四日市公害の出来事を追って
公害の原点・四日市を通して考える
1960年代(昭和35年)、1970年代、『公害列島』と言われるほど、全国各地で人々は、公害によって苦しめられた。
中でも四日市は、日本で最初の石油化学コンビナートが作られ、それらの工場群によって、海では、『油くさい魚』、陸では、『四日市ぜんそく』に代表される公害に苦しめられた。
四日市は、水俣と並ぶ、戦後公害の原点である。
公害と人権の問題を考えるにあたって、なによりも大切なことは、事実をよく知ることであり、公害四日市の出来事を追いながら考えたい。
四日市公害は過去のものとして、葬りさられ、忘れ去られようとしている。そうであってはならない。四日市公害は、検証されなければならない。
- 四日市公害はなぜ発生したのか。
- どんな被害をもたらしたのか。人々はどのように苦しめられたか。
- 人々はその公害にどう対処したのか。反対運動はどうであったか。
- 学者、知識人、労組、政党、団体の幹部などの人たちは、どう関わっていたか。
- 公害に関わって有名になった人たちはどうしているか。
- マスコミはどうであったか。
- 企業(工場)や行政の主だった人たちは、公害について、どう考え、どんな対策を取ってきたのか。加害行為の認識・自覚を持っていたのか。
- 四日市公害ぜんそく訴訟での原告患者側勝訴は、どんな影響を及ぼしたのか。勝訴は何によってもたらされたか。
- 石原産業汚水たれ流し摘発、刑事裁判での、被告企業有罪判決によって、どんな影響があったのか。
- 公害はなくなったわけではないが、改善されてきている。なぜそうなったのか。
- 『公害を克服』したということが言われている。そう言ってしまっていいのか。
- 今も公害ぜんそくで苦しむ人たちについて、どう考えているか。
- 行政や企業は、公害加害を反省し、工場誘致、立地、操業、公害防止などを最優先させ、住民の快適な生活、自然環境の保全をはかっているか。それを保障する住民参加を実現させているか。
- 再びあのような悲惨な公害は、もう起きないと思っていいのか。おきない、おこさせないとするなら、その根拠は何か。
- コンビナートなどによる、経済の高度成長、繁栄、豊かさは、海を壊し、自然を壊した上で成り立ってきたが、人々は、そのことをどう考えたらよいか。
- 「工場がくれば(誘致すれば)市が発展する」として、行政、企業は、住民の反対を押しのけて進めてきたが、市はどう発展したのか。市民も発展したのか。
過ちを繰り返さないために、これらのことについて考え、まとめあげなければならない。
≪公害≫四日市での出来事を追って
- 名古屋から、近鉄か、JR関西線で30〜40分ほど南下したところにある。
- 地理的には、本州のほぼ中央部に位置し、交通の便がよく、港があり、工業用水条件の良好なこと、加えて、気候風土の点も、民度も温順といったこと、それと、工場用地に必要な広大な国有地(海軍燃料廠)が存在していたことから、一大石油化学コンビナート地帯となった。
- 江戸時代、徳川幕府直轄の天領となったこともあり、東海道五十三次の宿場町で、東海道と伊勢(参宮)街道の分岐点でもある交通要衝の地。毎月4のつく日に市が立ち、四日市と名づけられた。
- 人口は、290565人で、三重県下第一。1997年は、四日市市政100周年となる。三重県の人口は、1850995人。
- 1939年(昭14)、太平洋戦争を予定した海軍が、塩浜地区の水田などを強制的に買い上げ、1941年12月の開戦までに、日産原油処理能力2万6000バーレルの製油所を作った。
- このほか、陸軍は、1940年(昭15)に、四日市陸軍製緘支廠を作っている。
- 1945年(昭20)6月、米軍による空襲で海燃は炎上。戦後、焼け跡となっていた60万坪、200万平方メートルについて、国際石油資本、財界、政界、旧軍人などが入り乱れての争奪戦が繰り広げられ、'55年(昭30)3月、鳩山内閣の閣議了解として、四日市の海燃跡地は、『昭和石油と、将来、三菱グループとシェルグループによる石油化学が企業化されるときは、緊密な連携を図らしめるものとする』として、貸与、後に払い下げた。
- 徳山の第一回燃跡地は出光興産へ、岩国の陸燃跡地は、日本鉱業と三井グループへ払い下げも、同時に決められた。
- 石炭を燃料として、1955(昭30)12月、操業を開始。昭和四日市石油操業('58年)後は、石炭から重油に転換。1〜4号機合わせての発電能力は、34万1000キロワット。煙突は、当初57.3メートル4本であったが、公害裁判後、120メートルの2本とした
- 昭和四日市石油・四日市製油所 ― 1958(昭33)4月、日産4万バーレルの石油精製で稼動を開始。現在24万バーレル。
- コンビナートの心臓部となるナフサセンターの三菱油化四日市工場の稼動は'59年6月。
- 三菱モンサント化成、1952年(昭和27)1月、三菱化成工業、'53年7月、それぞれ、コンビナート化する以前より操業開始。
- 石原産業四日市工場は、戦前、1941年(昭16)1月、銅製錬などで稼動を開始していた。
- 以上は臨海に位置しているが、これとは別に、内陸にも進出した主な工場は以下のとおりである。
- 日本合成ゴム四日市工場 ――― 1960年(昭35)4月
- 松下電工四日市工場 ――――― 1961年(昭36)4月
- 味の素 東海工場 ―――――― 1963年(昭38)4月
- 三菱瓦期化学四日市工場 ――― 1963年(昭38)4月
- クラレ油化四日市工場 ―――― 1967年(昭42)9月
- 四日市公害が最初に問題となったのは、石油くさい魚である。
- 第一コンビナートが本格的に操業を開始したあとの1960年(昭35)3月、東京築地の中央卸売市場は、「伊勢湾の魚は油くさいので厳重検査する」との通告を出し、キャンセルや買いたたきにあうようになった。
- 四日市には、北から、富洲原、富田、四日市、磯津の4漁業協同組合があり、木曽三川(揖斐、長良、木曽)の大きな川によって、四日市沖合いは、優れた漁場として、高級魚の水揚げで漁業は栄えていた。
