“助っ人”と“黒衣”の反公害

−四日市公害市民学校のことなど−

はじめに

 昨年12月、NHKデーター情報部と言うところから「人物情報記入用紙」なるアンケートが送られてきた。
 その中に、「好きなことば」の設問があった。これまで、そんなことを聞かれたことも思ったこともなく、はてな?そんな言葉ってあったのかな、と考えたのは一瞬で“助っ人”と“黒衣”をすらすら書いていた。
 四日市公害に関わっての30余年、それ以前の紡績工場での労働組合・生活記録運動も、私の流儀は、“助っ人”と“黒衣”であったんだとアンケートに答えることの中で思い知った。
 四日市市は、1997年の姿勢100周年に向け記念事業のひとつとして、全20巻の「四日市市史」編さんをすすめており、「現代」の「資料編」にのせる公害−市民運動の記録文書を貸してほしいと言ってきたので、段ボール箱にして4箱分ほど市史編さん室へ貸した。
 昨年末、そうした資料がどうなっているかを知るために資料整理をしている分室へ行った。
 すでに大部分が整理され「澤井所蔵文書目録」が作られ、棚にはマイクロフィルムからコピーされ、厚表紙で製本された記録文書がずらり並べられていた。
 貸した文書は、公害を記録する会や四日市公害と戦う市民兵の会で作られたガリ版文集「記録・公害」や、月間ミニコミ「公害トマレ」といったもののほか、その時々に作ったビラだとか内部用の文書も入っていて、われわれの運動の手の内をさらけだしてしまうことになると、少し不安にもなったが、まあいいかと思ったりもした。
 そう思ったのは、市民兵たちの運動は公害患者や地域住民の運動の助っ人として、表面に出ることをひかえ陰で黒衣としてやったことだけにあまり知られていないが、市民兵たちの運動は、四日市反公害の節目のそのときどきに評価されていい運動をやっていたという思いと、あるべき反公害として知られていいことだということである。
 それにしても、反公害市民運動の文書としては、こちらのものがほとんどでその量の多いこと、それは運動をやってきたことの証をそれらにみることができるわけで、よくやってきたなあと思った。

民兵がほしい

 公害に反対する。公害を防止させる。その運動の主体は地域住民と公害患者でなければならない、と思った。地域住民と公害患者こそ被害の実態を身をもって知り、大言する生き証人であり、工場側も、そうした人たちを無視しての操業は続けられないからである。しかし、そうはいっても、ひとりひとりの市民は、その日の生活に追われたり、幾重にも絡むしがらみを背負う地域住民にとって、反公害運動に明け暮れる余裕はない。 また、公害患者は病人であり、弱気になったりで、諦めがちにもなる。
  工場側は、それらをいいことにして公害防止を怠り、行政は手を打とうとはしないのである。何とかしなければ、と思った。そんなとき、磯津の漁師で、公害病入院患者の中村留次郎さんから、「労働組合で、“公害反対”と言っているだけじゃ、どうにもならん。わしら患者がどれだけ苦しんでいるか、そういうことも知ってもらい、これ以上公害患者を増やさんようにしてもらわんとな・・・。何だったら、わしらが入院しとる病室へ来たらどうや、夜中から明け方にかけ、患者が発作を起こして苦しんどるのがようわかる。」と言われた。
 労組などが、いくら大勢集まって、「公害反対!」、「公害なくせ!」って、こぶしを挙げたりしているだけではだめだ、というわけである。公害患者のナマの苦しみや、くさい魚で漁にいけない漁師、悪臭や煤煙などで、生活を脅かされる地域住民。そうした地域住民の地平で、反公害を進めなければならないことを知った。
 その手掛かりにと、カメラ、テープレコーダーをもって、三重県立大学医学部付属塩浜病院へ行った。ところが医師に、「この病室は、空気清浄病室なので、24人分の入院患者の空気しか送り込んでいないから・・・」、という理由で断られてしまった。
 しかし、これが契機となって、四日市公害の吹きだまり、と言ってもいい磯津地区へ通うことにした。実は、「磯津」という地名は四日市市の地籍にはなく、塩浜何番地である。1キロ四方の狭い地域に軒を連ねるようにして約680世帯、2700人が居住し、450人の漁協組合員によって、漁業を中心にした生活を営んでいる漁師町である。
 コンビナートが作られてから、これまでなかった、ぜんそく患者が発生したり、魚が臭くなって売れないようになった、など四日市公害発生(1960年初頭)の地である。
 公害を記録する。公害患者や漁師の話を聞く。そのテープを起こしてガリ版文集として出す。−−−こうしたことは一人ででもできる。一人でやっても、記録された被害者たちの生活と意見は読まれる。読まれ、知られることによって、少なくとも反公害にとって10人以上の力になるだろうと思ったし、助力になると思った。
 だが、漁師や公害患者に接するのは容易ではなかった。「選挙の時だけわしらを喜ばせるようなことをいい、選挙が終われば知らん顔の革新(労組)は信用できん。」と言う。
 「わたしは一市民としてやっている。」 と言ってもだめ。人間関係をつくるまで通うしかない。何度も通ううちに、やっと、「おまん(おまえ)は、どうやら信用してもいいな。」といわれるようになっても、集まりで紹介されるときは、「この人は市役所の人や」と身分詐称である。それでも、しばらく運動しているうちに、「役所の人やって聞いとったが、そうじゃなかったんやな。」、とバレたが、「ようやってくれる」と感謝されこそすれ、はずされることはなかった。
 こうした磯津の人たちの思いや自分の経験から、氏・県などの職員、学校教師なれば、その日からでも住民運動の助力者になれると思った。公務員の特権を生かさぬ手はないと思った。
 “公害と戦う市民兵”の発想はこうして生まれた。
 自治労と教祖(教職員組合)に呼びかけて、市民学校をやることで、労組の指令・指示で動くという行事を消化する運動ではなく、己の意志と創意工夫ではたらく人たちを生み出したいと相談を持ちかけた。しかし、労組運動は執行部の指示で進めることが基本にあり、個人の意志云々でする運動スタイルは馴染まないとされ、公害市民学校の構想はスタートで崩れた。が、ともかく、「いいことだ」、と思ってやる以上、やっただけの成果はある筈だと、公害を記録する会の2〜3人でやっていくことにした。

