左右されている。言い扱えれば、景気が悪くなれば、真っ先に切り捨てられるのである。
 しかし、日本の工場数は、従業員100人未満の中小工場が全体の80%以上を占め、従業員数も全体の半数を超えている。つまり、日本の工業を支えているのは中小工場である。現実には中小工場は、下請け、孫請け工場として大企業を支えているのである。言い換えれば、中小工場なしに、日本の工業発展、経済発展はなかったと言える。この関係や矛盾については、できるだけ掘り下げて考えさせたい。
 さて、このような中で、四日市ぜんそくを中心に日本の高度経済成長のもたらしたものについて考えていきたいと思う。
 四日市市にあった旧海軍燃料しょう跡に昭和石油が進出を決定したのが1955年である。1958年、昭和石油の精油所が繰業を開始し、その後、中部電力、三菱油化、石原産業などが続々と工場を建設し、翌1959年から第1コンビナートとして、本格的に稼働し始めた。政府の高度経済成長政策、重化学工業化と相まって、煙突から出る廃
ガスの炎(フレアスタッグ)は、夜も消えることがなく、経済繁栄の象徴とされ、当時の塩浜小学絞の校歌にもその旨が歌われていたほどである。石炭燃料から石油燃料への転換期ということもあり、大きな経済効果を生むことから、四日市市の行政も市民もコンビナート建設は大きな期待をもって迎えられた。
 しかし、1年後には、築地市場で「伊勢湾の魚が油臭いので検査が必要」との話が出、そのころになると、塩浜地区ではコンビナートからの煤煙、悪臭、騒音がひどいことから、市当局へ陳情に出向くことになった。
 事実、塩浜の磯津では、北西の風が吹く度に町にすすが降り、畳の上が真っ黒になるほどだったという。そのうち、石原産業の近くの海岸の船のスクリューが腐ったり、朝顔の葉に斑点ができて枯れていったり、松の木が枯れていくということが起き始める。
 同時に、夕方北西の風が吹くと、磯津の町の多くの人たちがせきこむということが起こる。もともとぜんそくの気がある家庭ではないということ、一日のうちの一定の時間帯に起こるということから、人々も工場との関係を疑い始める。
 ぜんそくの発作は、昼間でなく、風向きによって夕方から翌日未明にかけて起こったという。子どもの中にはそのぜんそくのひどさにたんすの取っ手をちぎった子もあったという。しかし、その様子は近所の人たちにはわからない。夜のぜんそくの発作のひどさに翌日学校を休ませようとする親に対し、「ずる休み」の一言で片づけてしまう近所の人たち。
 ぜんそくの苦しみは、その発作だけでなく、同じ町に住む同じ市民からも、そのぜんそくの様子がわかってもらえず、冷ややかな目で見られるという現実があったのである。
 一方、このような現実から自治会では、市役所へ訴えるなどの活動を続ける。自治会が病院での費用を出すようにしたり、漁民たちはコンビナートの排水口をふさぐために実力行使に出ることもあった。しかし、依然、市、国は「経済成長」を掲げ、住民の訴えには耳を貸さないままであった。また、工場も「自分の所は原因でない」と操業を続け、1963年には第2コンビナートが操業を開始したのである。
 同じころ、ようやく厚生省、通産省が大気汚染特別調査会を組織し、四日市を調べ、四日市市、楠町が「煤煙規制法」の規制地域に指定される。しかし、コンビナートは、煙突を高くするだけの処置にとどまり、結果として汚染地域を広げる結果になってしまった。
 1965年、市は「公害認定制度」を決め、ぜんそく患者の治療費は全額市が負担することとした。しかし、企業側はコンビナート操業を続け、更に第3コンビナートの建設を進めて、また四日市市議会でもこれを議決している。
 つまり、公害の広がりを認めつつ、経済成長をめざし、人命軽視の姿勢を打ち出していたと言える。企業の経済効果を追認し、少数の市民の声を無視した結果となったのである。
 そして、1967年9月、ついに磯津の四日市ぜんそく患者9人が、煤煙を出している企業、会社6社を相手に津地方裁判所四日市支部に提訴する。しかし、当時同じ磯津の中でも、裁判を起こすことには反対した人々が多かったという。親類、縁者にすら「縁切りや。」と言われたという。裁判にはお金がかかる、しかし、企業はお金を町に落とすということ、大きな企業を相手に裁判に勝てるはずがないといった考え方が強かったのである。