- くさい魚は、漁民にとっては死活問題となった。三重県が、これについて調査した結果、くさい魚の原因は、石油精製などの石油関連工場によるものとわかったが、法規制はなく、対策は、工場による廃水処理施設を作ることしかない。
- 1960年(昭35)4月23日、公害に対する住民の最初の異議申し立てが、塩浜地区連合自治会として、四日市市長に対してなされた。住宅に接して建設された工場の操業に伴って、一日中、騒音、振動、悪臭、ススなど、人間の目と耳、鼻、体で感知できる公害で、夜もおちおち寝ておられないというものであった。
- 自治体からの陳情に平田佐矩市長は、8月、『四日市公害防止対策委員会』を、市長の諮問機関として設置した。市議4人、工場代表4人、学識経験者3人の構成で、まず、人体への影響や大気の流れなどの基礎データを集めることにした。
- 1961年3月、中間データがまとまり、『塩浜地区内の磯津の亜硫酸ガスは、他地区の6倍近い数字』が明らかとなり、このデータを裏づけるように、磯津で新しい型の『ぜんそく発作』の患者が発生した。
- '61年9月、塩浜自治会は、地区住民のアンケート結果を発表。
- 工場の誘致は必ずしも都市の発展にならない。
- 公害防止対策の早急な制定を
- 公害による人体影響は老人と子どもに特に著しい。
- 塩浜地区の中でも、鈴鹿川(川幅300メートル)をはさんで、コンビナートの対岸にある磯津は、特に公害のひどいところで、四日市公害の原点の地である。
- 1961年夏、磯津にある中山医院に、同時刻、発作をおこした人たちがかけこむようになり、顕在化した。ぜんそくは、どこにでもある『非特異性疾患』ではあるが、ぜんそくもちの家の人たちでない患者であった。
- 中部電力三重火力発電所は、生物ゼロの海となった四日市港(各工場の汚排水が流れ込む)の海水をとり入れて、発電機の冷却に使用していた。冷却後、その温排水を港と反対側の鈴鹿川へ放流していた。
- 磯津近辺の魚がくさくなり売れないことから、磯津の魚民は、鈴鹿川の水を冷却に使い港へ放流、もしくは、使った海水を港へ放流するなどの処置を中電に要求したが聞き入れられなかった。
- 1963年(昭38)6月21日、400人ほどが、廃船と土のうで、警官隊の制止も聞かず実力行動に移った。
- 塩浜地区連合会長が『留め男』となってその場をおさめ、三重県知事に解決をせまることにした。
- 太平洋戦争中の1943(昭18)7月、大協石油はすでに四日市で操業していた。そして、海燃跡地への進出をもくろんだが成功しなかった。
- 県が主導で行っていた午起地区海岸を埋め立て、1963年(昭38)、大協石油午起製油所、大協和石油化学、(協和発酵と大協石油の出資)、協和油化、中部電力四日市火力発電所とで、第2コンビナートを形成した。
公害に対しての住民運動は、この夏がピークであった。
- 海 磯津漁民一揆
- 第2コンビナートの稼動開始に伴っての、悪臭(卵の腐ったようなにおい)、騒音、振動、ばい塵、ガスが隣接地区(橋北地区)をおそい、乳児や病人を非難させたりした。
- 三菱化成のカーボンブラック飛来による被害。
- 住民の反対運動
- 塩浜などの在来地区では、苦情を組長へ → 町自治会長へ → 連合自治会長 → 工場もしくは市役所出張所へ
- 公営住宅団地などでは、主婦による直接行動で工場へ。また、自治会とは別に、公害対策委員会を設けて、工場もしくは市と交渉。
- 悪臭などについて、市民が直接、市公害対策課へ電話をかけると、公害パトロールカ−がきて苦情を聞く。
- 四日市市の季節風
- 夏は、海から市街地に向かって風が吹くので、コンビナートの風下になる。
- 冬は、山から海に向かって吹くので、磯津がコンビナートの風下となる。
- 革新陣営の反公害
- '63年7月、社・共・労による『四日市公害対策協議会』結成による対応。社会党四日市支部、共産党北勢地区委員会、三泗地区労働組合協議会、四日市市革新議員団、三重県化学産業労働組合協議会
- 目的の異なる団体(幹部)共闘で、集合、行事を消化することは得意であっても、運動を持続、発展することなく、四日市公害訴訟提起準備(1972年)の段階で、事実上解体同然となった。
- 1963年(省38)夏、公害が頻発、住民が騒いだことがあり、四日市をばい煙規正法(ばい煙の排出規制等に関する法律)の指定地域にするかどうかの調査が、この年の11月に行なわれ、翌年5月1日から施行となった。しかし、この法はざる法で、規制効果はなかったといっていい。
- 石原産業退職者で、塩浜在住の古川喜郎さん(60)が、肺気種で死去。
- 遺言により解剖、その結果を三重県立大学医学部・吉田克巳教授が学会で発表。大気汚染によるものであり、わかっているかぎり公害犠牲第一号。
- 日本における公害反対運動のなかで特筆されている、沼津・三島の『火力・石油化学コンビナート反対運動』は、四日市を反面教師に、住民が四日市を視察、調査、度重なる学習会などで、1964年(昭39)9月、進出を阻止した。
- 西宮市においても酒造組合が中心となって、日本石油の誘致を阻止した。
- 1963年夏、塩浜地区住民で、ぜんそく発作のひどい患者たちの救済のため、自治会費から20万円、医療費にあてたが、瞬く間にそこをついてしまった。
- 1964年1月、磯津で住民検診を実施。呼吸器疾患の患者が多いというだけでなく、そのうち8人はろくな治療も受けておらず放置すれば死ぬかもしれないという極限状態にあった。
- 吉田教授は、県に交渉し、研究費の名目で金が出ることになり、「学用患者」として入院させた。
- 黒川調査団の勧告が、'64年3月に出た。その中に『地元医療機関に空気清浄室を設けること』の一項があった。
- 四日市医師会は、こうした生命と健康が脅かされる公害に、'64年7月、平田佐矩市長に、「医師が公害による疾病と認めたとき、医療費を市が全額負担する考えがあるか」とただす公開質問状を送った。
- 四日市医師会は、8月末の臨時総会で『今後、臨床により、明らかに公害によるとみられる患者を発見したときは、その旨カルテに記載、国・県・市などに通告し、真剣に公害防止策を練ってもらう』との強い方針を決めた。