四日市公害市民学校

 1965年10月、磯津公民館を主会場にして、夜10回開催するプランを建てた。自治労や教祖には宣伝してもらうことを依頼し、磯津は回覧板を回してもらった。新聞記事にしてくれた。

(第1回)10月2日(木) 労働会館
「市民学校の趣旨」、「四日市公害の運動の10年についての報告」
 報告者 澤井余志郎

(第2回)10月6日(月) 磯津公民館
「磯津の成り立ちと生活・公害」
 この日、話をしてくれることになっていた石田季樹自治会長は、昭和四日市石油社宅クラブへ招待され、そちらへ行ってしまい、代わりに磯津患者の会の加藤光一会長と訴訟原告の野田之一さんに来てもらった。

(第3回)10月9日(木) 磯津公民館
「公害ぜんそく、生活」
 磯津の公害患者3人に来てもらっての話。

(第4回)10月13日(月) 磯津公民館
「磯津の漁業・異臭魚・中電三重火力排水口封鎖実力行使」
 磯津漁業協同組合・今村庄組合長
 この日も、昭和四日市石油は誘いをかけてきたが、今村さんはそれに応じないで来てくれた。

(第5回)10月16日(木) 磯津公民館
「公害訴訟の意義・経過・展望」
 四日市公害弁護団・郷成文弁護士
 この日は、磯津地区公害認定患者の会の総会を兼ねることにした。

(第6回)10月20日(月) 磯津公民館
「四日市の公害患者の実態と患者の会の運動」
 四日市公害患者の会の代表委員・山崎心月さんと阪紀一郎さんの話

(第7会)10月23日(木) 磯津公民館
「昭和四日市石油と大協石油の増設に反対、磯津での運動について」
 参加者による討論
 予定では、共同通信の土井淑平記者に「公害を記録することの意義」について話してもらった後、参加者が公害患者宅を訪れ“聞き書” をする事にしていたが、取材の仕事が入り、予定を変更した。

(第8回)10月27日(月) 磯津公民館
「公害と教育、子供」
 塩浜小学校教諭の喜多としさんと養護教諭の倉田はるみさん。

(第9回)10月30日(木) 磯津公民館
「磯津での大気汚染発生状況・病状と対策」
 三重県立大学医学部・大島秀彦助教授と今井正之講師

(第10回)11月6日(月) 労働会館
「市民学校のまとめ、今後の運動」
 参加者による討議。

 話をしてもらう人は講師になるわけだが、謝礼は一切出していない。参加については四日市本土からも数名。数は少ないが、己の意志で来てくれた人たちである。
 予想外であったのは、磯津の人たち。中でも母親たちが、「四日市から、わざわざ、こんなところまで来て公害のことを勉強しとってもらうのに、地元が知らん顔しとるわけにはいかん。 地元も一緒になってやらんといかん。」と、多いときには40人余りが参加してくれた。
 「公害訴訟は、原告患者9人の金儲けでやっている裁判だ。」「コンビナートに勝てるわけがない。そんなのに応援しとったら、えらい目にあう。」などとして、10年この方、諦めがちだった公害について、石油工場の増設反対を決め、公害訴訟支援についても議論し、「公害患者の子供を守る母の会」を作るきっかけにもなっていた、ということである。

名古屋大学からきた“助っ人”たち

 1967年9月1日に提訴された“四日市公害ぜんそく訴訟”は、公害患者の救済とともに、裁判を起こせば、それが元になって公害に反対する運動が盛んになるだろうとされていたが、いっこうにその気配はない。相変わらずの労組の動員消化運動で、肝心の訴訟支援も、朝早くから傍聴券確保の順番取りはあっても、傍聴者は少なく、法廷の空席が目立つ有様であった。
 そんな状況の1970年夏、公害訴訟を支持する会の女性事務局員から、「先生だけども先生と呼ばれない先生が、学生さんを数人連れて事務局へ来てね、我々で、お手伝いできることは何でもやりますから、言ってください、って・・・折り角だから手伝ってもらったら・・・。」、とрナ知らされ、明大グループと初めて会った。

 「先生だけれども先生と呼ばれない」、名大工学部助教授の吉村功さんとゼミ所属の学生たちとの出会いは、こんなことであった。が、この人たちによって、その後の四日市反公害に大きなインパクトを与え、運動の強力な“助っ人”となり、「澤井所蔵文書目録」に挙げられている運動を作り上げていくことになるとは、そのときは思ってもみなかった。
 吉村さんは、名大で学生などに次のような問題提起をしている。