 裁判を起こした9人は、その費用をつくるため、東京等でもカンパを募りに歩いた。しかし、四日市ではなかなかカンパをしてくれる人は少なかったという。むしろ、旅行者などがカンパに協力してくれたそうである。やはり、コンビナートに抵抗する人々を地元四日市の人々は快く思わなかったのであろうか。
 そんな中で、三重大学での研究、実験の結果、コンビナートの出す煤煙がぜんそくの原因であるということが医学的、科学的に証明され、それが証拠となり、1972年、原告全面勝訴という結果につながったのである。結果、喘息患者と企業の中で公害防止、被害補償などについての約束が交わされることになった。
 しかし、原告団の一人はこう言っている。「裁判には勝ちました。しかし、これで公害がなくなったわけではありません。公害がなくなった時に、『ありがとうございます』と挨拶をさせてもらいます。今日のところは、裁判の応援をありがとうございましたという挨拶にとどめます。」
 原告団は、裁判に勝つことが目的ではなく、公害そのものをなくすために裁判という方法を採ったのである。裁判は通過点であり、最終目的は四日市の空をかってのような青空を取り戻すことなのである。結審がゴールではなく、ようやくスタートについたと言えるかもしれない。
 その後、企業は脱硫装置や脱硝装置を取り付け、亜硫酸ガス、二酸化窒素などを出さない取り組みを始める。また行政は、市内各地に空気の観測器を取り付け、コンピューターで監視できるようにしており、四日市環境学習センターでも観測データを見ることができる。
 空気もきれいになり、四日市に青空も戻ってきた。しかし、その結果、1988年に指定地域解除が通告され、喘息患者の認定もされなくなった。このことから、四日市喘息はなくなったと言えるのだろうか。
 しかし、現実に、今も四日市市内に公害認定患者は何百人もおり、発作に苦しみ、酸素吸入器を離せず、何種類もの薬を飲み続けている。また、薬の副作用から別の病気で苦しんでいる人もいる。その点を考えた時、空気がきれいになった、認定制度がうち切られたということが、反対に認定患者に「公害がなくなったのに、なぜ患者がいるんだ?」といった見方になり、認定患者の新たな苦痛を与えていることになっているのである。また、その点から、本当に公害がなくなったとは言えない現実がある。
 さらに、コンビナートでは新たな工場を建設する計画を立てている。コンビナート地区の地下には、コンビナートのパイプが通り、そこをガスが通っている。一つ間違いが起こり、ガスが爆発すれば、喘息の被害とはまた別の大きな惨事が起こりうる可能性もあるのである。
 患者の一人はこう語っている。「まず経済が大事か、環境保全か、どっちが大事なのかということをよく頭において考えてほしいです。」
 目先のお金、経済的な裕福さを追いかけ続けることで、気がついた時、自分の町の環境が回復しないほどに壊されて、そして、自分の体がボロボロになっていて、その時、いくら文句を言っても手遅れである。
 目先のおもしろさだけを追いかけ、本当に人間が生きていく上で大切なことが何か見ようとしない子どもたち。自分たちの生活の中で本当に大事にしなければならないことは何か、一人ひとりの子どもたちに、自分の生活をふり返り、自分の生活の足もとをしっかり見つめ直させていきたいと思う。
 更に、この学習をふまえての疑問などをもって、社会見学で聞き取り学習を行う。公害患者の支援者であった澤井余志郎氏に第一コンビナートの全景を案内していただき、更に塩浜小学校で当時の様子などを学習する。当時のビデオなども見せてもらい、四日市の様子を学習する。
 その学習をふまえて、自分が四日市ぜんそくについてどう考えるかだけでなく、自分自身が生活の中で差別事象に出会った時、どう行動してきたか、どう行動していくのかといつた点も考えていきたい。四日市ぜんそくの学習は、単に過去の公害の問題を知識として頭にとどめておくものではない。裁判を起こした人々の生き方に学び、自分たちの生活の中にある差別・被差別の構造を見抜き、その中で自分がどう行動するかを問い直し、自分が今後どんな生き方をめざしていくのかを宣言する学習と位置づけていきたい。そのことが、反差別の生き方につながっていくと考えるからである。