- 四日市市議会においても、革新系市議が「市長は、ロング・ビーチ(姉妹都市提携)へばかり行ってないで、公害患者救済に本腰を入れろ」と追求した。
- 患者を救えという様々な動きで、平田市長は、1964年12月、「ぜんそく患者の治療は、来年度から全額市費で行う」との構想を発表。1965年5月、公害認定制度が発足。やがて国が、この制度を全国の大気汚染地区で実施することとなった。
- 1966年(昭41)7月10日、大協石油四日市製油所の正門前に住んでいた木平卯三郎さん(76)が、自宅の2階で首つり自殺。「死ねば薬もいらず楽になる」との遺書を残していた。
- 公対協は14日、「木平さんの市を無駄にするな」と、公害反対市民集会」を開催。この集会で、磯津の公害患者、中村留次郎さんは「弱いものは束になって死ねというのか」と訴え、人権擁護委員の小林けい子さんは、「コンビナート進出の一つの決算が、善良な市民の死だった事実を、市長さんはどう考えるのでしょう」と語った。
- 木平さんの長男一家は、翌年の8月、ブラジルへ移住すべく四日市を後にした。
- 1964年(昭39)6月、厚生省の委託となる統計研究会公害研究委員会(都留重人一橋教授を団長・都留調査団)が、四日市を訪れ、公対協役員などと懇談した際、戒能通孝東京都公害研究所長が「訴訟も可能」と語ったことで、名古屋の東海労働弁護団が、訴訟提起を検討することとなった。
- 第1回の訴訟準備会は、1966年(昭41)8月、四日市市でももたれ、理論構成は弁護団で進め、支援組織は、公対協と県労協(三重県労働組合協議会)を中心にしていくことを話し合い、具体化していくこととなった。
- 準備会は、第2回が9月10日に、第3回は10月22日と開かれ、弁護団の理論構成は進み、『原告は磯津の公害患者(塩浜病院入院)、被告は磯津隣接の企業、(国・県・市ははずす)、訴訟提起は年内に』との基本方針をまとめた。
- 第4回は、12月3日に開かれ、弁護団と原告に予定された患者たちが初顔合わせするところまでいった。
- 支援組織は、被告は企業と決まってくる時点で、コンビナート労組が支援組織から抜けていくことになり、公対協加入の、三化協、地区労、県労協、社会党と順に抜け、共産党が残ったが力不足で、支援組織はできなくなっていた。
- 四日市にただ一つ残された白浜青松の海水浴上の霞ヶ浦を埋め立て、(第2の大協和石油化学の年産4万エチレン製造では企業の繁栄はないと)エチレン30万トンを中心としたコンビナートを誘致するというもの。
- 1967年(昭42)2月、市議会で強行採決。
- 九鬼喜久男市長の言い分は、「『出島方式でやる。』『新しいプラント』だから公害はない。それと、万が一に備え、企業と公害防止協定を結ぶから安心していい」ということであった。
- 霞の埋め立てと第3コンビナート誘致の市議会に傍聴にもきていた、大谷一彦さん(60)が、その年('67年)の6月13日、自宅の菓子製造場で首つり自殺をしてしまった。
- ガスがたれこめ、発作に苦しめられるとマイカーで鈴鹿山麓へ逃げ、風向きが変わると自宅へ戻るという逃避行につかれていた。日記には、「九鬼市長、ぜんそくをやってみろ」といったことも書かれていた。
この年(’67年)の2月市議会での埋め立て議案賛成を受け、三重県知事は、7月の市議会に、「埋め立てを着工してもよろしいか」の同意を求め、議会は無記名投票で議決。コンビナートは第3といっても、資本・操業といったことでは、第2、第3は、興業銀行系列で同一。この第3コンビナートは、いわば四日市公害の申し子といっていい。
1967年(昭42) |
2月 市議会で埋め立て、強行採決。 |
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9月 公害訴訟 訴訟提出。 |
1972年(昭47) |
2月 公害訴訟 結審。 |
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2月 第3コンビナート営業運転開始 |
1967年(昭42)9月1日、津地方裁判所四日市支部へ提訴。
【原告】県立塩浜病院に入院中の磯津の公害病認定患者9名。
塩野輝美(35) |
中村栄吉(50) |
柴崎利明(40) |
野田之一(35) |
藤田一雄(61) |
石田かつ(62) |
今村善助(77) |
石田善知松(73) |
瀬尾宮子(34) |
【被告】第1コンビナート臨海部の6社
石原産業四日市工場 |
中部電力三重火力 |
昭和四日市石油四日市製油所 |
三菱油化四日市事業所 |
三菱化成工業四日市工場 |
三菱モンサント化成四日市工場 |
【訴え】
被告ら工場群の排出する煤煙中の亜硫酸ガスによる大気汚染により、原告ら磯津地区住民の健康が侵害された。
被告らは、以上の侵害事実を十分知りながら、稼動日以降今日まで、煤煙中の亜硫酸ガスを除去すべき何ら設備改善行為をなさず、あえて操業を続け、被告ら各工場ともばい煙の発生を続けて、原告等に対する加害行為を継続してきたのであるから、被告ら各社の損害発生に対する故意、もしくは少なくとも過失は明らかであり、余って被告らは、民法709条、同第71条第一項により、原告が蒙った損害を共同して賠償する責任がある。
民法第709条
故意または過失によりて他人の権利を侵害したる者は之に因りて生じたる損害を賠償する責に任ず
同第719条
@数人か共同の不法行為に因りて他人に損害を加えたるときは各自連帯にて其賠償の責に任す。共同行為者中の孰れか其損害を加えたるを知ること能はさるとき亦同す
四日市公害訴訟弁護団
東海労働弁護団のメンバーを中心に、当初56人の弁護士で結団。
北村利弥団長、花田啓一副団長、野呂汎事務局長
弁護団の意見
死者まで出しながら、四日市市は第3コンビナートづくりを進めている。 憲法第25条(国民の生存権)は亜硫酸ガスの中で死んでいる。その責任を誰も負うことなく被害が進行している。この無責任状態にまず終止符を打たせよう。 現実の被害に対し、一刻も早く、直接の加害者企業から、当然の賠償をさせることによって、もって行き場のない混沌の中に責任追求の一筋の道を切り開こう。 最も素朴かつ単純な、直接の加害者への不法行為責任の追及という闘いを通して、国や自治体の施策の根本も俎上に上らざるをえなくなるだろう。