  1.  各地の住民運動は、四日市をショーウィンドウにし、四日市を踏み台にして何がしかのものを得てきている。ここで見直してほしい。依拠された四日市、踏み台にされた四日市がどうなっているかを。
  2.  ○○は四日市以上だ。磯津みたいにならないように住民協定を、と訴えるとき、それは四日市に対して平然と差別を行っていることになるのだ。
  3.  ある人はいう。「四日市は十分有名だ。助力者も多い。我々、愛知の人間は、名古屋南部東海市に集中すべきだ。」、と。
     ごもっとも、ごもっとも。大いにやってほしい。だが、現実も見てほしい。四日市がどうなっているかを。
  4.  四日市ほどひどくありませんよ、と資本家に言わせておいて、四日市を踏みつけにした報いがこないとでも思っているのだろうか。
  5.  ある人はいう。 自分の職場や居住地で闘うことこそ、最大の助力者なのだと。
     ごもっとも、ごもっとも。もし、あなたが自分の職場や居住地において、四日市の患者と同様の被害者、または加害者ならば、その立場で本気に闘ってほしい。
  6.  だが、歴史を見てほしい。10年間の四日市公害ぜんそく患者に対して、助力になった闘争が、どれだけあっただろうか。
  7.  四日市公害を告発しきれないで、四日市を踏み台にしないような闘争が築けるだろうか。
  8.  公害において、明確な被害者または加害者でないならば、まず、四日市公害の告発運動から出発してほしい。それをやり抜く中からしか、他を踏み台にしないような闘争の質は築けないだろうから。
  9.  石牟礼道子さんはたくみに表現した。 「水俣病を告発する運動に参加している人は、義によって助太刀いたすと名乗り出た人たちです。」
  10.  我々の助太刀における大義は何であろうか。
  11.  我々は、まず、学ぶことから始めなければならない。特に、公害の被害とはどんなものであるかを血肉化させなければならない。

 大学助力者は、名大工学部を中心に、理学部・教育学部・医学部などから学生のほかに、講師・助手の人たちも、それに、三重県立大医学部や岐阜大の学生、中には東京でアルバイトをして費用をつくり、四日市へやってくる学生もいた。彼らの多くは、あまり大学へ行こうとはせず、留年していた。
 この頃、公害裁判は、原告側証人が出廷しての口頭弁論が進み、そろそろ被告企業の証人出廷が近づいていた。当然のことながら科学論争となり、企業側証人に対しての反対尋問の内容を考えなければいけないときだけに、弁護団にとっても大学助力者の出現は願ったりであった。訴訟支援においても労組や政党の支援活動が中だるみで、傍聴席も埋まらない有様の中、口頭弁論前夜に、四日市へ集まって明日開催される対応について討議、その夜は、傍聴券確保のために、裁判所の傍聴券交付所の前で寝袋で待つことも始めていた。また、労組の動員で傍聴に来る人は毎回違う人で、法廷で聞いていてもよく判らない、つまらない、ということで、傍聴者がいなくなることさえある。それで、“本日の裁判の見どころ”といったコピーをつくり、改訂前に傍聴者に配り、吉村さんが説明をした。
 弁護団にも、企業側が出してくる資料や数値などの証拠も、一つひとつ分析して、反論したものを提出し、吉村さんは、毎回持たれる弁護団会議に出席するようになった。大学の授業に出ない学生の中にも、 優れた知識を持っている者もいて、弁護団の自然科学の分野を担っていた。

四日市反公害と戦う市民兵の会を名乗る

 別に会として名前がなくても、訴訟支援や公害患者への助力と、それぞれが運動していたが、訴訟支援にしても、公害患者への助力をするにしても、そのことのよりどころとなるミニコミがほしいと思う、思われるようになり、1971年2月「公害トマレ」テスト版を発刊、4月から月間で発行することを決め、市民兵の会を名乗ることにした。大学の先生も学生も労働者も主婦も、みんな平等で会長などというえらい人はいない。毎月交代でミニコミの編集をやる2名が、その付きの幹事役になる。入会申し込みもなければ会費もない。毎月2回の定例会に出てくる人が市民兵で、メンバーは身銭を切って参加することとし、学生にその身銭はなく、市民兵の会の事務所に寝泊まりする学生は、何日か万古焼工場へアルバイトに行って生活費をかせいでくる者もいた。ミニコミも有料としたが、そんなに詩代が集まるわけではなく、結局、吉村さんが家賃やミニコミ印刷代を身銭、家銭をきることでまかなってくれていた。
 かくして、毎年春休みや夏休みなどにやってくる研究論文・卒業論文作りのための公害四日市詣での学生とは全く違う関わり方で、踏み台ではない、まさに反公害への参加そのもので“助っ人”とひかえめではあるが、運動の質においては主人公となる運動を始めた。
 その運動は、亜硫酸ガスの検知紙検査、気象観測、公害患者の実態調査、磯津での二次訴訟準備、第2コンビナート隣接の橋北地区でのあおぞら回復運動、三菱油化河原田工場進出反対住民への助力、などなど、この10年、四日市でみられなかった運動を始めた。第二期公害市民学校もそのひとつとして計画され、実施された。

