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四日市ぜんそく
四日市公害裁判
記録「公害」
小5授業実践
論文

昭石のプラント増設と運転開始

はじめに

 “公害をくりかえさない”は、公害発生源をして、公害物質を排出させないだけではない。
 反公害市民運動のありよう、なにがあったのかの検証もなくてはならない。
 検証すべきことは数多くある。ここでは、公害裁判中と、判決後にあった不可解な昭石のプラント増設と運転開始についての経過を記録にとどめておきたい。
@ いかにして昭石はプラント増設をしたのか。
A この増設について、市民運動はあったのか。
B 勝訴判決後の本社交渉で、昭石は自ら「住民の了解なしには運転を開始しません」との1項をすすんで「誓約書」に記載したのはなぜか。
C このことについて、反公害運動の幹部や政治家はどう動いたのか。学者は、行政はどう動いたのか。
D 公害激甚地の磯津現地は、どう対処したのか。正と負はどうからまっていったのか。

プラント増設計画と反対

 公害が激化する一方なのに、工場も行政も無策で、市民がやられっばなしなのに、コンビナートは利潤追求で、甚大被害の市民を無視、公害発生源の拡大をめざしていた。四日市にある昭和四日市石油と大協石油(現コスモ石油)は、ともに増設を計画、当時、許認可権をにぎる通産省の「石油審議会」に申請することを新聞で知った。
 1969年(昭和49年)7月は公害裁判の最中で、6月26日の第17回口頭弁論で、原告患者側の吉田克巳証人が「排煙に含まれる亜硫酸ガスによってぜんそく患者が発生した」などの証言をくりかえしていた時期である。

 この増設計画に、磯津と橋北は無関心ではいられない。
 磯津では、公害患者の会が行動をおこした。そうした動きを追ってみる。

1969年(昭和49年)7月27日 「日本経済新聞」に、昭和石油は、西日本進出を計画中だが、本年の石油審議会へは新設申請せず、シェルグループとして昭和四日市石油の増設を申請するとの記事が載っていた。
8月19日「サンケイ新聞」にも 昭和四日市石曲は、低硫黄重油生産と、石油化学原料ナフサ確保のため、増設を申請。計画は、総工費250億円で、日産18万バーレルの石油蒸留装置を増設するとともに、現在の同装置を日産18万バーレルから30万バーレルヘと改造する。また現在の間接脱硫装置を拡張、6万〜7万バーレルの脱硫重油(硫黄分12〜17%)を生産するとの記事が出ていた。
9月10日 公害を記録する会が、昭石・大協のプラント増設と、磯津隣接の楠町小倉に昭石が、11万キロの原油タンクを7基建設するとの『通信』NO4、800部を、磯津各戸と、残部を支援団体などに配布した。
10月16日 磯津公民館で開催していた「第1期公害市民学校」は、この日、磯津地区公害認定患者の会の総会をかねて行い、両社の増設反対と、楠町での昭石原油タンク建設反対を決議、昭和石油と大協石油の社長、通産大臣、石油審議会会長、四日市市長、三重郡楠町長、三重県知事に提出を決めた。
10月19日 磯津公民館で磯津婦人会主催の「戦没者慰霊祭」に僧侶として招かれた、山崎心月さん(四日市公害認定患者の会会長)が、極楽浄土のお説教ではなく、公害反対、建設・増設反対を、自治会長を先頭に、町をあげて取り組めとのお説教をした。
 このお説教には、先日、南中学校で開かれた南部ブロック自治会長会議終了後、三菱油化が、磯津を含む塩浜地区自治会長を自社の車に乗せ、油化クラブでご馳走したことの批判もふくんでのお説教でもあった。
10月20日 磯津患者会会長の加藤光一さんと水谷吉之助さんなどが、東西南北4町の自治会長を訪ね、磯津全体(750戸ほど)で反対署名をするよう申し入れた。山崎説教が耳に入っていたが、署名用紙を回すことを承諾した。その一方で、自治会長トップの石田末樹南町自治会長が「一晩待ってくれ」と言うので待つことにした。
10月21日 一晩待ってくれと言った石田自治会長の返事は次のことであった。「昭石さんへ相談こ行ったところ、こんな事を言っていた、どうするや…」
 増設反対署名と公害裁判の応援をしないと約束すれば、昭石が責任をもって次のことをやる。
 @昭石が磯津に保育所をつくる。
 Aこんどの国会で、公害患者の医療救済法案を通過させる。
 B増設についての説明をするから、患者会と話し合える場を作ってほしい。その席には市の衛生部長を同席させる。
 C反対署名をやめたら、自治会長に金を渡す。
 自治会長は、「昭石から金を貰ったら、雨が降ると水浸しになるので、排水ポンプを買いたい」と言った。市は、公害激甚地であるのに、木一本植えることもせず見捨てている。四日市本土では公害遮断緑地をつくり植樹をしている。自治会長の思いは分からんでもない。患者会で話し合うことにした。

