白い霧とのたたかい

 


 四日市のような、石油化学コンビナートの既設地では、「公害は発生源で解決する」ことであり、公害によって被害を受ける住民が、発生源で解決されるよう、市、県、国、企業をしてそうさせる。つまり「公害反対運動は、住民闘争で進める」ことだと考えます。
 この映画は、その2つの基本についての成果をあげていくことを願って制作しました。
 これに関連して、これから重油燃焼の火力発電所や、石油化学コンビナートを自治体が誘致しようとするところでは、市、県に向けての公害予防闘争(誘致反対)として、やはり、ここでも、住民闘争によって成果が得られると考え、そのことも映画製作上考慮しました。

 そういう考えのうえで、実際に運動を進めるには、まず、公害の本当のこと(恐ろしさ、被害状況、発生源のことなど)を知ることが大切であり、そういうことの認識の上でどう運動を進めるかという発展の仕方が必要であり、この映画は、公害の本当のことについての概話的なことを、まず、映画を見る=感覚的につかみ、そのうえで、学習を積んで深く知ることであり、したがってこの映画は、職場や、地域の隅々での上映をしたいと願っています。
 特に四日市の人たちは石油コンビナ−トや、公害を目の前にしており、公害については何でも知ってると思いがちですがさて、誰かに四日市の公害について聞かれた場合、答えるのに困る、ということがよくあります。

したがって、この映画を数多く上映する。(見せる。見る。)公害学習−公害反対運動に結び付けてことであるし、欲を言えば、四日市だけの活用ではなく、県下全国各地で活用されたらと考えてもいます。


シナリオ


タイトル

公害病患者大谷一彦さんの自殺で、
 自宅と遺族、遺影

 昭和42年6月13日、甘納豆を作っている岡女堂の主人、大谷一彦さんが、「ああ、今日も、空気が悪い」の一言を残して、60年にわたる生涯を自らでで絶たれました。昨年7月の木平さんに続いて2人目の犠牲者です。

市民集会とデモ行進

 6月16日、四日市公害対策協議会の呼びかけで、公害犠牲者追悼と抗議。市民集会が、諏訪公園で開かれ、1,500人の人々が参加しました。
 会場には、大谷さんの死を悼む深い悲しみと、公害をなくし住みよい四日市にしなければという固い決意が満ち溢れ、公害病に侵され塩浜病院に入院中の藤田さんが中村さんも、病をおして、参加されました。

市民集会での決議文朗読

 四日市の空は重くどんよりとしています。四日市石油化学コンビナートのふきだす、汚れた空気は、夜も人々の健康をむしばんでいます。大谷さん苦しかったでしょう。つらかったでしょう。大谷さん、木平さん、そして、公害のために亡くなった人たち。私たちはいつの日にか、四日市の青空を取り戻すために、大きな歩みを開始します。

四日市の歴史

 四日市は美しい海、豊かな土地に恵まれ、、古くから農業、漁業を中心に発展してきました。
 400年ほど前から、毎月4の日の4日、14日、24日に定期的に市が立つようになり、この市を四日市と呼び四日市の名がここから、生まれました。
 四日市はまた、東海道と伊勢参宮の分岐点で宿場町としても、栄えました。
 約200年前万古焼きが桑名で作り出され、その後四日市に移りました。次々に、名工が生まれ、明治以後、業者が次第にふえ、製品は、全国各地で販売され、万古焼きの名声を得ています。
また、菜種油の生産は、江戸時代、元禄のころより、伊勢水として有名です。
江戸末期、農家の副業として栄えた製糸業は、明治以後、次々に紡績工場がつくられ、全国有数の紡績工場地帯に発展しました。

石原産業と大協石油の進出

 昭和14年、日支事変の最中に、第二海軍燃料敞が作られ、その周りに、金属、化学工場が生まれ石原産業、大協石油が進出しました。

第一コンビナートの建設(塩浜、川尻の各工場)

 四日市の様子が大きく変わるのは、昭和33年に旧海軍燃料敞の払い下を受けた、イギリスのシェル石油と提携している三菱系、昭和四日市石油が操業を開始したときからです
。  34年、ここからおくられる粗製ガソリン、ナフサを分解して、コンビナート各工場にながす、ナフサセンター、三菱油化が作られそこを中心に塩浜、日永(川尻)地区一帯に、三菱系の三菱化成、三菱モンサント、江戸川化学や、合成ゴム、味の素などがパイプで結び合わされて、第一コンビナートとなり、同時に、中電三重火力も燃料を石炭から重油に切り替えました。