第2期・四日市公害市民学校

 (よびかけ) “日本列島の公害原点・磯津、鈴鹿川に怒りの橋を”
 四日市は、その名を全国にとどろかせている。反公害闘争としてではなく、公害の街として。
 そうであるかぎり、コンビナートという怪物は今日も明日も労働者の人間性と偉大な漁の油を食ってもくもくと亜硫酸ガスを吐き出し続けることは確かだ。
 私たち四日市公害と戦う市民兵の会は、公害発生源をなくしたいと感じている。患者のみなさん、市民のみなさんと共に、コンビナートに“銃の弾丸”を打ち込むことを欲しつつ、第2期公害市民学校を計画した。
 “頑丈でいささかも動ぜぬブリキの塔であったと実感でき” “公害発生源をなくすることができる武器”を求めて・・・。
 (吉村功さんの開校のあいさつ)から

  1. この第2期公害市民学校をやろうと言い出したのは、第1期公害市民学校の記録を読んでいてそのときに澤井さんが、今この四日市で何かをしなければいけない、で、どうなるか判らないけども、市民学校っていうのを開いてみよう。そして実際は、見かけ上、そうはでにやったわけではないんだけども、予想していた以上の何かを得た。そしてそのときに、動けば動くほど人間の活動っていうのは、ますますしやすくなる者だという趣旨のことを読みました。
  2. そのときに澤井さんが言われたことは、地区労の人間なんていうのは、磯津の人たちにしても抵抗があったようである。それにもかかわらず、市民学校を準備してやっていくうちに、そういうのは減ってきたという話を聞いて、僕らはほとんど四日市にも来たこともないし、せめてなにか仕事をしながら、実際に四日市のことも知り、四日市の人たちに学び、そして多少とも公害をなくすという行動ができないだろうか。それで何かうまいアイデアというのはないけれど、第1期市民学校っていうのがあって、そのまねをすれば、まねをしたくらいのことは何かあるんじゃないかと思ったわけです。
  3. 実際に、これで何を生み出すかっていうのは、ここに参加されたみなさんがこういう機会を通じて考え、そして何をされるかといくことによって決まります。あるいは、私どもがここで考えながら、次に何をするか、また何をすればこの公害をなくすのに役立つかということを一緒に考えていき、あるいは、学んでいきたいというようにぼくは思っております。

<概要>1971年5月24日より7月10日まで、週1回、計8回
 四日市市立労働福祉会館 、毎回、午後6時より8時半まで。

<第1回> 5月24日(月)
 近藤完一さん(技術史研究会会員)
 私たちにとって石油化学コンビナートとは?石油化学はわれわれに何をもたらしたか。
 巨大プラントはなんのためにか・・・。

<第2回> 5月31日(月)
 山崎心月・阪紀一郎・加藤光一さん(患者の会役員)
 公害患者のありよう、磯津の状況などについて。

<第3回> 6月7日(月)
 大橋茂美さん(四日市公害訴訟弁護団)
 公害加害の企業責任を明確にさせ、ストップ公害をめざす公害裁判は、原告以外の公害患者や市民にどうかかわってくるか・・・ストップ公害をめざすたたかいをどうやっていくか。

<第4回> 6月14日(月)
 前川辰男さん(公害訴訟を支持する会代表委員)
 吉村功さん(名古屋大学工学部助教授)
 四日市公害とのたたかいを総括し、現状把握とたたかいの方向、具体化を明らかにしよう。

<第5回> 6月21日(月)
 大川博徳さん(名古屋市北区住民・三重大教育学部助教授)
 公害発生のセロハン工場を追放した市民運動−風鈴調査などの創意ある市民運動に学ぶ。

<第6回> 6月28日(月)
 宮地一馬さん(三重県立大医学部教授・塩浜病院長)
 “四日市ぜんそく”など、公害はさまざまな悪影響を人間に及ぼした。それらについて研究調査は学会などで発表されているが、当の市民は知らない。 市民にも発表を・・・。

<第7回> 7月5日(月)
 大林義之さん(三重県公害局長)
 河合一郎さん(四日市公害対策課長)
 “エライ人の話を聞く”
 コンビナートの各工場長に、 公害発生当事者の弁を聞きたい、それぞれ申し入れたが拒否され、知事・市長は代理を出してきた。

<第8回> 7月10日(土)
 西岡昭夫さん(三島北校教諭)
 日本列島の公害原点・四日市へ回帰・・・、四日市公害との関わり・・・。
 私にとっての四日市・・・。