支援組織
- 公害訴訟提起を弁護団に申し入れ、ともに準備会をもっていた『公対協』は、1966年末に、解体同然となっていた。
- 選挙約67年5月17日、中日新聞は、伊藤章治記者の署名入りで、「353人の公害病認定患者が地獄の苦しみを味わい、公害が拡大しずつけている今、公害訴訟を成功させなければならないのに、支援組織ができないとは・・・」と、激を飛ばす記事を掲載した。
- 四日市市職労は、夏の全国自治労の集会で、公害訴訟支援とカンパを呼びかけ、地元でも、地方公務員と国家公務員の労組が支援組織をつくる中核となり、9月1日の提訴には、準備会として参加。第1回口頭弁論が開かれる12月1日の前夜、「四日市公害訴訟を支持する会」が結成された。
- 1,967年10月20日、三菱油化は四日市工場と隣接している塩浜七つ屋町の南君枝さん(15歳)が、発作による呼吸困難で亡くなった。紙片に「家に帰りたい」、最後の言葉を残していた。
- 10月31日、この日は、吉田繁元首相の国葬の日、四日市では、女性が中心となって、「公害病少女南君へさん追悼集会」と行進を行った。「死んだなどというな。殺されたのだ!」というプラカードも掲げられていた。
- 黒川調査団の勧告の中に、「排出ガスの拡散希釈を促進せよ」とあり、95メートル以上の高い煙突がつけられるようになっていった。
- 高い煙突下は、汚染地区を広くすることはあっても、根本的なものではなく、元から亜硫酸ガスを取り除くことでなければならない。
- 通産省工業技術院は、中電と三菱重工に共同委託した「マンガン脱硫」の実験を1,967年に行うことを決め、11月4日、四日市火力近くの東橋北小学校において、通産、厚生省による説明会を持った。
- 四日市市の逆転層は、通常200メートル前後といわれ、火力の煙突120メートルからガスは2倍以上吹き上げられるので、人体に有害なマンガンは落ちてこないから安全と、数式などを持ち出し、学問的、科学的に説明した。
- これについて、住民が「窓から見える火力の煙突の煙が、それほど風が強いということもないのに、煙突の先から横に曲がっている。これをを学問的に説明してくれ」と質問され、返答に困って閉会となった。
- その後、実験は行われたが成果はなく、マンガン脱硫方式は取りやめにとなった。
- 公害訴訟被告企業の中心をなす、三菱油化の加藤寛嗣総務部長を選任。1967年12月の市議会で選任について同意。
- この年の9月1日、公害訴訟が提起され、12月1日、第1回口頭弁論が開かれた。この時期の選任は、「市の行政は、患者から訴えられての被告にはなっていないが、公害訴訟では、被告企業と一緒になって患者側と闘うことにした」との表明でもある。
以後、加藤氏は、助役に二期、その後、市長五期、20年間続け96年12月、退任した。
- 1,968年(43年)1月28日、市内の不動寺で、19人の霊を悼むとともに、公害絶滅に向けて努力することを誓った。
- 宗教者平和懇談会メンバーの山崎さん(西本願寺、唯信寺住職)は、公害認定患者で、これを機に、同メンバーの訓覇也男(くるべまたお)さん(東本願寺)が協力、公害患者の会つくりをはじめた。
- 「住民と企業の対話による公害防止」をうたい文句に、園田厚生大臣発案の「四日市地域公害防止対策協議会」の第1回総会が、四日市商工会議所ホールで開催された。1,968年(昭和43年)9月30日
- 厚生大臣としては初めて「四日市公害は企業が加害者の産業公害である」と発言した園田厚生大臣も出席しての第1回総会であった。しかし、大臣の意図に反し、企業側は、用意してきた原稿を読み上げるだけで、対話にはならずじまい。
- この会の会長である田中覚三重県知事、副会長の九鬼喜久男市長は、それぞれ記者会見で、「公害訴訟を取り下げ、防止協による話し合いでの解決を望む」と発言。
- 1,968年(昭和48年)10月4日、磯津の加藤光一氏宅に主だった公害患者10数人が集まり、産声をあげ、代表に山口心月さんを選んだ。
- これに合わせて、側面からこの会を支えようと、「四日市公害患者を励ます会」を発足させ、訓覇也男さんが会長となった
- 1,965年(昭和40年)8月15日、第一コンビナートにある日本アエロジル四日市工場の塩酸廃液を中和不完全なまま1日400トンをたれ流していた。日本アエロジル四日市工場を、港則違反、三重県公害防止条例違反、水産資源保護法違反の疑いで摘発。
- 検察庁は、改善に努力したとして不起訴処分としたため、市民が検察審査会に不服申し立て。審査会は「起訴が妥当」としたが、結局は起訴されずじまい。
- 12月17日、石原産業四日市工場の廃硫酸1日200,000トン(計100,000,000トン)垂れ流しに対し、裁判所の令状を執行しての強制捜査を行い、検察庁に送検したが、検察庁は起訴しようとせず、送検から1年という時効を前に、摘発の中心人物である田尻宗昭警備救護課長が、公務員法違反を覚悟、旧知の社会党石橋政嗣書記長に書類をわたし、1971年1月26日の衆院予算委員会で佐藤栄作総理・宮沢喜一通産相らを追及、検察庁は時効間際に起訴した。起訴は、1971年2月19日。工場排水規制法、港則法、三重県漁業調整規則などの違反容疑で、津地方裁判所で行われ、1,980年(昭和55年)3月17日、全面有罪の判決があった。
石原産業株式会社(石原健三社長)罰金80,000円。元四日市工場長西村大典被告を懲役3カ月、執行猶予2年、罰金50,000円。同山田務名被告を懲役3カ月、執行猶予2年。石原産業は控訴せず刑確定。
- 四日市公害訴訟は、公害患者の救済のほかに、公害をなくすためには住民運動を、との願いもあったが、いっこうにもリあがりがなく、四日市公害の原点地、磯津で磯津の人たちに学び、反公害に役立てようと、1,969年(昭和44年)10月、毎週2回、計10回実施した。
- 四日市市が実施していた公害病認定制度を全国の大気汚染地区で実施することとなった。1,970年(昭和45年)1月、四日市市の認定患者は464人で、2月からは国の認定患者となった。