 

V.指導について

 日本の工業の分類や現在の工業地帯・地域の様子など、工業についての総論的なことはワークシートを使ってまとめたり、自分で調べる作業を行ったりし、おおまかな概観をつかませるようにしたい。図書室などで調べる時間も保障していきたい。
 これらの活動をもとに、三重県北勢地方が中京工業地帯に含まれ、四日市もその重要な拠点であることを押さえておきたい。同じ県内ということから、子どもたちも関心を示すものと考える。
 それをふまえて、四日市での工業の発展が市民にどんな影響があったのかを考えるものとして、四日市ぜんそくの学習に入りたい。工業や公害については、夏休みの自由研究で調べてきた児童も何人かいるので、その発表を聞き合ったりする中で、その内容にも触れながら、学習を進めていきたい。
 まず、はじめに「コンビナート」という言葉であるが、資料を提示し、一つの工場が単独であるのではなく、多くの工場がパイプラインでつながり、四日市の海岸部そのものが一つの工業地帯となっていることを理解させたい。そのような四日市市の状況をつかませた上で、四日市ぜんそくの学習に入っていきたい。
 四日市ぜんそくの学習については、西柘植小学校で患者加藤さん、支援者澤井さんから聞き取ったものを編集し、教材化した「四日市ぜんそくを語る」を用い、学習を進めていきたい。      
 その中で、公害が起こってきた背景や、当時の国や市の考え、企業の動き、市民の動きなどと患者の思いををつかませていきたい。
 この中には大きな差別構造が潜んでいると考える。国や市の行政は、地元への利益誘導を第一に考え、企業をサポートする立場である。「経済成長」を至上命題と考えていた当時は、行政、企業が連携し、政策を進めていく。むろん、当初は地元もその動きを歓迎していた。しかし、その中で、ぜんそくが広がっていく。しかし、そのことを市や企業にいくら訴えても門前払いである。当時の、国中が「お金」を目的に突き進んでいた姿を捉えさせたい。
 ぜんそく患者の様子については、岡田さ津子ちゃんのことが例として取り上げられている。その中で、患者に対して厳しい目を向けているのは、国や市、企業だけではないことが見えてくる。つまり、同じ市民、同じ町の隣に住んでいる人ですら、「あの子はずる休みをしている。」と言った見方をしていることが明らかになる。ここに、四日市ぜんそくの差別構造が市民の中にもあることが明らかになってくる。決して、市民全員が苦しい思いをしていたのではなく、市民の中にも行政や工場の考えを支持する考えがあったことをおさえていきたい。ぜんそく患者の苦しさは、ぜんそくの症状だけでなく、そのことがわかってもらえない、行政や工場だけでなく、隣に住んでいる人にすらわかってもらえないことにあることを考えさせたい。
 そんな中で、ついに患者の中で裁判を起こそうという動きが出てくる。その中で、親類や縁者ですら、「国賊」「縁切り」といった言葉を投げかける。患者たちが一番信頼していた人々が平気でそのような言葉を出し、患者たちから離れていく。親類や縁者ですら、裁判にかかるであろうお金を自分が出さなければならないことを心配している。「お金」を最優先に考えているのは行政や企業だけではなく、市民の中でも「お金」を最優先にしていることをとらえさせたい。そこに、公害の本当の恐ろしさがあるのではないか。最後は、自分の身を守ることに走り、親類ですら離れていくところに、差別構造が見えてくる。
 単に、企業が悪い、国は何をしているといった一面的な物でなく、同じ市民ですら患者の実態をわかろうとしない、また親類ですらお金を優先してしまうというその構造こそ、公害の本当の問題ではないだろうか。「お金」か「命」か。言葉で言えば「命」という言葉がかえってくるであろうが、実際に子どもたちの生活の中でも、自分の好きなこと、したいことだけを優先し、みんなのために、生活の中で大事にしたいことを後回しにしている現実がある。そういったことも問い返しながら、自分の生活と重ねて考えさせていきたい。
 また、結審が四日市ぜんそくの終わりではないことをとらえさせたい。「公害がなくなった時に、ありがとうございますと言いたい。」と言った原告団の思いを考えることによって、裁判に勝ったからいいのではなく、そこから新たな闘いが始まることを考えさせたい。
 そして、指定地域の解除、患者認定制度の打ち切りなどが、さらに認定患者を厳しい状況に追いやっている事実をとらえることにより、公害はまだ終わっていないということをしっかりつかませたい。
 患者の「経済が大事か、環境保全か、どっちが大事なのか」という言葉を自分たちの問題と重ねて考えさせたい。単によそのお話、昔のお話ではないのである。
 その学習を経て、現地での聞き取り学習を行う澤井余志郎氏からの聞き取りは、単にわからないことの質問で終わらず、その中で澤井氏の生き方にふれ、澤井氏の生き方から自分が学ぶことは何かという点にまで掘り下げたい。自分自身も、また家族も四日市ぜんそく患者ではない澤井氏がなぜ一生の半分以上を四日市ぜんそく患者と共に過ごしてきたのか、なぜ今も尚、四日市ぜんそくにこだわり続けるのか。その生き様にふれ、私も学んでいきたいと思う。
 四日市ぜんそくの問題は、単に公害の問題というだけではない。教材「四日市ぜんそくを語る」にあるように、その中には差別構造(差別・被差別の関係、差別者・傍観者・被差別者といった図式)が見える。ぜんそくをつくり出した工場、「高度経済成長」をうたいあげ、ぜんそく患者より経済優先を打ち出し、工場と同じ歩みを続けた行政が差別をつくり出した側であり、市民の中の少数派である患者たちは被差別の側である。そして、経済優先の世論に同調し、ぜんそくに苦しむ子どもを「ずる休み」と言い、患者の訴えに対し「国賊」と言った多くの市民は傍観者であり、差別者である。
 このような差別構造の中で、少数派、弱者(被差別者)である患者たちが自ら立ち上がり、自分たちの思いを裁判という形で訴え、そして勝訴を得る。しかし、裁判で勝訴したことで終わったのではない。ぜんそくの症状は一生続き、薬、酸素吸入器を離せない状況である。そして、何より、「経済か環境保全か」と問いかける患者の思いは、目先のおもしろさを追いかけ、生活の中で何を大事にするのかを考え直すべきわたしたちへの警告と言えないだろうか。そこの点で子どもたちに自分たちの生活を見直させ、これからの生活で自分がどう生きていくかをそれぞれに確かめさせたい。
 また、この公害問題の中の差別構造は、学級の差別構造にもつながる。特に、傍観者として、事なかれ主義、あえて自分に関孫ないことには関わろうとしない子どもたちは、四日市ぜんそくの中の市民と重なる部分が多い。この学習が、単によその問題ではなく、今の自分たちの生活のあり方、なかまとのつながり、学級の問題に当てはまるという現実を見つめさせていきたい。そして、今の自分の生活、考え方の中で、「今のままでいいのか。」「自分からできることはないのか。」「周りに流されて、本当にやるべきことをやりきっているのか。」といったことを見直し、変革していく機会としていきたい。
 そして、更に「あいうえお」、「伝えたいただひとつのこと」の学習につなげていきたいと考える。