 参加者は、資料・会場費として、1人1回100円。(講師には無料奉仕してもらった)
 参加者は、40人定員の会場に、いつも60人余。市外(名古屋・稲沢・豊橋・津など)からの参加者が過半数。学生、労働者、教師、新聞記者、弁護士、主婦、公害患者といった人たち。
 磯津でやっていた市民学校は、この第二期と名付けた市民学杖で第一期と、あとから名付けられることとなった。
 第一期は、発想と異なり、磯津の人たち(被害者)の勉強の場となり、行動する場となった。
 第二期は、発想通り、被害者の人たちと連携して反公害の挙動をおこす勉強の場であり、行動の場となる。自称“助っ人”教室となった。
 市民学校に参加した人たちの何人かは、その後も、月2回開催される市民兵例会に参加した市民兵である。その市民兵は誰にそうせいと言われるわけでもなく、議論し、自分の行動を決めて実技したことを次の例会にもち出すとか、月刊ミニコミの「公害トマレ」を患者宅へ届けることをそれぞれが行っており、患者さんの病状、公害の状況などを開いてくれることもしていた。吉村さんも、河原田地区30人はどの公害患者宅を毎月訪問していた。患者さんの方は、吉村さんが大学の先生だとは知らず「毎月パンフを届けにきて、いろいろ話を聞かせてくれたり、開いてくれたり、とても親切なひとがいる」と感謝していた。
 こうしたことのなかで、磯津での二次訴訟準備、反公害磯津寺子屋、橋北地区での第2コンビナートヘむけての青空要求、河原田地区での三菱油化河原田工場進出反対・・・などなど、政見や労組既成反公害団体がなしえなかった運動に助力していった。
 だがこれらの運動は、市民兵たちが“助っ人”、ときには運動の主体となったといっていいものであったが、“黒衣”としてやったことなのであまり知られていない。四日市でたった一つコンビナートの進出を阻止した三菱油化河原田工場反対は、住民運動の成果としてではなく、政党、労組、反公害団体が阻止させたことになっている。(判決後、三菱油化がそれら支援団体にあてた誓約書に、「白紙撤回します」と書いている。)

二次訴訟・反公害磯津寺子屋


 1971年7月10日、訴畝原告で最年少の瀬尾宮子さん(38)が塩浜病院でぜんそく発作で亡くなった。
 葬儀のあと瀬尾さんは、磯津公民飴前の墓場で火葬にふされた。市民兵たちは、訴訟弁護団事務局長の野呂汎さんなどと、火葬の煙の舞いこむ公民館のなかで、亡くなった瀬尾さんについて話をしていたが、瀬尾さんの死を無駄にしないためにも、この磯津で反公害の輪をひろげなければ・・・9人の原告だけでなく、磯津全体の100人の原告による二次訴訟をおこさなきゃあということにもなった。
 この頃には、公害裁判でコンビナートに勝てると思うようになっていたが、子どもが患者の母親たちは、「裁判で勝って損害賠償のお金をもらうようになっても、空気がきれいにならなければ子どもは救われない」と言っていた。「カネではない、青空をとりもどす裁判をしたい」というねがいとがあいまって、子どもが患者の母親たちが二次訴訟を準備する中心になっていた。
 ここでも市民兵たちは、毎月「公害トマレ」を患者宅へ配付したり、全戸にビラ配付にまわるなどで、公害認定患者名簿(なまえ、病名、発病、認定時期なと)をつくりあげており、原告団名簿もそれによって作製した。
 一次訴訟は、9名という磯津の患者の一割という少数であったり、入院患者ということもあって原告患者不在、支援団体の代理戦争などとも言われたりしていたが、二次訴訟は原告患者が名実ともに中心となってやらなければならない。そのためには、公害に強くなるべんきょうをしようとなった。
 8月には、100人ほどの患者(親権者を含め)が原告になる決意をかためた。半数近くは“ちびつこ原告”である。磯津は漁師町で、陸のことは母親がとりしきることになりがちでもあり、100人の原告団を支えるのは母親たちということになる。
10月1日の夜、磯津公民館で、中心となる母親7人と「反公害・磯津寺子屋」と名付けたべんきょう会に協力すると申し出た、吉村さんや坂崎さんなどの小学校の先生、学生などの市民兵で、寺子屋のやり方についての相談をした結果、およそ次のようになった。

1.寺子屋でべんきょうするしかたとしては
    イ.母親と子どもがいっしょに
    ロ.子どもたちだけで
    ハ.母親たちだけで
  の3つのやり方をしていく。
2.内容としては、授業一本やりでなく、子どものほかに母親も生活綴り方を書き、それをもとに話し合う、考えあう、なにかをやっていくようにする。
 それは毎回、学校のこと、公害や裁判のこと、くらしのことなど、テーマをきめてはなし、聞いたりする。
3.場所は、磯津公民館を主会場に、算数とか国語とかの基礎学力をつける子どもの勉強のときには、個人宅でやったりする。