- 1970年3月1日、磯津の子供が公害患者の母親たちが中心となり、結成した。
- 前年10月に開催された「公害市民学校」での話し合いから、黙っていては公害はなくならないと、母親たちも運動をと始められた。
- この日(1970年4月28日)、塩浜病院の柏木秀雄医師が「公害患者の症状は大気汚染が原因で、大気汚染がなくなれば、病状は軽くなるか進行が止まる」と証言。その一方で、霞ケ浦では第三コンビナート埋め立て地の完成式が行われた。
- 青年法律家協会が、四日市で「全国公害研究集会」を開催。2日目の最終日を閉じるにあたり、“被害者の立場で献身的に奮闘する“との四日市宣言を採択した。1970年7月26日
- 四日市地区反戦青年委員会と全国行動実行委員会の「公害と闘う全国行動」3日目(最終日)、この日、コンビナート縦断デモ。100人あまりのデモ隊の前後左右を、デモ隊を上回る人数の警察機動隊が取り囲み、まるで機動隊のデモ行進の様相。一方、コンビナートは自警団を組織して配置することもあり、この行動を盛り上げることに1役かう結果となった。1,970年8月22日から24日
- 富田地区連合自治会は、住民と企業との直接公害防止協定締結を、第三コンビナート進出企業に要求していたが、四日市市との間で協定締結があるとして拒否、この日(1,970年10月15日)「公害発生の場合は誠意を持って臨機の処置をとる」との確約書で終わった。
- 公害病認定患者の海蔵小学校1年生が公害ぜんそく死。1970年11月5日
- 「ぜんそくで死ぬことはないと言っていたのに、死んだじゃないか」と公害病の子供たちが不安があり、母親たちは、空気のきれいなところにぜんそく児童の養護学校作れと、県に要求することにした。
- ”助っ人”を自認「公害訴訟支援に、公害発生源撤去」で動き回っていた大学教師、学生、労働者などのグループが、月刊ミニコミの発行を決めたことから、このグループを「四日市公害と戦う市民兵の会」と名付けた。役員といったものはなく、全員市民のための兵ということで、ミニコミは「公害トマレ」と名付け、1,971年(昭和46年)4月に第1号発刊。(1,979年昭和54年7月の100号で停刊)
- 市民兵の会が第二次公害市民学校を1971年5月24日を第1回として、週1回、計8回、四日市市立労働福祉会館を会場に開催。
- 公害Gメンと、公害企業に恐れられた四日市市海上保安部警備救難課長の田尻宗昭さんが、突然の転勤辞令。和歌山県田辺海上保安部へ出発。コンビナート各社が盛大に見送った。神をおっぱらうことができた・・・が本音だ。1971年(昭和46年)7月6
- 公害訴訟原告患者中、最年少の瀬尾宮子さん(38歳が、入院先の塩浜病院でぜんそく発作死。原告では(1969年3月14日、78歳)に次いで2人目。認定患者では51人目の死者。
- 子供が公害患者の母親たちが中心になり、公害をなくす裁判をやろうと、患者と遺族に呼びかける運動進めてきた。そして、1971年9月17日、磯津公民館で、100人ほどが集まり、2次訴訟原告団を結成した。
- 市民兵の会が、2次訴訟原告のこと母親を対象に「反公害磯津寺子屋」を、磯津公民館で始めた。1,971年10月16日
- 1971年12月24日、四日市市議会は、異例の無記名投票で、第三コンビナート増設のための埋め立てを可決。保守、革新とも、賛否で不統一。
- 1,972年(昭和47年)2月1日、四日市公害裁判は、この日の第54回口頭弁論で結審。原告たちは、被告各社が「うちではない」と言い続けてきたことに怒りの意見陳述を行う。
- この日、第三コンビナートのナフサセンター、新大協石油化学が営業運転を開始。
- 塩浜小学校は、「科学の誇る工場は・・・・希望の光です」とコンビナートをうたい上げた校歌を、この年(1,972年3月)より、卒業式で歌うことをやめた。その後、問題の歌詞を改作した。
- 県立四日市南高校の校歌も、作者の谷川俊太郎さんが、公害を生んだ人間不在のコンビナート賛歌にも聞こえると、一部を改作した。
- 三菱油化が新たに河原田工場を建設しようと、土地買収を進めてきたが、一部の地主や住民が反対して巻き返しを図り、1972年6月2日、三菱油化は、三重県知事に、一時という言葉を使い「進出を断念」を申し出た。四日市で工場進出を阻んで成功したのは初めてのこと。
- 公害裁判の被告企業6社が共同で「四日市公害訴訟の記録」と題したB5判、54ページの冊子を4,000部作成。判決を前に、6月7日、マスコミなどで配布した。
- 内容を見ていくと、企業の生産活動による発病ではないと強調しているが、では一体、四日市の公害患者は何によって引き起こされたかといった記述はない。
- 1972年7月24日、津地方裁判所四日市支部(米本裁判長)
- 裁判所前、「勝訴判決報告集会」。原告を代表して野田之一さんが、「裁判には勝ったが、これで公害がなくなるわけではない。なくなったときにありがとうとあいさつさせてもらう。」と述べた。
- 裁判後、直ちに、原告側は各所で、損害賠償金差し押さえ執行にでかけ、石原産業で現金を抑えた。
- 敗訴した企業は、中電を除く5社が翌日に控訴を断念。中電でも1日遅れで断念した。
- 原告側、各社の本社へ出掛けての交渉で、工場立ち入り調査権を含む『誓約書を』を書かせた。
- 磯津地区公害患者と遺族140名は、2次訴訟をやめ、直接交渉でいることになり、9月より月2回の交渉を持ち、11月30日、補償協定書に調印した。
- 一方、公害認定患者以外の磯津住民が、「ガスを吸わされたのは患者だけではない」と、6社に要求。六社は交渉に応じず、住民の会は、名古屋中電本社へ押し掛け、3昼夜にわたって抗議の座り込みをした。四日市助役などが仲介、その後、交渉を重ねた結果、6社が新しい磯津公民館を立てて寄贈することで終わった。
- 公害裁判被告企業の昭和四日市石油は、判決時に完成していた80,000バーレルの増設プランとは、住民側の了解なしには運転しないと誓約していた。しかし、10月3日、知事、市長などを磯津公民館へ連れてきて、吉田克巳教授に、運転しても何ら被害を及ぼさないと説明させた。その後、、策をろうし、運転を開始した。