10月22日 自治会長がもってきた昭石の申し入れについて、患者会で話し合った。
@反対署名をやると約束した自治会長が、相手側の昭石へ相談に行くとは何事か。
A国会を通過させるとか、市の衛生部長を立ち会わせるとかの昭石の態度・おごりは理解に苦しむ。
B保育所を作るのは市がやることで、しかも保育所をつくれの請願は市議会で採択されている。
C増設の説明を聞いたところでなんにもならん。公害については知らん顔。裁判では公害は出してはいません、ぜんそく患者がいることは知っているが当社には責任はないと言っている会社が、増設ではこのように亜硫酸ガスを低くしますと計算した数字をならべて公害の心配はないと言うのは理屈に合わない。
D患者会と話し合いたいと言うのならば、前提として、公害・ぜんそくを発生させた謝罪と償いをすべきだ、それが誠意というものだ。口先だけで言っても信用で きない。

 以上の討議から、自治会長がもってきた昭石の申し入れは拒否することに決め、自治会長代表に伝え、署名の趣旨と反対項自棄を見てもらい、案どおりでいいことになり、後日署名用紙を持参、全戸対象の署名活動実施することになった。
10月26日 磯津患者会会長の加藤光一さんが、「悪臭がしてどうにもならん」と市の公害対策課へ電話したら、公害対策課の職員と昭石の鍛冶谷渉外係長代理ほか4人がやって来た。「こういうときでないと加藤さんの所へ来られないから…」と増設の話をはじめた。「増設が実現したら、地元へ寄付金を出すから…」、加藤さんは「ここへ来てそんな話をすると誤解をうける、話し合うこともないから帰って欲しい」ととりあわなかったら、帰り際に「増設について、亜硫酸ガス濃度などの数字を検討して反対しているのか…」などと開き直っていた。
 大協石油の増設については、大協は戦前からあった会社で、地元対策がとられ ていて、このときも自治会長の増設同意をとっていた。住民説明会などはなく、自治会長も住民に相談するとか、報告するとかはないままである。コンビナートも行政も、地元の了解は住民とか自治会ではなく、自治会長でしかない。
10月30日 四日市市都市公害対策委員会で、市が、議会にも住民にも相談することなく「公害防止協定を企業と結んだこと、昭石の公害防止計画がズサンなことについて論議されたが、白紙こ戻せということにもならずに終わった。
11月1日 公害訴訟を支持する会は、増設問題こついての態度決定をしていないが、この日に撒かれたビラには「患者の会の増設反対につづこう」といったことが書かれていた。
11月4日 石油審議会が開かれ、昭石は(申請12万バーレル)8万、大協は(申請10万バーレル)5万の許可が決まった。
 この日、地区労幹事会があり、両社の労組は、労使で「増設を認める、公害を少なくする」といった内容の協定を結んでいることを発言。会議では「公害を少なくすると言っている以上、それを信用すべきだ」とした。
 公害裁判のさなかで、公害防止対策がすすまない、公害患者の増大と、あおぞら回帰の展望がひらかれないなか、磯津患者会と住民、四日市患者会役員のみの反対運動がなされただけで敗北した。
 とはいえ、この増設反対運動は、カネで屈することなく進めた成果が、判決後の原告患者側こよる本社交渉で、昭石は磯津の抵抗に苦しんだことがあり、支援団体が知らなくても、判決時に完成していた8万バーレル(最初は2万とごまかしていた)の「増設プラントの運転は、住民の諒解なしにはいたしません」と「誓約書」に書かざるをえなかったわけで、完全敗北ではなかった。