 3項については、教師市民兵も学生も「習い屋絶対反対」と言い張っていたが、「夜中に発作をおこして力を使いはたし、あくる朝はグッタリしているうちの子に、それでも学校へ行けとはよう言わんし、行ってもべんきょうにならん。みんなよりおくれるのはわかっている・・・じゃあ、どうしたらいい・・・」とせまられ、一般的に言われている塾なんか行かなくても学校で勉強すればいいということは、公害病で苦しむ子どもをもつ母親には通らない。ついには、学生が交代で勉強をみることになった。反対の急先峰であった岐阜大の学生は、ことのほか熱心に子どもたちの勉強の相手をしてくれた。その彼は、卒業後、高校教師となり生徒たちに大変親われていたが、3年ほど前ガンで若くして亡くなった。
(反公害・磯津寺子屋『かわら版』準備号1971年10月)
 公害裁判はなんとしても勝たなければなりません。
 裁判に勝つだけでなく、公害をなくさなければなりません。
 公害裁判勝利・公害源撤去のためには、べんきょうしなければなりません。みんながほんとうに団結していかなければなりません。
 だからといって、号令されてやるとか、しかたなしにやるのではホンモノになりません。
 それと、たんに、教える、教えられるということだけのものではなく、おたがいにみんなで話しあう、聞く、綴り方を書く、みんなが生徒であり、先生でもある、そんな勉強会にしたい。
 もう一つは、いつも母親が子どもを叱る、教えるということだけではなく、子どもの正直な、するどい見方や考え方に、逆に教えられる、あるいは子どもの言い分にも耳をかす、そういったべんきょうができたらと思います。
“寺子屋”というのは、古いことばですが、なにかあたたかな素朴な感じがします。
 この後母親たちは、寺子屋で集まって、さあべんきょうしましょうということではなく、“公害から子どもを守る塩浜母の会”として、公害ぜんそく児童の養護学校設立要求で対県交渉にでかけたり、名古屋での弁護団会議に出かけての、二次訴訟提起、代理人依頼、対策会議参加、結審集会への参加などなど、実技をしながらのへんきょうにはげんでいった。
 子どもたちは、各週の日曜日に開く子ども寺子屋によろこんで出席、教師市民兵と名大教育学部の女子学生2名などが、30名ほどの子ども相手にゲームをする。綴り方を書いてそれで原紙きりして印刷するなど、発作を忘れてしまったかのように元気にふるまっていた。磯津の町のなかでそうした子どもたちに会うと「あっ、寺子屋のおっちゃんだ・・」と声をかけられたりであった。
 二次訴訟のための資料づくりでは、そのときどきに名大から大勢の参加で、深夜にわたって、市内のあちらこちらで風向、風速などの気象調査とか、公害患者を訪ねての聞きとり調査を行うなどしたが、コンビナートの施設調査では、工学部の学生と県公害局へ行って局長と交渉、弁護団の施設班弁護士をして「これだけのデータがあれば、二次訴訟は十分やっていける。一次でも使いたいくらい・・・」だと認めてくれたが、その学生は卒業することなく県の上級試験にパス、地方公務員となった。
 こうした助っ人市民兵と母親たちの“金じゃない青空だ”という「公害発生源撤法・訴訟拡大」の運動は着実に進んでいくかに見えたが、1972年7月24日の“原告患者側勝訴判決”直後、「二次訴訟ではなく直接交渉で」となった。中心となった母親たち、市民兵の知らないところで決まった。
 企業側にしてみれば、「一次訴訟判決で敗れ、その上、金じゃない青空だという訴訟、しかもこんどは原告が前面で中心になって発生源対策をやられてはたまったものではない」ということがあってだろうし、患者弁護団は「子どもの因果関係証明はむつかしい、医学証人となる学者もいない。とにかく訴訟は勝ったその成果のうえで直接交渉にのぞめばいい」支援団体は、「われわれの知らないうちに、あずかりしないところで、しかも市民兵が助力してきた、そんな訴談は必要ない」と思ってのことで、対市民兵ということではセクトの違いをのりこえ政党・労組は手を結んでいた。
 二次交渉はこうして、中心となった母親が疎外されるなか、その年の11月30日、発生源対策は入らずじまいの補償協定書を締結して終わったが、中心となった母親たちはだからといって反公害から手を引いたわではない。