第二コンビナートの建設

 昭和36年、市民の憩いの場であった午起海岸、27万坪を県が埋め立て、そこに、中電四日市火力、大協石油午起、大協和石油化学が建設され、大協石油四日市とあわせて、第二コンビナートを作りました。

コンビナートの各工場
 煙突 フレヤースタックの火

 こうして四日市は、年間、1230億円の石油製品を生産する日本最大の石油コンビナートとしになったのです。
 コンビナートが占める面積は、260万坪。小学校なら650もできる広さ。つぎ込まれた金は2000億円、それらの金も技術も、輸入される原油も、アメリカ、イギリスを中心とする国際石油資本とそれに結びついている三菱系などの大資本にしっかりと握られていて、莫大な利益が持ち去られています。
 その反面、四日市の市民には、何がもたらされたのでしょう。

死んだ海
 工場廃水、汚された川、魚の水揚げ、くさい魚の分布図

 伊勢エビで知られている高級な魚がとれていた伊勢湾で、昭和28,9年頃から、くさい魚がとれはじめました。この魚は、石油くさく、犬やニワトリでさえ見向きもしません。伊勢湾の魚は、水爆の放射能を受けたマグロと同じように、検査を受けてから買い取られます。くさい魚で、伊勢湾内三重県の漁民が受けた年間被害は、8000万から1億円に上ると県では推定しています。
 昭和35、6年の調査の結果、くさい魚の発生原因は、石油コンビナートの工場廃水の汚染であることが明らかになり、漁民は、被害の補償と、廃水処理施設の完備を各企業に強く要求しましたが、企業はわずかの補償金を支払っただけで、完全な廃水処理施設を作ろうとはしていません。

四日市ぜんそく
 塩浜病院、空気清浄室の患者、年齢別表、話す藤田さん、磯津から病室へ行く瀬尾さん

 第一コンビナートに隣接する塩浜地区で、34,5年頃から、急にぜんそく患者がふえ、第二コンビナートの完成とともに、さらに広がり、“四日市ぜんそく”と呼ばれるようになりました。原因は、コンビナートが吐き出す亜硫酸ガスです。
 住民のはげしい怒りと、切実な要求で、市は認定した公害患者には国民健康保険の自己負担分を負担することになりました。
 認定患者は、42年6月末現在昨年より100名近くふえ、400名になろうとしています。
 39年2月から入院している藤田さんは「我々はこうやって空気清浄室に入れていただいとるけど、結局、私の考えでは、なんですな、大戦のときの防空壕ですわ。実際そうですわ。一歩外に出れば、目に見えん亜硫酸ガスのために、ここへまた逃げこまんならんという立場やから・・・」
 瀬尾宮子さんも、3年ほど前から塩浜病院に入院していますが、朝2時半頃、漁に出る夫と、3人の子供の世話をしなければならないため、毎日、病院と磯津の家を往復しています。
 ぜんそくの発作は明け方に多く、瀬尾さんは、倒れそうになりながらも家族の世話をし、病院の空気清浄室にたどり着き、やっとほっとする毎日をくり返しています。


 亜硫酸ガス等量線、操業する漁船、水谷船長、公害病患者の中村さん。

 公害病認定患者の40%が、塩浜地区に集中し、その約半数が、磯津の人々です。
 第一コンビナートの南東に隣あわせた磯津地区は、亜硫酸ガスの年間平均濃度でも、市内最高で、冬は特にひどく、亜硫酸ガスの許容濃度0.1 PPMの25倍の2.5 PPMを記録したことさえあります。
 磯津は、漁師町です。公害病患者の医療費は市で負担しています。しかし、生活費の面倒はどこも見てくれません。公害病に侵された磯津の患者は、家族な生活を支えるために病を押して、漁に出かけねばなりません。
 中村さん(栄吉)もその1人です。この漁は、パッチ網という漁で、カタクチイワシをとっています。イワシは回遊魚で、臭くありません。海水の汚染で、売り物にならないため、やむを得ず、このように切り替えたのです。この船の船長水谷さんは最近呼吸が苦しく、今、市に公害認定の申請をしています。磯津の漁民は、激しい1日の労働を終えても休息な場所、家族だんらんの場所はありません。患者は教病室に帰り、家にいる人々には亜硫酸ガスの毒牙が待ちかまえているのです。