 しかし、内なる陣営の、政治家や学者の言動、「判決を尊重する」とのべた首長の手練手管で、石油審議会に、磯津患者会と自治会による「反対署名」を提出してから3年後の10月(1972年)、「誓約書」は守られること無く、運転が開始された。この策謀に手を貸した人たちのありようを記録しなければならない。

昭和四日市石油四日市製油所の
8万バーレルプラントの運転開始

1972年(昭和47年)
9月1日 磯津の公害患者100名ほどが、二次訴訟をおこすべく弁護団に「委任状」を提出、その日にそなえ活動をしていたが、判決直後、訴訟ではなく直接交渉となり、この日、磯津公民館で、六社と患者側の交渉が始まり、患者側は補償と公害発生源対策を要求した。当初の患者・遺族は121人(5億7585万円を要求)
 人数は10月現在までを加え最終140人の患者・遺族となった。交渉は妥結までは月1日と15日、磯津公民館でとなっていたが、2回目こ金額回答が出たところで、患者のなかで早く金がほしいといったのを、六杜がその足元をみ、磯津へ出てこなくなった。(10月15日以降)

10月13日 昭石の増設プラントの運転開始問題をめぐり、誰が集める段取りをつけたのか、この日、磯津公民館に患者側の弁護士、支援者たちが集まり、昭石の増設プラント運転開始について、三重県知事と衛生部長、四日市市長、それに昭和石油の総務部長、急遽シェル本部に派遣されていたのを敗訴で呼び戻された鶴巻工務部長などが座り机の向こう側に座っていた。吉田克巳氏は被害者側で弁護士などとおしゃべりをしていた。「吉田先生、時間がきたので、これから始めます、こちらの席にすわってください」と誘われ、加害者側の席についた。なんであっちへ行くのかと、みんなあっけにとられた。
 知事が「これから、プラントを運転しても磯津になんの被害を与えないことを説明してもらいますので、よく聞いてください」と口火を切り、吉田氏は数字を使い得意気に長々と安全説明とやらをやった。知事は「角をためて牛を殺すようなことをしないようにしてほしい」とも言った。
 吉田氏の話で、「わかりました、運転開始を諒解します」と、誰も言わずに終わった。
 実は、これ以前に、こうした場をもつ段取りが、知事と、ある人、それと昭石の部長などによって謀られていた。

 この磯津説明会の日までに、10月10日、前川辰男氏(社市議−1967年4月の選挙で落選中)が市の三輪市長公室長を伴って三重県庁で田中覚知事に会い、「昭石の8万バーレルプラント操業開始のゴーサインを出すように…」と迫った。知事は「誓約書に住民の諒解でとある以上それはできない」と断った。そこで、前川氏は「吉田(克巳)先生を呼んでくれ」と言い、場所を変え、吉田氏(三重県公害センター所長・三重県立医学部教授)に、運転を始めても大気汚染に悪影響はないなどを語らせた。
 公害裁判を仕掛けた被害者側の最大の功労者である前川氏が、加害者側の助っ人に早変わりしたわけで、そこになにがあったのか、落選後、協和発酵会長の息子が社長の「ミヤコ化学に迎えられた」からということだけでは納得しえないものがある。
 このことがあって、被害者側の学者先生(公害裁判での証人)をたて、説明させることによって、住民の諒解をとりつけようと、10月13日の磯津説明会になった。
 住民説得の立役者「吉田克巳三重県立医学部教授」に問われること
県立大学であるから、二足のわらじ、県公害センター所長もかねられ、県知事の命令指揮下にあり、知事の命に従って住民説得こ一役をかうことはわかるが、この問題は、被害者と加害者側がするどく対立している問題である。学者の良心に恥じることはないのだろうか。しかも、吉田教授は、被害者住民に対し、もっぱら化学と数字をあげ、住民感情に思いをよせることなく長々とおしやべりした。