第2コンビナートへの青空要求

 第1コンビナートに隣接する磯津と同じ位置にあるのが、第2コンビナートでいえば橋北地区となる。
 橋北地区を担当している市民兵から、橋北患者の会として第2コンビナートに対しての“青空回復要求”の声が出て、協力してほしいと言われていると、市民兵例会で話が出たのは1972年になってからである。
 ここも毎月、ミニコミ「公害トマレ」の配付で患者宅を訪れており、ときにはビラ配付を全戸対象で行うなど、市民兵の何人かは地区に精通していた。
 橋北地区公害認定患者の会の会長は、在日韓国人の原田さんで、日本人の奥さんが子ども相手の駄菓子屋をしていた。
 橋北では、患者同志の仲間つなぎのためもあり、全体(100人はど)や、4〜5人の少数によるべんきょう会を数多く開いた。
 ここでも吉村さんが中心になってやる一方で、名大医学部の助手をしている田中さんが、患者が病院からもらっている薬を集め、薬の成分、効能、のんだほうがいい、のまないほうがいいなど、これも少人数を対象に薬のサンプルを持ってべんきょう会をやった。
 市民兵たちは、運動の主体は患者さん、われわれは陰の助っ人だということで徹底してやっていくようにした。幸いだったのは、支援団体が来なかったから、思いどうりにやっていけた。
 要求は、患者個々から日頃思っていること「ぜんそく発作がでないような空気にしてくれ」「どの方角から出る悪臭をとめてくれ」など、身近なものを「要求書」にまとめ、大協石油、協和油化、中電四日市火力の3杜に提出にいった。その中で中電のみは要求書を受け取ろうとせず、「亜硫酸ガスは出しているが、公害は出していない。」と所長が開きなおり、「マッチ1本からどれだけの亜硫酸ガスがでているか知っていますか」とおっかぶせてきた。患者たちは、マッチ1本までのべんきょうはしていない、グッとつまったが、べんさょうを積み重ねておれば、こういうときに力になるもので「それでは、火力の120メートルの煙突からはマッチ何万本の亜硫酸ガスが出ているか、それを先ず言って下さい」と言い返したら、「もうその話はやめにしましょう」と言いだす始末だった。大見得をきった所長は、明くる日の新聞にデカデカと「・・・公害は出していない」の見出しの記事を書かれ、要求書をすなおに受け取ったが、2〜3日後には転勤の浮き目にあっていた。
 要求書を出したあとは、3社との直接交渉をいつやるかとなっていった。
 市民兵たちは、交渉は患者自身でこそやらなければならんと、判決後、月2回、磯津公民館でやられている、弁護団、支援団体依存の交渉を、こうならないようにと見学のために案内した。
 3社は、地元の患者たちだけに無視するわけにもいかず、市役所の橋北出張所の会議室(30名はどの部屋)でを条件に交渉に応じた。市民兵は3〜4人入っていたが、発言はしなかった。患者さんたちの発言・要求は、毎日公害で痛めつけられているだけに具体的だし、べんきょう会での成果もあり、火力発電所については、「同じ中電の三重火力とこちらで使う重油の硫黄分は何パーセントですか」中電は「わかりません」の逃げの一手。「わからんことはないでしょう。三重はコンマ以下なのに、四日市は1・7、どうしてこんなに違うんですか、裁判になって負けないことにはコンマ以下の重油を使わないんですか」と、これは助産婦をしているおばあさんの発言。
 こんなことで、3社は以後、交渉に応じなくなり、患者の会は「交渉に応じよ」などと書いた横幕を持って再三、工場へ交渉にいった。そんなときには出発前に吉村さんが、交渉のやり方などについて助言をした。
 ここまではよかった。ここでも、支援団体から横ヤリが入った。社共両党の幹部が、四日市公害患者の会会長の山崎心月さんたち役員のほか、弁義団の役員も同行、橋北地区公害患者の主だった人たちを集めた席で、「橋北だけで勝手に交渉をやるな。そんな統一を乱すようなことをするんだったら、こんごいっさい支援はしない。名大の吉村先生ってどんな人か知ってやってるのか・・・」と吉村さんを名ざしで非難。山崎さんは「いまは工場の方も相手になっとるけど、そのうちうまく行かなくなったら、名古屋大学の学生が大挙してヘルメットをかぶりゲバ棒を持って工場へあばれこむがそれでもいいのか・・・」という始末。
 吉村さんはあまり発言しようとはせず、橋北の患者さんたちの意志を見守るふうであったが、私はあまりのことに机をたたいて「いいかげんにしなさい・・・」とどなってしまった。
 ずっと耐えて偉い人たちの言うことを聞いていた患者さんたちは檄昂することもなく、「橋北の公害について一番よく知っている私たちが会社に対して、こういう公害をなくしてほしいって要求したり交渉したりするのが、なんで皆さんの気に入らんのかわかりません。それと、吉村先生と学生さんたちの市民兵のことをあれこれ言いますけど、わたしらはいろいろ教えてもらってるだけであれこれせえいって命令されてやっているわけではありません。信頼していますから、これからもいっしょにやっていきます。それから、自分たちだけで補償要求をやって金をもらうんではないかと思っているかもしれませんが、私たちは青空要求をしているだけで、金銭要求はしていません・・・」と口々に言っていた。
 同行してこられた人のなかには、事前に聞かされていたことと実際が違うとわかった人もいて、途中でふんいきがかわり、青空要求はやめることはないということになった。
 こうしたことで、やむなく工場側、とりわけ中心の大協石油は、このまま交渉に応じないと橋北の患者たちは訴訟にむけてのべんきょう会もはじめたし、吉村助教授と市民兵たちをだまらせる手はみつからないということもあり、大協石油が各社にはたらきかけ、公害対策協力財団設立に精を出していった。“金でカタをつける”企業の論理である。

三菱油化河原出工場進出反対

 磯津で二次訴訟にむけての運動をしている1971年冬、鈴鹿川の上流となる内部川が流れる河原田地区で、三菱油化が、川尻工場の対岸にある農地を買収、30万トンエチレンの大工場建設を計画、地区の自治会長を抱きこみ、200人の地権者のほとんどの売却同意書に署名捺印させていた。明らかに、反対の意志を表明したのは2人だけ。そのうちの1人が新聞社の支局を訪ね、協力してくれる団体を紹介してほしいと依頼した。相手になったのは、市民兵記者であったこともあり市民兵の会へ案内してきた。吉村・澤井で会い、助っ人することとしたが、これは勝てないと思った。
 助っ人するについては、「在所の人にとって必要なことは、煽動ではない、要点をおさえた資料と情報である」「在所の人たちは、指導を求めているのではない、支援を必要としているだけであり、在所の人たちがおそれているのは、たたかうことではなく、ひきまわされ政治の道具にされることである」などの心得を話し合い、助っ人は、表に出ないで、純粋な住民運動としていこうということにした。
 先ずてはじめは、「ビラは信用しない」というので、油化進出の記事の載っていた新聞を買い集め、名大の学生たちに応援を頼み、600部ほどを地区に配付する、そのさい油化進出について、話しあってくることとし、賛成、反対の色分けをした。反対派の連携はそこからはじまり、輪をひろげていった。
 一方、ここでも「公害教室」をやって理解を深めようと、河原田地区は吉村さんが毎月「公害トマレ」を持って患者宅を訪問していたので、吉村さんが、四日市患者の会の山崎会長・塚田事務局長を案内して患者宅を廻った。
 また、6部落での公害教室は、吉村さんが用意したスライドを地元の中心メンバーが上映しながら反対を訴え、ついには、売却同意書の撤回を求める地権者の数が増えていった。
 いまのうちは絶対に反対派が不利、だけど優勢になったら政党や団体から共闘したいと言ってくるだろうから、そのときには感謝し、後日お願いにいくと言って手出しせんようにしてもらおうとはなしていたが、現実に有利になったら政党の人がきたので打ちあわせ通りにしたと、笑っていた。
 四日市で工場誘致がはかられ、地域住民がいくら反対しても成功しなかったが、ここだけは阻止に成功した。三菱油化の社長が、1972年6月1日、三重県知事に「断念」を伝えたが新聞報道だけ。
 しかし、7月24日の判決後、支援団体が東京本社で“控訴断念”を交渉したさいに獲得した「誓約書」には、控訴はしませんのほかに、河原田工場進出は白紙撤回しますと書かれている。実際に運動した住民運動にはそうした証拠の書き付けはない。歴史は、支援団体がたたかって勝利をおさめたことになる。
 ともかく、地域住民は、公害工場の進出を阻止したことで目的を達し、やれば勝てると自信をもった。
 それから何年かして、問題の土地の一角に、魚のあら処理場の建設を全政党の賛成で、県・市が建設を計画したとき、中心だった人から「油化反対で信用をえたから、こんどは表で助っ人してもらえますから」と、助力を頼まれた。
 このときも、しんどいなと思った。四日市以外からも助力を頼まれ、北海道から九州まで足をのばしていた多忙の吉村さんもこれに関わり、表面でということであったが、助っ人の分をわきまえながら助力、これも、県・市に建設を断念させた。