船長、水谷さんの公害病検診

 漁が休みの雨の日、船長の水谷さんは、公害病患者の認定のための検診を受けに県立塩浜病院へやってきました。水谷さんは藤田さんの奥さんの弟さんです。認定患者の中で、この年齢の人々にはぜんそく性気管支炎、気管支ぜんそく、慢性気管支炎や吸い込んだ空気を完全に吐き出せない1番悪性の肺気腫患者が目立っています。
 公害病認定患者では主に国民健康保険の人たちです。医師会は実際の患者数は、認定患者の3倍以上1,000人をはるかに上回ると発表し、一般的には10倍約4,000名とついてされています。

子供の公害病検診
 付き添いの母親、ピークフローメーター

 子供には、慢性気管支炎が1番多く、認定患者に限らず、大勢の子供が公害に侵されています。まず、肺の機能の低下です。ピークフローつまり、力いっぱい息を吐いたときに、流れる空気の量を、メーターで測ったところ、非汚染地区桜小学校1年男子の平均より、塩浜小学校の磯津地区に住む6年生の平均の方が低く、塩浜地区には、四日市型慢性咽頭炎と名付けられる炎症が、児童に、非常に多くなっています。
 また、鼻、のど、眼などの粘膜が侵されるため、すぐ風邪をひき、トラホーム、結膜炎が増えています。塩浜地区の乳児の死亡率に至っては全国平均をはるかに上回っています。

恐ろしい亜硫酸ガス
 白い霧の恐怖、発生の図解

 なぜ、四日市の人々はこんなにもひどい被害を受けているのでしょうか。
 亜硫酸ガスは重油の中の硫黄分が燃えてできます。四日市に輸入される原油のほとんどはアラビアのもので、ソ連、アメリカ、東南アジアなどの原油に比べて、硫黄分が多く、それから作られるもっとも硫黄分の多いC重油が燃料として使われています。
 四日市コンビナートは22万の人口が密集した市街地に割り込み、しかも気象条件を全く考慮しないで建設されたため、1日、400トンの亜硫酸ガスが市民の上にはきだされているからです。

硫酸ミスト
 亜硫酸ガスが無水硫酸に、硫酸による実験

 四日市におけるいまひとつの特徴は、毎日排出される亜硫酸ガスが、空気中で硫酸に変わる率が、非常に高いことです。四日市は全国で1番酸性の強い雨です。
 煙突から出た亜硫酸ガスは、太陽光線の中の紫外線の作用を受け、オゾン、酸素と結び付いて無水硫酸に変わり、ばい煙を核としてできたスモッグに溶けて硫酸になります。
 これが、四日市を覆っている白い霧なのです。
 ごらんのように、硫酸の液を直接浴びた草は、みるみる黒く焼けただれ溶けていきます。これを薄めた霧を四日市の人々は浴びているのです。

亜硫酸ガスの観測
 自動測定記録装置、市公害パトロールカー

 県は磯津などを四日市の4カ所に亜硫酸ガス濃度、測定器を設置しました。
 四日市保健所のテレメーターは、刻々その濃度を示します。
 県の公害課はこれをもとにして、亜硫酸ガスが濃くなると、公害警報を出し、コンビナート各工場に「燃料を変えるなどして、亜硫酸ガスをあまり出さないようにしてくれ。」と要請します。また、市の公害課も公害の調査、公害防止対策などを行っています。しかし、現在の法律では、県や市は、工場に、亜硫酸ガスを出さないように命令する権限はありません。

市の公害、住宅政策
 未来の市街図、市営住宅の空家

 市の公害対策の中心は、公害地帯は、人間の住むところではないという理由で市民を西の方の山の手に立ち退かせ、海岸地区を工場地帯にしてしまうことです。しかし、そのための具体的な対策はなく、九鬼市長は、新しい住宅に移る以上、市民の負担で移るのは当然だといい、市民に犠牲を強いています。長い年月住み続けてきた人々が、どうしてあとから割り込んできた工場のために、追い出されなければならないのでしょう。

国の公害対策
 煤煙規制法、公害基本法の成立

 政府も公害問題の深刻化はほっておけず、公害基本法を作りましたが、実際には、亜硫酸ガスを規正していているのは、煤煙規制法です。
 燃料に使われるC重油を能率よく燃やすと、排ガス中には0.2%前後の亜硫酸ガスが生まれます。煤煙規制法はこの値を、元に決められています。1番安く硫黄分の多いC重油をたいてよいと認可しているのと同じことなのです。
 おまけに、排ガス中の、亜硫酸ガスの割合しか決めていないので、1本の煙突がどれだけガスを出しても、1つの地域に1日、何百トン亜硫酸ガスをだしても、空気中の亜硫酸ガスがどれだけ濃くなっても、何の規制もできないのです。
 それどころか、「うちは、法律を守ってガスを出しています。」という口実をさえ与えているのです。
 これは政府が、大企業のことだけを考えて煤煙規正法や工場排水法などを作り、私たちの健康を守る環境基準を決める法律をつくらないからです。