- 第二コンビナートに隣接するこの地区の公害認定患者の会は、判決前より「青空運動」を起こしていた。1,972年10月23日、大協石油(現コスモ石油)、協和油化、中電四日市火力に、11項目の要求書を提出した。中電は「亜硫酸ガスは出しているか、公害は出していない。」と要求書を受け取らなかったが、翌日には受け取り、この件の所長は転勤させられた。
- 11月27日、四日市の橋北出張所で、患者の会と工場側との交渉がもたれたが、2回目以降は交渉に応ぜず、提訴を恐れた大協石油は、公害財団づくりを進めていった。
- 四日市公害認定患者の会の役員が、三重県、四日市市の仲介で、コンビナート10社と、四日市全体の患者に対する補償などで交渉。1972年11月6日
- 企業は、「発生源対策が行政の指導に従ってやっていく。補償は財団を設立してやります。」と、直接交渉を避けることに終始した。
- 1972年12月10日の総選挙に、田中三重県知事が立候補して当選(自民党三木派)したことで知事選、市長選が施行された。
- 三重県知事選、九鬼喜久男四日市市長が出馬。当初優勢であったが、“公害市長”の悪名がたたり、予想に反し、田川亮三元副知事が当選。
- 四日市市長選は、社共労統一候補としての公害訴訟弁護団の弁護士を候補としたが、足並みが乱れ、社、共それぞれ立候補。市助役の候補が当選。
- 三重県は、公害訴訟の被告にはなってはいないが、裁判の判決は企業側敗訴、誘致の責任を行政は問われるだろうと、国の規制を上回る硫黄酸化物の総量規制を実施することにした。
- 二酸化硫黄の環境濃度、中間目標地(年平均)0.025PPMと設定。達成時期は1,974年度(昭和49年)末。
- 最終目標値は、0.017PPM、達成は1,976年度(昭和51年)末とする。判決の項に排出されている硫黄酸化物の総量を3分の1以下にすることによって環境濃度の低減をはかるというもの。
- 四日市公害対策協力財団の設立について、企業側の準備委員と患者の会との交渉が、商工会議所でもたれた。しかし、話し合い半ばに企業側が退席してしまい、患者の会側は、この日、1,973年(昭和48年)6月7日から27日まで、商工会議所の一室を占拠しての抗議行動を続けた
- 9月4日、三重県知事が設立を認可して財団が発足。常務理事に、元四日市市厚生部長の小西忠臣氏が就任。
- 1973年9月1日、支持する会解散。それを受け継ぐものとして「四日市公害をなくする会」を設立することになっており、この日、設立総会を持った。
- これに対し、社会党、地区労系は、急きょ、8月24日に「四日市から公害をなくす会」を設立。これに対抗した。
- 支持する会が持っていた「工場立ち入り調査権」は、2つの組織が作られることにとって、その権利が踏みにじられてしまった。
- 1,974年(昭和49年)4月2日、PCBや水銀カドミウムなどの有害廃棄物を入れた三菱モンサント化成の廃棄ドラム缶が、鈴鹿市の山林へ埋められていた。付近住民が騒いだことについて、三重県は「60本程度を」と言っていたが、堀りださせることにしたところ、1,243本も出てきた。
- 日本アエロジル四日市工場か、バルブミスで塩素ガスを流出。風下の市街地に被害を及ぼした。
- 住民44人の目やのどに障害を与えた。1,974年(昭和49年)4月30日
- 津地検は、バルブ操作を誤った従業員1人と、監督や事後処置に過失があったとして製造課長ら3人と会社を起訴した。
- 1,979年(昭和54年)3月、津地方裁判所、1,984年(昭和59年)1月、名古屋高裁とも、有罪。
- 1,988年(昭和63年)10月27日、最高裁は、公害逮捕(人の健康にかかる公害犯罪の処罰に関する法律)を、「偶発事故型の公害には適用せず」として、会社に罰金2,000,000円を命じた。1、2審判決を破棄。無罪を言い渡した。なお、従業員には、過失を認め、業務上過失傷害罪が成立するとした。
- 1,976年(昭和51年)4月1日。三重県環境部(その前は公害局)が、生活環境部に。四日市にある三重県公害センターは、環境科学センターと改名。県からは「公害」がなくなる。四日市市の公害対策課は、公害病認定患者の業務を受け持っていることもあり、この時は改名なし。
- 四日市公害認定患者の会・弁護団、映画サークルなどが制作した16ミリ映画“ほんとうの青空を“(30分ナレーター樫山文枝)が完成。1,976年11月
- ぜんそく発作で苦しむ公害患者や、患者の会の運動などで構成されている。
- 三菱油化四日市事業所総務部長から、公害訴訟を提訴のあった1,972年12月、四日市市助役となった加藤寛嗣氏が、1,976年(昭和51年)12月25日、市長選挙で当選。この日、初登庁。
- これより4日前の21日、市は、県立塩浜病院に入院中の公害病認定患者5人(うち4人は原告患者)について、「入院を必要とする診療がなされていない。患者の入院料の請求が認められない」と通告したため、病院側は5人を退院させた。しかし、石田かつさんなどは、発作に襲われ、再入院した。
- 加藤市長は、1,996年12月まで、5期、20年間、市長を続けた。
- 1,977年(昭和52年)3月、四日市市は、市内測定局において、二酸化硫黄にかかわる環境基準を達成したと発表。
- 理事長は三重県知事、理事は、市長やコンビナートの工場長、事務局は、環境検査センターであった。産業廃棄物を捨てる工場、検査監督する行政が一緒で、捨てられて迷惑する住民できが入っていない。
- 第三コンビナートの第2次、3次埋め立て用の土を、6キロほど離れた八郷の山を買収。ベルトコンベヤーで運ぶべく、海側から建造していたが、予定地の地主が買収に応じなかったため、少量しか運べなかった。それで海底の土砂しゅんせつや、石原産業とアイアンクレイ(産廃)をなどで埋め立てた。
- 土採取に際し、四日市港管理組合は、協力を約束した八郷の自治会長に、極秘に5千万円を渡していた。しかし、計画通り土地の採取がいかなくなり、横領したとしてこの件の自治会長を逮捕させて後始末しようとしたが、起訴できずじまい。公金を、私印で勝手に大金を出した副後管理者は逮捕されなかった。
