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四日市ぜんそく
四日市公害裁判
記録「公害」
小5授業実践
論文

公害四日市を記録する中で

思ったこと見えてきたこと

記録を始めるようになったこと

1.コンビナート労組も加盟している四日市の地区労組協議会(地区協)の事務所に勤めていた。賃金をそこからもらっていた。

イ.霞ヶ浦埋め立てと第三コンビナート誘致に反対するビラをつくり、戸別配布したことで、(1967年2月)翌朝、進出企業の労組幹部に呼びつけられ「おまえが退職するか、当労組が地区労を脱退するか、どちらかを選べ」と迫られた。

ロ.ぜんそく訴訟をめぐり、社、共、労の公対協(公害対策協議会)は分解同然となり、地区労も一本化ならず、単位労組ごとの判断となった。

2.地区労へ勤める前は紡績工場で働き、女子工員たちと、生活記録(綴り方)のサークル活動をしていた。

イ.「なぜ」と考える、自分の考えを持つ人間になろう。

ロ.「見たまま、聞いたまま、思ったままを」を「ありのまま、かざらずに、自分の言葉で書こう。」「書いた綴り方を、仲間たちで読み合い、話し合い、行動しよう。」「行動したことを記録、まとめ、確かめる」そうした“集団の中で自己改造”をすすめようとやってきたことで成長した。

ハ.そうした生活記録活動の中で培われた自分が得たものを、反公害の中で活かしていこう。

ニ.反公害は、公害の事実・実態を知ることから出発しよう。その実態は、PPMとかの数字ではなく、公害で痛みつけられている、被害者・住民のありようを知ることからでなければならないと思った。

3.四日市公害の原点・磯津(漁師町)

イ.漁師で公害患者の中村留次郎さんに「公害反対を言うのやったら、ぜんそく患者がどれほど苦しんどるんのか、そういうのを知ってからにせい」と強く言われた。

ロ.磯津は、鈴鹿川で四日市本土と切り離され、冬の季節風で第一コンビナートのばい煙の風下にさらされ、ぜんそく患者が多発した地域である。

ハ. 県立塩浜病院の空気清浄病室(24ベット)には、中村さんの他、野田之一さんなど、磯津の患者さんが数多く入院していた。藤田一雄さんは「ここは防空壕です。外に出てガスで発作を起こしたら逃げ込まなきゃならんのです。一生ここから出られそうにありません」と言い、息が苦しくなったので、枕元に備え付けてある酸素ボンベから酸素吸入しました。そのボンベには三菱油化性のワッペンがはってありました。

ニ.磯津の公害患者の代表とおぼしき人に会いに行ったとき、最初は「選挙に利用されるのはごめんだ」と、相手にしてもらえませんでしたが、たびたび通ううちに相手にしてもらえるようになりましたが、患者の皆さんには「この人は市役所の人だ」と紹介していました。

ホ.心が通い合う人間関係ができるとこ、本当の話を聞ける。テープにおさめ、話された言葉そのままにテープおこしをやり、ガリ版文集にして、話をしてくれた人や反公害の指導者らしき人などに配布した。

ヘ.そうしたガリ版文集には、公害事象、動きなども収録した。

 生活記録が、ありのまま書く、話し合う、行動することに心がけたように、公害記録も、運動に活かす。それと表面だって運動するわけにはいかない。もう一つには、公害反対の運動は住民《被害者》が中心でなければならない。われわれはそうした住民運動の“黒衣”で“助っ人”としてやるべきであるを心情にした。その際、住民運動について、引き回しなどはしてはならない、運動は地元住民の思いを受けてやることに留意した。
 1971年秋頃から始まった、三菱油化河原田工場進出反対の運動は、長い四日市反公害の中でたったひとつ成功したものだが、72年7月の公害判決の支援団体の本社交渉で会社は「三菱油化河原田工場建設は白紙に戻します」との「誓約書」を支援団体あて提出、地元住民にはそうした文書はなく、歴史は支援団体の運動の成果として記されていく。
 この住民運動は、200人の地権者のうち、反対派3人というところから始まり、よそ者を入れない、革新団体とは共闘しないとしてやったから成功したと言える。油化も、地元の偉い人たちも、地元住民だけの運動だと思っていた。ただ、反対の署名用紙のガリ版の字が、河原田から出たのと、 磯津から出たのと同じ、どこかに黒幕がいるのではないかと詮索されたが大事にはいたらなかった。第三コンビ反対ビラでのことがありガリ版には気をつけなければと思っていたが、うかつであった。
 黒衣で助っ人した人たちは主に名古屋大学と三重大学の学生と教官であった。四日市公害と戦う市民兵の会として「月刊・公害トマレ」も発行していた。
 この市民兵は政党や労組などの既成団体の幹部からは大変に嫌われていた。市民兵の活動は、磯津の二次訴訟原告団結成、母の会の運動だとか、第二コンビナート工場との直接交渉と訴訟提起準備など、四日市反公害の事実・歴史に大きくとどめられてしかるべきなのだが、明らかにされていない。