吉村さん東京へ、澤井廃業宣言?

 助っ人を自認しての市民兵の運動は、支援団体とはまったく異なる流儀で、理解されないことであったり、黒衣につとめたこともあり、以上述べたことのほかに住民運動への助力はいろいろとあるが、市民兵はついに主役になることもなく、学生市民兵は四日市から姿を消していった。なかには医者となって四日市で家を構え、公害患者を診察する者もいたし、教育学部の女子学生は工学部の学生と一緒になり、卒業することなく、子ども共々ヤマギシの実顕地へ移り住む者もいた。
 判決20年目の1992年3月、吉村さんは名大を退め、東京理科大学へ行くことになり、公害訴訟弁護団事務局長の野呂弁義士などの呼びかけで、名古屋の私学会館で送別の集いがあった。
 私はその日いつもは近鉄で行くのに、JRで行った。近鉄と違って空いていた。吉村さんが東京へ行ってしまうことについて「公害の澤井」だとか言われいるが、なんのことはない、吉村さんという強い後楯があっての“助っ人”であったわけだし、その後楯がなくなっては、もう助っ人もできないと真剣にそう思った。これで助っ人は廃業しなければと思った。
 会場には、吉村さんが関わった各地の人たち、学者仲間、弁護士など多彩な顔ぶれで、それぞれ功績をたたえ名残りを惜しんでいた。
 私にもスピーチをするようにと指名され、汽車の中で思ったことを述べた。
 「先程から皆さん、吉村先生ということで言われています。私は吉村さんとはもう20年余のおつきあいですが、吉村さんと呼んでも、吉村先生とお呼びしたことがありません。だけど過去20年余の間、吉村さんが居てこそ私もなんとかやってこれたし、公害で苦しむ住民・患者の人たちのよき助言者であったことを考えると、吉村さんが居なくなってはどうしようもないので、助っ人廃業宣言をしようかと思いながら来ました。それにつけても、吉村さんと呼んできましたが吉村さんこそ本当に吉村先生と呼んでいい人だなと、今しみじみ思っています。」
 正直言って、吉村さんが東京へ行ったあと、気が抜けたようになっていたが、ある公害患者に「わしらを利用して、公害で有名になった人がようけ居るが、そういう衆はいまどうしているんやな。わしらは利用されたおかげで、公害裁判にも勝てたし、公害もようなってきたでありがたいと思っとる。そやけどやで、公害認定制度を廃止するとか、塩浜病院をなくしてしまうとか、わしらが本当に困ってたときに、誰か運動してくれた人が居るか。もうわしらは利用価値がないで知らんっていうわけか。いまでは、わしらを利用して有名になった人が、わしらを苦しめる反対側の人に利用されて居る人も居るが、どうなっとんのや・・。」
 と言われ、そのことがいつも頭からはなれていないし、声をかけられれば員弁の住民運動にもでかけ、県外からバスで小学校5年生が公害の学習にくれば案内もしと、助っ人はやめるわけにはいかないでいる。
 私は、平成5年度後期、「戦後社会教育実践論」で非常勤講師として、四日市紡績工場での生活記録運動と、公害を記録する運動についての語りべをした。そのことが新聞に出たことから、ある大学の学生が、その患者さんを訪ねて行ったとき、「この頃では、澤井さんまでが名古屋大学の先生をしとるっていうやないか」と言ったそうである。
 四大公害訴訟で、一審のとき患者側で貢献された学者、指導者といった人たちが、その後、立場をかえる人が出てきたりで、患者さんたちの見る目はきびしいものがある。
 私も「公害で有名になった人」の一人であり、“公害を克服した”などと言ってのけず、こんごとも“助っ人”“黒衣”の流儀でやり通したいと思っている。

1996年1月31日