X.単元構想

Y.「四日市ぜんそく患者の語り」ワークシート 3の場面
@工場や市・国などが何もしようとしないので、患者さんや患者さんを支援する人達は何をしようと踏み切りましたか?   (          )
・はじめは何人で起こしましたか?  (  )人
A第1次の裁判の時、どんなことを言われましたか?
「                               」
「                               」
「                               」
・どんな人に言われたのですか?
(                               )
・なぜそんなことを言ったのでしょう?
(                               )
B周りの人達は、裁判についてどうでしたか?公害についてはどうでしたか?
(裁判                 公害                )
・どうしてそんな考えを持ったのでしょう?
(                                    )
C患者さんたちはどんな思いで、裁判に踏み切ったのでしょう。あなたの思うことをくわしく書きましょう。
 
 
D患者さんや支援団体の人達は、裁判にかかるたくさんのお金を、どうやって集めたのですか?
(                                    )
・「四日市に青空を取り戻そう。」「公害をなくそう」と「青空バッチ」を作って、四日市の市民に売ったとき、市民の反応でどうでしたか?
(                                    )
E患者さんたちが裁判所か検察庁かへ行ったとき、なんと言われたのですか?
「                              」
・患者さんは、なんと言い返したのですか?
「                              」
・患者さんたちは、総理大臣の田中角栄に何と言われたのですか?
「                              」
・こんなことがあって、患者さんたちはどんなことを思っていたのでしょう。
 
感想や疑問
・四日市ぜんそくはせきがひどい、のどが痛い、ぜんそくの症状だけだろうか。苦しめたのはこれだけだろうか?
・四日市ぜんそくで(どのくらいの人)死者は出たのか?今どれくらいの人が苦しんでいるのか?
・なぜ、亜硫酸ガスの入った煙を出したのか(なぜできるのか)?
・なぜ、四日市ぜんそくが起こったとき、工場は何とかしなかったのだろうか?
・どうして公害病が起こるようなものを作ったのだろうか?
・公害をなくすためにどんな努力がされているのか?
・公害のある世の中が続いたら日本はどうなるのか?