反公害の運動で、あってはならないこと

 なによりも、被害者・住民を裏切ることをしてはならない。

1.公害健康被害補償法(公健法)改正−公害病認定制度廃止−のさい、支援者たちはどうしたか。

判決15年の1987年、ある患者さんの話。

「認定制度を廃止するというのが出ていて、わしら患者にとって大きなことなのにわしらを利用して有名になった人らがようけおるのに、その人らは今どうしているんやな。わしらはもう利用価値がなくなったんかな。無くなったんならしようがない。だからって、今度はあっち(行政、企業)に利用されてわしらをいじめることないやろう。」

四日市市議でのこと

三重大学三上元学長を請願人代表に「制度廃止反対」の請願署名を提出しようとしたさい「提出するな」と、革新市議が圧力をかけた。労働組合幹部の中にも同じように「署名するな」と圧力をかけたが、圧力をすり抜け議会に提出、採択となったが、委員会で、請願の趣旨にもとる内容にされてしまった。

別記「市議会会議録」参照

2.学者・研究者のありよう。

 この方たちは、科学・化学にもとづいて、数字で割り切り、物事をすすめられる。学者として当然のことではあるが、公害問題において、それだけでいいのだろうかと思えてならない。特に、被害者、被害を被るかもしれない住民と向き合うとき、科学で、数字で説き伏すことをしていいのかの疑問が残る。被害者・住民は、数字ではなく感情で、信用で向き合ってきている。

イ.公害判決で敗訴した昭和石油は、「増設したプラントの運転は、住民の了解なしにはいたしません」との誓約をした。ところが、早く運転したい昭石は支援団体の最高幹部に働きかけて了解を取り付け、磯津現地で患者、住民、支援者、弁護団等を集め、知事、市長、昭石幹部が、高名な学者に「運転しても、なんPPMしかないので全く心配ありません」と、事細かな数字をあげるなどして説明させた。
 磯津の患者や住民たちは、この増設について、1987年(昭62)石油審議会に向けて「公害はひどくなる一方の中での増設については、昭石、大協とも反対である」と磯津全戸の署名を集めようとしたとき、昭石は自治会長をクラブに呼んで接待、署名をやめてくれたら金を出すと迫ったことのある代物で、敗訴したからといって、そういた体質が変わっていないわけで、それを数字でどんなに説明されても、信用するわけにはいかない。

ロ.「PPMが環境基準以下になったので、公害は克服されました。」
「汚染地区と非汚染地区との有症率が同じになったので、ぜんそくは終結しました。」
 間違ったことは言っておられないが、認定廃止後にぜんそくになった人は、「おれんとこはぜんそくもちの家ではないし、発作も認定患者と同じような咳をする公害ぜんそくじゃあないって言うのやったら、何ぜんそくっていうのやな」とか、「公害を克服したとか、終結したとかは言わんでくれ、公害がなくなったのに、患者がいるのはおかしいやないかって見られるのがつらい。」

ハ.「基準ですね。あれは工場が成り立っていく基準であって、わしらが成り立っていく基準じゃない、ようする、ようするって、学が無いで、そうやって10年だまされてきた。」

二.魚のアラ処理場反対で、差し止め訴訟を住民が起こしたとき、高名な学者が「悪臭は発生しない」との証言をするために出廷した。住民側は悪臭研究で高名な研究者に鑑定してもらい、反対尋問で悪臭発生を証明した。行政は、行政にとって都合のいいように学者を利用している。

 公害はPPMだけではない。特に、市民運動を考えたとき、指導者のありようは、運動の成否を左右するだけに、被害者・住民に背を向けることだけはしてはならない。過ちを繰り返さないためにである。

 

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