 磯津の公害患者と住民にとって、一番知りたい、信じたいのは、なんでもカネですまそうとする企業の体質が、「米本判決を尊重します」とそれまでの加害行為を反省した昭石が本当にあらたまったあかしがあれば、「プラントを運転したら汚染はかえって減ります」と強調する昭石と吉田教授の数字(操業が増えるのに減るなんて考えられないが)以前に被害者側は諒解・納得する、そうした住民感情を逆なでする学者は企業・行政の御用学者としか言いようがない。

 一方、こんな詰も聞こえてきた。昭石が、総評国民運動部長に会って、「運転を開始するが、反対運動をしないでほしい。退職後の面倒は昭石がもつ・・・」と頼み込んだというのである。ありうる話である。
 もしこの事実が本当だとしたら、誰が総評対策をだんどりしたのかである。石油労組は総評加盟ではなく中立労連加盟である。総評に顔が利く人の仲立ちがあったはず、それは誰かである。
 こうした経過、布石があり、どういう形で、終止符をうち、運転を開始するか、それは、ある日、現地と支援団体の意表をついて幕が降ろされた。

10月18日 磯津在住の福田香史市議(社)と、磯津患者会の加藤光一会長が、子どもが患者で二次訴訟原告団結成の中心となった母親3人に、理由も告げず「今から県庁へ行って知事に会うから車(福田運転)に乗れ・・・」と誘い、知事に会った。
「自治会長、支持する会、弁護団に連絡もせず、ナマの声を伝えに来た」と言い、「昭石の増設稼動をいつまでも反対する気はない、すでに設備ができているのだから、このことを昭石につたえよ」が主眼で、県、会社、住民の三者協定を結んでほしいとか、実力で企業撤去を求める気はないなどについて、知事に申し入れた。
 「県庁へ行った」とある母親の家族に聞いたので、帰ってきたとき、「なにしに行ったのか」と開いたら「それが、ようわからんのよ、車に乗れって言われて、県庁へ行き、知事さんに会った、福田さんと加藤さんが知事さんにいろいろ話していた、昭石の運転開始でも、磯津に悪い影響がないことを知事は約束できるかなんかを言っていたけどな‥」それを聞いて、やりおったなと覚った。加藤さんの所へ行ったら、萩原さん(共・県叢)が来た、磯津の代表が知事に会って、昭石の稼動を認めたって県が言っているが、どういうことですか」加藤さんは、それを聞くなり奥へ引っ込んでしまった。
 主役を演じた福田氏は一年生議員で、知事会見を単独でセットする力はない、誰がお膳立てしたか、例の人しか浮かばない。

 こうした行為は、昭石を含む六社との直接交渉のさなかでもあり、当然このあと、六社は磯津公民館での交渉に出なくなった。昭石だけは、元労組委員長で総務課長になっていた亀山氏一人が出てきて、出席できない断りをしていた。
 原告団にも、患者会、自治会、支持する会(前川代表、福田運営委員)、弁護団 にも相談することなく、“住民側が諒解した”とする既成事実をつくったことになり(それがねらいの知事会見)、昭石は次なる手をうってきた

10月21日 昭石が四日市市政記者クラブへ来て、「大方の住民の諒解をえましたので、増設プラントの操業を開始します。」と発表した。昭石の「誓約書」のあて先である、原告団・弁護団・支持する会などに、なんの話、諒解とりもないままである。
 一部の幹部とはいえ、こうした裏切りは結局自分達にはねかえってくるわけで、直接交渉はもたれぬまま、11月30日、“カネが欲しくば、六社がセットした近鉄四日市駅前の農協会館の8階大会議室での協定書調印式に出てくるように”完全に六社ペースで終息されてしまった。やはり、カネでかたをつける企業の本質は見事に成功したわけで、加害者と被害者の力関係は、「米本判決」という被害者側にとっての最大の武器を錆びつかせてしまった。
 これだけではなく、四日市反公害市民運動で、あってはならない負の行為がなされている。その負の行為は、ほんの一部の幹部によってであるが、幹部故に、加害者側にも、被害者側にも影響は大きいだけに、“二度とおこさせない”関心を市民運動のなかでもちつづけなくてはならないのだと思う。

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