- 1,978年(昭和53年)5月9日、逮捕。
- 8年の好機と2,800,000,000円の建設費で完成のベルトコンベヤーは、稼働1年4カ月計画量の6分の1を運んだだけで取り壊す。1,980年(昭和55年)3月1日。
- 二酸化窒素(NO2)の基準緩和を盛り込んだ、三重県公害防止条例改正案が、公明党、共産党の反対だけで、
1,979年(昭和54年)7月30日の三重県議会で可決。
- 四日市市議会は、公害拡大を恐れる市民に配慮。1,971年(昭和46年)12月議会で、霞が第三次埋め立て地には「石油関連企業は立地させないの」との付帯決議を付けて可決した。しかし、1,980年(昭和55年)3月議会で、「その埋め立て地に中部電力のLNG(液化天然ガス)、大協石油のLPG(液化石油ガス)タンク建造を認めてほしい」との港管理組合の申し入れを受け、決議を解除してしまった。
- 中部電力四日市火力発電所は、LNGタンク基地造成に伴い、天然ガス専焼の4号機に560,000キロワットを増設の説明会を開いた。1,981年(昭和56年)10月17日。
- 四日市商工会議所ホールで開催。会場は中部電力の動員で満員。公害患者たちの質問にまともに答えられず、答弁に困ったらさっさと閉会。
- 現有の220,000キロワット×三基は、重油だが、順次、天然ガスに切り替えていくとしている。
- 4月10日、四日市市は、市の広報で、“公害特集号を”を発行。紙面には“きれいになった四日市の空”などの見出し文字は踊り、二酸化硫黄について、京都や仙台なみの棒グラフなどが掲げられている。
- 患者の会・弁護団、地区労などで、“四日市公害判決10年を考える実行委員会”と設け、7月23日(集会とデモ行進)、24日(シンポジウム)にわたって考える行動した。
- 立ち入り調査権(誓約書)に基づき、患者の会や弁護団が、三菱油化へ申し入れたのころ、拒否してきたので、裁判所に仮処分を申請、「決定」書を持ち、8月25日に三菱油化へえ11月11日に三菱化成へ立ち入り調査をした。これについて地区労と、四日市から公害をなくす労働組合協議会の3役が、組織には何の相談、報告をすることもなく、企業に「わび状」を差し出す。
- 小野のセメント藤原工場を相手に起こした、セメント公害訴訟が、津地方裁判所四日市支部で争われていたが、1,982年(昭和57年)6月25日、三重県員弁郡藤原町の住民に“勝訴判決”があった。
- 1,982年(昭和57年)11月18日、魚さい処理場建設反対で、河原田と塩浜地区の住民と、三重郡楠町とが原告となっての訴訟を、津地方裁判所四日市支部に提訴。
- 1,983年2月1日の第1回口頭弁論には、むしろ旗を持ち200人ほどが詰めかけ、裁判所前で決起集会。
- この運動の中心になったのは、三菱油化河原田工場進出反対で運動した住民。
- 行政は、この年の12月、結審、判決を待たず、訴訟途中で建設を断念。
- 1,985年(昭和60年)1月5日、四日市公害認定患者の原澄子さん(52歳)が、三重郡楠町小倉の自宅の庭で、灯油をかぶって焼身自殺。
- 公害病認定制度を廃止しようとはかる経団連は、1,983年8月に「経済広報センターたより」の臨時号で、“四日市がよみがえった“のルポを載せた。四日市をターゲットにしていることから、全国の大気汚染認定地域の自治体労組と四日市地域の労組、三重大教官などの署名で、1,985年(昭和60年)12月の四日市市委員会に、認定制度継続の請願を行った。請願は採択となったが、国への意見書の内容は、請願趣旨にもとるものに曲げられてしまった。
- 名古屋通産局、県、市、商工会議所、コンビナート企業などで「四日市地域石油化学工業活性化推進対策会議」が持たれた。公害指定地域解除、教科書から公害記述のとり除きなどを論議した。
- 1,986年(昭和61年)環境庁の「環境保全功労者」に、三重大学医学部の吉田克己教授(62歳)と社会党四日市市議の前川辰男氏(65歳)が選ばれた。6月7日、東京の有楽町ホールで表彰式があった。
- 2人は、公害訴訟を担った中心人物。判決後は、行政の公害対策(審議会会長と副会長)になった中心人物である。
- 前川氏は、「四日市は公害都市ではなくて、公害を克服した都市なんです」と語っている。
- 公害健康被害に補償制度を廃止する件について、三重県知事と楠町長、四日市市長は、同意する旨の意見書を中曽根首相に提出した。
- 指定41地域の51自治体首長のうち同意したのは、江戸川区長、富士市長、静岡県知事の6首長のみ。1,987年(昭和62年)2月9日。
- 同年9月18日、国会で、自民、民社が賛成、社会、公明、共産が反対で可決。これにより、1,988年(昭和63年)3月1日より、新規認定はやらないことになった。
- 四日市判決15年となる1,987年(昭和60年)7月24日、日弁連の公害環境保全委員会が四日市に来た。患者、住民などからの聞きとりと懇談が、磯津公民館であった。
- この夜、15周年実行委員会による集会が、四日市市文化会館で開かれ、地元劇団の劇上映と、森島昭夫名大教授の司会で、各分野の人たちがスピーチをした。
吉田克己三重大名誉教授 吉村功名大助教授 北村利弥弁護団長 野田之一原告患者 有竹一師市職労委員長 萩原量吉県議会議員 萩森繁樹中学校教諭
- 1,988年(昭和63年)3月1日、この日から公害病の新規認定をしないという認定制度廃止に抗議。市民兵の会が、この日を第1回に「第3期、公害市民学校」を開催。毎月2回の計10回。
- 認定制度廃止を待ちかねていたように、四日市市は、1988年4月1日、公害対策課を環境保全課に改名。
- 1,989年(平成元年)1月、四日市市の隣町にある中部電力川越火力発電所の1号機、700,000キロワットが天然ガスを燃料に営業運転を開始。
- 2号機も700,000キロワットで、3号、4号は1,650,000キロワットで、4号機の稼働は1,997年(平成9年)12月。
- 1,997年度中には、計4,700,000キロワットという巨大発電所となり、国内では最大、世界では2番目。
