四日市公害と行政(四日市市について〕

 四日市市は、1997年8月1日、市制100周年となるのを記念して、早くから記念事業を計画、実施しました。
その目玉は、100億円ほどを費やしての『四日市ドーム』建設がありましたが、本格的な野球やサッカーはできないという中途半端なもので、作った後で、借金返済や維持費が頭痛の種となっています。
 もうひとつの目玉は、大気汚染公害の原点である四日市が、その公害を克服した実績の上で、世界10ヶ国以上の参加を得ての『地球市民四日市環境フォーラム』でした。『海外からの環境保全に取り組む人たちを招き、四日市市民との交流を通じて、今何をなすべきかを考えます』として実施しました。
いま一つは、『四日市市史』の編纂です。

 こうした市制100周年となる1997年は、石油化学コンビナートの加害責任を断罪、行政の責任をも追及した、四日市公害ぜんそく訴訟で、原告患者側が勝訴した『米本〔裁判長〕判決』から数えて25年、四半世紀の節目の年でもありました。

 四日市市は、市制100周年にあたり、華やかな祝賀行事の影で、四日市公害の幕引きをもやっていました。
 その主役は、1996年12月23日の任期満了を持って、5期20年間という長きにわたって市長を引退した加藤寛嗣氏である。

 加藤寛嗣さんは、市長になる前の10年間は市の助役をしており、30年という長きにわたり市政に君臨している。しかも、市助役になる前の12年間〔1951年から1963年〕は、三菱油化四日市事業所の社員〔総務部長〕のかたわら四日市市議会議員〔1957年に副部長〕でもあり、四日市公害を考える上で、この加藤さんを軸にしていくことによって、より明らかになる側面があると思います。

1.市助役以前

1960年〔昭和35〕

1961年〔昭和36〕

1963年〔昭和38〕

1965年〔昭和40〕

1966年〔昭和41〕

1967年〔昭和42〕

2.四日市市助役時代


1967年〔昭和42〕

※加藤氏は、三重県知事をしていた田中覚氏の従弟。
※行政は被告になっていないが、公害訴訟では、企業と同盟、原告患者側と戦うと表明したことになる。

1968年〔昭和43〕

1972年〔昭和47〕

1972年〔昭和47〕

3.四日市市長時代

1976年〔昭和51〕

この日より4日前。市は、塩浜病院に対し、原告患者4人を含む5人の入院患者について、入院を必要とする治療がなされていないので、以後、入院にかかわる医療費は支出しないと通告。5人は退院させられ磯津へ帰されたが、発作を起こし再入院。