既設コンビナートでの増設
 タンク貨車。ドラム缶の山、パイプ工事

 四日市市民の公害による被害をよそに、大協石油では3万バーレルの増産認可を受けて、石油精製装置の増設が、三菱油化では、東海ガス化成の吸収合併による設備の切り替えと、増設が急がれ、他の工場でもそれぞれ設備の増設が急ピッチで進められています。
 また、全市、200キロメートル以上あるといわれる。可燃性高圧ガスパイプも増設され、四日市は、このパイプにがんじがらめに縛りつけられ、地震などの災害のときは、どんな被害を受けるかわかりません。

石原産業地先の下埋め立て地
 アエロジルとシリコン、クラレ

 私たちがこうしている間にも、石原産業先の、埋め立て地で、ブルドーザーうなり、ダンプが地響きをたてて走り、着々と工場建設が進んでいます。
 また、大治田地区では、クラレ油化が最後の仕上げを急いでいます。

石油化学コンビナートと各工場
 走るタンクローリー

 このような工場の増設、新設などによって、四日市の石油化学工業の生産高は日々、すさまじい速度で増大しています。
 昭和35年には、市の総生産高の40%前後であったものが、この6年間に実に3倍にもふえ、41年度には、市の総生産高の63%を占め、1,230億円もないました。

四日市市の政策、対策
 市広報、埋立市議会

 市は、広報で四日市周辺の亜硫酸ガスの汚染は薄くなったと宣伝し、この2月と7月の四日市市議会で霞ヶ浦沖の埋め立てを審議可決しました。ここに大協和を中心としたコンビナートを作ろうというのです。
 塩浜地区の被害を目の当たりに見ている富田を中心とした隣接地区の人々や新たなコンビナート建設に反対している大勢の人々の見守る中で、2月には、誰が賛成か反対かわからぬまま、数秒間で可決され、7月には、前代未聞の無記名当のをで可決されました。

霞ヶ浦で遊ぶ母子

 美しい霞ヶ浦は市民の憩いの場でもあり、海水浴場として、大勢の人びとが楽しんでいます。

煙突から排出される煙
 最高汚染、埋立、富田地区

 市は煙突を高くしてジェット噴流で吹き上げるので、ガスは上空で四散すると言っていますが、煙は上空に噴きあがるどころが、横にたなびいています。
 このため汚染地区が逆に広がり、学校薬剤師と医療センターの調査では、市の中心部の今年五月の一ヶ月間の平均値は、昨年同期の3,4倍を記録しています。これは、市街地としては、国内最高の汚染度で、市の言い分は、全くのごまかしであることが明らかになっています。
 ここにまた新しいコンビナートを作れば、この周辺は、第二の塩浜地区になることは間違いありません。

公害の小学校
 うがいする子どもたち、ろうかの図表

 塩浜地区にある塩浜小学校、三浜小学校では、先生も生徒も、公害に負けない強い体を作ろうと、涙ぐましい努力をしています。

沼津、三島の公害予防闘争
 沼工高の教師、反対運動の写真、市民総決起大会

 “富士の白雪きやのーえ”で名高い、三島、沼津地区に、石油コンビナートを作ることを県が決めました。これにたいして地元の人々は、「四日市の二の舞いはごめんだ。」と昭和38年末ごろから、反対運動を始めました。沼津、三島の人々は、大勢でバスを連ねて四日市を訪れ、実情を調査しました。
 約500回、のべ4万人あまりの人々が、学習会、講演会などに参加して、公害について学びました。39年9月13日、沼津市で、有権者の三分の一、2万5千人が集まって、総決起大会を開きました。このため、三島市長の反対声明に続いて、沼津市長も、コンビナート反対声明を発表、コンビナート誘致は取りやめになりました。

第1回公害問題学習会
 沼津工業高校教師の話

 7月12日、四日市では、この三島、沼津のたたかいの中心になった、沼津工業高校の先生を招いて、地区労が主催して、第1回公害問題学習会が開かれました。
「私たちは四日市の例を使わせてもらいました。全国の平均に比べて、昔は四日市は乳児死亡率が低かったんですね。ところが、昭和36年から、全国の平均がどんどん下がっております。それに比べて四日市の死亡率は上がっています。その上がり方が最近になって特にひどくなってきております。・・・・四日市の乳児死亡率については沼津の人の方が知ってるんじゃないかと思います。・・・・亜硫酸ガスの濃度がどうなったら、どうなるんだ・・・本当の恐ろしさがわからないから、反対闘争が起きないんではないのかということを考えます。本当の恐ろしさが分かったならば、自分が守ろうとする本能が動物にはあるはずです。本当のことを知って話し合えば、(四日市の教師の話がこれでダブってつづく)

