四日市公害の史資料と活用こついて
1、2005年1月、四日市市公害学習センターのなかに、面積90平方メートルの「四日市公害資料室」がつくられ、1997年の四日市市制100周年を記念して編さんされた『四日市市史』全20巻のさいに収集された史資料のうち、公害関係をここへ移した。それと、前年の1996年の6月、四日市市と市教育委員会共催で6月から7月の1ケ月間開催された「公害の歴史展」−公害の街から環境の街へ−で使われたパネルが展示してある。そのほか、四日市市が毎日映画社に依頼して作った『証言・四日市公害』5巻(被害者・学識経験者・市民運動・企業・行政と5巻をまとめた総集編が見られるようになっている)。
残念ながら、資料室を訪れる人はほんのわずかといったところ。資料について、なにがあるか、どこにあるかなどがわかるようになっていないこともあるのかなとも思うのだが。
2、四日市では、相変わらず、公害問題が絶えることなく、ついに、昨年夏、産廃不法投棄量日本一となる市内大矢知・平津地区と、たびたび問題を起こしている石原産業四日市工場の産業廃棄物「アイアンクレー・フェロシルト」が、リサイクル商品との三重県のお墨付きで、京都・岐阜・愛知・三重に「山土と同じもの」のふれこみで、94万トンともいわれる大量産廃が、穴のあとに“埋め戻し材”や土地の嵩上げにと使われ、投棄され、そこから、放射線や六価クロム・フッ素などの危険物が検出され、リサイクル取り消し、県警に告発の騒ぎが出だした。石原は、1トン150円で売り、買った業者にトンあたり3000円〜3500円を改質加工費・開発研究費の名目で渡していた。通常の処理委託費はトン9000円といわれ、石原の利益は格段の昇りをしめした。
しかし、結局は、投棄した産廃ほ引き取ることになり、一日200台ともいわれるダンプカーで各地から工場内へ引き取り作業に追われている。各地の産廃処分場が引き取りにおおじてくれないので、一時保管場所の工場内の空き地では、フェロシルトが丘陵地帯から山岳地帯へと高く積み上げられている。
石原産業は、1972年7月、四日市ぜんそく訴訟で第一コンビナート5社と敗訴、公害発生をしないと誓約した。労組もその年の9月に開催された定期大会の運動方針は「発生源から公害を出さない」など、それまでになかった画期的なものであったが、労組委員長は工場長になり常務取締役となり各地へ出向いて頭を下げている。
石原産業は塗料の原料となる酸化チタンを製造していたが、鉱石精製に硫酸を使用したあと、海水はアルカリで中和するとして、一日20万トン、海上保安部に摘発(1969年12月)されるまでに1億トンをたれ流した。1971年2月、津検察庁によって起訴され、10年後の1980年3月、有罪判決があった。罰金8万円であった。
註 海上保安部の田尻宗昭警備救難課長のはたらきをとりあげた、NHK「海をかえせ」が、四日市市「公害係長」と、判決20年にちなんで制作された「灰色の空は消えても」の3本が、4月16日の深夜の、NHK総合テレビのアーカイブスで放送される予定になっている。
3、公害のあやまちを繰返さないために公害の事実を記録し、その史資料を役立たせる。そう思って保存と活用を考えてきた。ところが、そのことが、公害を繰返さないことに結びつかないでいる。公害資料室ではなく見て確かめられる公害資料館、博物館がほしいと思っている。そこで、コンビナート工場の従業員。新入生、同じく、市役所職員。教職員は一定の公害・環境研修を受けることにすれば、例えば、石原産業のような、儲け主義にとらわれてよからぬこと−廃液を混入する・他工場の廃液までも混入するようなことは防げるのではないか。また、市職員や教職員が関心や監視に注意をはらえば不祥事はやれなくなると思ったりである。定年退職した人たちが「俺たちが工場で働いていた頃は公害がひどくて世間で肩身のせまい思いをした、それだけに、小さなことでもこんなことをしたら公害になりはせんかと気をつけて仕事をした。それなのに、いまの若い連中は公害なんて知らないから、俺たちのときのように、公害を出さないようにしようなんていうことは気にもとめていない、このさき大丈夫かな……」と、数年前いっしょにシルバーセンターで就業していた会員が話していた。
1996年9月議会で決議した「快適環境都市宣言」で“二度と公害をおこさない決意のもと”と高らかに謳いあげた文言は消えてしまったのか。
4、「公害資料室」から「公害学習資料館」へが問われている。
二度三度と公害をくりかえさないために、そのための学習できる、関心・監視のできる施設が、いまこそ必要ではないか。
註 2006年3月18日、大阪で、青空財団の公害資料館オープンを記念したシンポジウムがあり、沢井がパネラーとして、四日市でのことについて報告したさいの原稿。
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