1977年〔昭和52〕

1981年〔昭和56〕

1982年〔昭和57〕

1983年〔昭和58〕

1987年〔昭和62〕

1989年〔平成元年〕

1991年〔平成3〕

1992年〔平成4〕

※1993年11月、四日市市立博物館・開館

1995年〔平成7〕

※1996年8月、市は、本町プラザの建物内に、公害資料館ならぬ『環境学習センター』を開設した。

4.加藤市長退陣、使命全う

このようにみてくるかぎり、助役として登場した状況が示すように、加藤市政の30年は、行政と一帯であり、反住民の立場で首尾一貫してきたとしか言いようがない。
また、加藤市長退陣〔1996年12月〕は、四日市市生100周年〔1997年〕に照準を合わせての『四日市公害の幕引き』でもあり、幕引きは次のようになされた。
国連環境計画〔UNEP〕が、『環境汚染防止対策の推進による環境保全への貢献があった。』として、1995年〔平成5〕6月5日、個人では加藤寛嗣市長、団体は四日市市に、『グローバル500賞』を授与。同月29日、四日市都ホテルで、関係者200人ほどを招待しての受賞式典と祝賀会が催された。
四日市市はこの受賞理由として3点を挙げている。
  1. 平田市長時代の1965〔昭和40〕5月、市単独の公害病認定制度を発足させた。
  2. 1972年〔昭和47〕4月、(公害判決の年)、三重県が実施した「硫黄酸化物の総量規制」に協力した。
  3. 1990年〔平成2〕3月、三重県と四日市市の出資で『環境技術センター』(現在のICETT)の設立と研修に協力。
国連から『グローバル500賞』をもらったことは、四日市公害の克服を世界が認めたことだと、1995年〔平成7〕9月、市議会は市長提案を受け『快適環境都市宣言』を議決した。二度と公害を起こさない−−−−」の字句がおどっているが、公害患者などへの思いにふれる字句はない。
また、都市間ネットワーク研究会パンフの『四日市市の取り組み』では、官民で力を合わせ産業公害を克服した四日市は、都市全体を舞台として、快適環境創造の字句がおどっている。
※環境基本法第2条〔定義〕この法律において公害とは、−−−人の健康または生活環境にかかる被害が生ずることをいう。
四日市市立博物館と四日市市共催の『公害の歴史』企画展。
学者や技術者、行政関係者などによる企画委員会(被害者は入っていないが1年間をかけて検討しての公害展は、【公害の街から環境の街へ】をサブタイトルに、博物館で、1996年(平成8)6月21日から7月21まで開催した。市政100周年記念プレイベントである。
 四日市といえば公害と跳ね返ってくる大気汚染公害原点の四日市博物館なのに、開館以来、四日市公害の展示はない。それが、ここにきて、『四日市公害の歴史をできるだけ公平な立場で振り返り−−−』と趣旨にはあるが、企画委員会メンバーにコンビナートの社員は入っていても、被害者や住民側の学者は入っていない。
 この『公害の歴史展』は、サブタイトルにあるように、「公害の街よさようなら、環境の街よこんにちは」ということで、一連の公害幕引きの加藤市長(市政)による終幕どんちょうおろしである。公害被害者も、公害の総括も置き去りにしてである。
四日市公害資料館が作られていない。
四大公害裁判がやられているところで、公害資料館が作られていないのは四日市だけである。
富山イタイイタイ病では、患者団体が中心となって建設した清流会館の中に資料室を設けている。
水俣病では、水俣市が、水俣市立「水俣病資料館」を建設、市民運動団体が建設した「水俣病歴史考証館」をも、市の案内パンフで紹介している。
新潟水俣病は、加害企業の昭和電工が2億5000万円を出し、国県が建設、運営は被害者組織と市民運動団体があたるとして進められている。
四日市では、その必要性がないと(市当局)として計画はない。

広島は『原爆資料館』を建設、『原爆ドーム』を保存、世界遺産に登録、広島市長は、「ノーモアヒロシマ」で、世界で最も熱心な反核平和主義者指導者として、その言動が注目されている。
水俣市も「ノーモア・ミナマタ」を「水俣病資料館」を軸として発信、外国からも見学者があり、【負の遺産】を背負って地域再生をはかっている。

公害体験を風化させてはならない。そのためにも、公害追体験を保障する施設は必要である。

議案第111号
快適環境都市宣言について
次のとおり快適環境年宣言を行うにあたり、議会の議決を求める。
平成7年9月5日提出
四日市市長 加藤寛嗣
 さわやかな大気、清らかな水、緑豊かな自然の中で、安らぎと潤いに満ちた暮らしを営むことは、すべての人々の基本的な願いであります。
 しかし、今日、私たちの活動は、私たちの身の回りの環境のみならず、人類の生存基盤である地球環境に深刻な影響を与えつつあります。
 私たちは、人も自然の一員であることを深く認識し、自然と調和したまちづくりを進め、良好な環境を将来の市民へ引き継いでいかなければなりません。
 市民、事業者、行政が一体となって、二度と公害を起こさないとの決意のもと、地球的な視野に立ち、良好な環境の保全と創造をはかるため、私たちは、ここに四日市市を「快適環境都市」とすることを宣言します。

提案理由
 本市が、都市宣言をするにあたり、議会の議決を求めるものである。これが、この議案を提出する理由である。