三泗地区労の公害反対活動
 公害パンフ作り、相談

 沼津の先生の話でも「公害反対はなんといっても、地域住民の戦いが大切だ」ということが強調されました。
 公害反対のビラを見て、「私も、体の具合がおかしいのだけれども、認定を受けるにはどうすればよいでしょう」というおばあさんも、地区労にやっていきました。
 また、全国各地から、公害調査に訪れる人々との応待なども含めて、今や地区労は、公害反対センターになりつつあります。

 三重県化学産業労組協議会
 (三化協)の定期大会

 発生源であるコンビナートの労働組合も、企業内で公害をなくすたたかいを組むことを決めました。

公害訴訟
 磯津町と第一コンビナート、磯津での説明会

 磯津の藤田一雄さんはじめ9人の公害患者は、第一コンビナート各企業を相手どって、公害訴訟を起こすことにしました。
 「企業は人々に害を与えることを知りながら、故意に、亜硫酸ガスを出して人体に傷害を与え、生活を破壊したから、慰謝料を支払え」というものです。
 市役所の労働組合を中心とした各団体、個人が、この訴訟を力強くバックアップしています。

地域での市民学習会
 公害について話す四日市の教師

 三島、沼津の経験に学んで、四日市では、まず、小、中、高の先生たちが、子どもたちの健康を守ることを願って、市民に、公害についての正しい知識を持ってもらうための学習会を富田地区で始めました。
 「つけ木っていうのをご存じですね。つけ木のいおうが燃えるとくさいですが、硫黄が燃えるときに出るガスが亜硫酸ガスでこれが有毒なわけです・・・」

ラスト
 空気清浄講堂の中の体育、帰校する子どもたち

 公害に痛み続けられてきた四日市の人々に、今新しい展望が開けようとしています。
 「企業は公害を出すな。」
 「もうこれ以上、コンビナートを増やすな。」
という要求を実現するために、人々は、公害の本質を見極める学習会を積み重ね、公害反対のための市民組織をつくる第一歩を踏み出しました。

 タイトル
 “公害は発生源対策で解決するのが、正道である”



四日市公害病認定患者で、稲葉町に住んでいた木平さんが41年7月10日、病と生活苦で自殺。14日に、公対協は、公害反対市民集会を持って「木平さんの死を無駄にするな」と誓いあいました。

木平さん自殺直後の臨時市議会、多数の市民が傍聴に詰めかけた。九鬼市長は、公害とは関係ないといった答弁に終始した。生まれて初めてデモ行進した公害患者を守る会の副会長の大谷一彦さんも、木平さんの遺影をもって傍聴した。

公対協では、41年8月6日、県労協、東海労働弁護団と公害訴訟ついて、第1回の準備会議をもった。入院患者の中村留次郎さんで、空気のいい日には磯津の家に帰って内職をし、公害訴訟準備にも、積極的に働かれた。(のち交通事故死)

42年2月18日、霞ヶ浦を埋め立てここに第三コンビナートを作るという市長提案に、市民はこぞって反対したが、市議会は、安保国会並みに討論抜きで強行可決してしまった。

42年6月13日「今日も空気が悪い・・・」の一言を残して、大谷さんは、自殺してしまった。木平さん追悼デモで先頭に立った大谷さんも、四日市ぜんそくに勝つことができなかった。(遺影を持つ未亡人と娘さん)

県労協や公対協ということで準備が進められてきた公害訴訟は1年を経過する中で、市職、教組などの単組や政党、団体、個人が支えていくこととなり、42年9月1日、訴状提出までこぎつけ、東海労働弁護団は、「必ず勝ってみせます」と共同記者会見で言明した。

公害病死は主として老人のみであったが、42年10月20日、塩浜中学3年生の南君枝さんが亡くなった。吉田元首相国葬の10月31日、四日市では市民1500人が諏訪公園に集って、追悼市民集会をもった。入院中の藤田一雄さんも駆けつけ「公害病患者は死をもってしか語れないのか」と怒りの挨拶をした。

※写真は、「白い霧とのたたかい」から、取り出して張り付けました。