- 公害訴訟の被告となった三重火力発電所、34.10キロワットは、老朽化で、1,989年4月7日、廃止することを中電が発表。
- 跡地は隣の昭和四日市石油が借り受け、重油分解プラントを建設(1,996年)
- 昭和四日市石油のシーバースで、原油荷揚げ中のタンカーが原油を流出させ、15キロにわたって流れ、沿岸漁業に大きな被害を及ぼした。1,989年4月30日。
- 1,989年6月の2日、県庁記者クラブで、県知事、四日市市助役と東芝副社長とが、四日市市の農村地区の山之一色町に、東芝ハイテク工場を建設すると発表。地権者、住民の合意もないままの誘致は昔と変わらず。
- 反対地権者を、あの手この手と札束で説き伏せ、1,990年11月に起工式。
- 反対運動の中で、立ち入り調査を含む、東芝と住民(地元自治会)による直接公害防止協定を締結。1,991年(平成3年)11月28日。
- “発展途上国のために環境保全技術移転活動を行う“などとした「(財)国際環境技術移転研究センター」が、1,991年(平成3年)2月、所管を三重県から通産省に移管、再発足した。四日市市桜地区の山の中に建てられている。
- 石原産業を四日市工場の産業廃棄物から、市民兵などがガイガーカウンターで、放射能検出したことについて、三重県は、工場や産廃処分場で測定した結果「問題はない」と発表。1,990年(平成2年)7月25日。
- 石油化学の一連プラントの増設計画が各地で進んでいるが、1,991年(平成3年)8月7日、第三コンビナートで、新大協和石油化学(370,000トン)を吸収合併した東ソー四日市工場が、400,000トンのプラントを増設する計画を発表。環境影響評価も実施した。
- 四日市公害判決20年となる1,992年(平成4年)7月24、25日、日本環境会議が四日市市で集会を持ち、25日には、四日市市の遊覧船でコンビナートを裏側から視察。途中、石原産業廃硫酸排水口付近で、田尻宗昭をしのんで花束を投下。四日市公害訴訟弁護団は、20年を機にと、生活を記録する会などと、「四日市公害記録写真集」と「新聞が語る四日市公害」を編集・発行した。
- 公害患者たちの駆け込み寺となっていた三重県立塩浜病院が老朽化、対象人口減少などを理由にとり壊し、5キロほど離れた山の手に新たに県立病院を作るとして、1,994年(平成6年)9月30日に閉鎖。公害患者たちの診療所を残してほしいとの声に、病院跡地の近くに「応急急患診療所」をプレハブで建てた。
10月1日より2年間。夜間のみ受け付け19時30分 診療 20時から20時30分まで日曜・祭日、12月31日、1月2日、3日受け付け 9時 診療 10時から16時まで
塩浜病院が閉鎖となったあくる10月1日、三菱化成、三菱油化、三菱モンサントが合併。東洋一の大石油化学会社、「三菱化学」となった。
- 1995年6月5日、環境保護や改善に功績のあった個人や団体に贈られる「国連に環境計画」(UNEP、本部・ナイロビ)の“グローバル500賞”が、四日市市と加藤寛嗣市長に授与された。
6月29日、四日市都ホテルで受賞祝賀会があり、250人ほどが招待された。その中に、原告患者の野田さんもいた。野田さんは、「海水の表面は美しいよ。きれいやけどね。いつもやったら今時分、何の魚でも最盛期や。今1番魚の多い時や。ところがこれ、わしら漁にいかんとおるが、ということは、伊勢湾は結局、浄化されたドブや。まずね、1回壊された自然は絶対治らん。グローバル500、この表彰されたっていうことによってもね、私の考えではやに、世界で表彰された四日市やで、メンツにかけても、もう悪くできやんが、今現在よりも・・・・・。」と、7月24日に放送された日本テレビの“今日は何の日”で語っている。
- グローバル500賞を受賞したことは世界が四日市公害克服を認めたことをになるとばかり、無公害宣言ともとれる宣言を行った。
「さわやかな大気、清らかな水、緑豊かな自然の中で、安らぎと潤いに満ちた暮らしを営むことは、すべての人々の基本的な願いであります。 しかし、今日、私たちの活動は、私たちの身の回りの環境のみならず、人類の生存基盤である地球環境に深刻な影響を与えつつあります。 私たちは、人も自然の一員であることを深く認識し、自然と調和した町づくりを進め、良好な環境を将来の市民で引き継いでいかなければなりません。 市民、事業者、行政が一体となって、2度と公害を起こさないとの決意のもと、地球的な視野に立ち、良好な環境の保全と創造をはかるため、私たちは、ここに四日市市を「快適環境都市」とすること宣言します。
団体で四日市市、個人で加藤寛嗣市長を賞が、国連の“グローバル500賞”をもらったこと、あるいは無公害宣言ともいうべき“快適環境都市宣言”については、公害患者を切り捨てることだとの異論もある。
- 四日市市立博物館 が、四日市公害をテーマとした、企画展「公害の歴史−公害の街から環境の街へ」を1,996年(平成8年)6月21日から7月21日まで開催。
3年ほど前に開館した市立博物館に、四日市公害の展示はなかった(させなかった)のに、グローバル500賞→快適環境都市宣言→公害展と続くこの企画展は、“公害の街よさようなら、環境の街をこんにちは”と、公害四日市の幕引きともいえるもので、これで、晴れて来年の“四日市市制100周年”を迎えるためのものとの危惧がある。
- 県立塩浜病院の閉鎖に伴い設けられた「塩浜急患診療所」が、2年間たったとして、1,996年(平成8年)9月30日に。四日市市の公害病認定患者は、この時期も700名ほど(死者は635人)がいるのに、「公害克服」がしきりに言われる中、公害そのものの患者たちは、肩身の狭い思いで、片隅に追いやられている。
- 四日市市長を5期20年間務めた加藤寛嗣氏(元三菱油化総務部長)の引退に伴う市長選で、おおかたの予想を覆し、井上哲夫氏が当選
1996年12月1日投票。選挙は、元助役の片岡(61)、井上(58)、松岡(50)の3人で争われ、片岡絶対優勢といわれていたが、井上が、5,000票近くの差をつけて当選した。井上市長は、弁護士、公害訴訟弁護団の一員、参議院議員(連合)1期務めた。