その日、1972年7月24日は前日の雨もあがりこの夏一番の暑さを思わせる一日で、織機とともに石川県松任町へ疎開して迎えた敗戦の日もこんな暑い日だったな、ふとそんなことも思いだしながら津地方裁判所四日市支部へ行った。
裁判所前には前日からつくられた判決報告集会用の仮設舞台と、各放送局のテントがつくられ、支援者や一般の人たちが、組合旗を持ち、ゼッケンをつけるなどした人たちにまじって磯津二次訴訟原告団のタスキをかけたおばちゃんたちも来ていた。54回の口頭弁論中見かけなかった人たちが大勢で、どこからこの人たちは来たんだろうか、傍聴者を集めるのに苦労することはなかったのに、そんなことも思ったりした。
写真を撮っていたら公害訴訟を支持する会の役員をしている共産党市議の橋本健治さんが「この傍聴券で法廷へ入ってくれませんか」と言ってきた。一週間前からの傍聴券確保の座り込みに市民兵(四日市公害と戦う市民兵の会)の学生諸君に参加してもらうべく並んでもらったら、「おまえら市民兵は来るな、人数は足りている」(不足していたのに断られたが員数外で並んだ)。そんな経緯があったので「市民兵の親玉は私ですよ、それでもいいんですか」と断った。「実は、弁護団が、判決言い渡しがあったら、傍聴席の沢井さんに指の本数で完全勝訴か、一部勝訴かのサインを送るので、それをうけて法廷外へいちはやく知らせてほしいという役目で、誰でもいいというわけにはいかないし、弁護団からの指名なんです」傍聴券を受け取って法廷へ入った。
午前9時、米本清裁判長が判決文を読み上げだした。北村利弥弁護団長が野田さんに前もって「主文、原告はってまず言ったら君らの負け、被告はって言ったら勝ち、それだけ言ってくれた、そしたら裁判長が、主文被告はって言ったので、あっ勝ったとわかった」と言ったとうり原告患者側勝訴、しかも富島照男弁護士のサインは笑った顔で5本の指、完全勝訴判決である。それを受けていち早く法廷外の支持する会に連絡した。
しばらくして、証言台に立った宮本憲一先生や、吉田克巳三重県公害センター所長(三重県立大教授)なども出てきた、とたんに新聞記者たちが宮本先生をわっと取り囲んで感想を聞きだした。吉田さんには来ない。私が「いかがでしたか」と聞いた、「いやー、すごい判決で…」と興奮気味であれこれ話してくれるが、写真撮影があるので、近くにいた記者に「吉田先生のとこにも取材に行ってよ」と声をかけ、バトンタッチ。裁判所の前にある市庁舎の屋上に上がり、裁判所前の報告集会に集まった人たちが「勝訴」ばんざいともろ手をあげて喜んでいるさまをカメラにおさめた。縦長にするとコンビナートの煙突が見える、工場に勝ったとばんざいしている向こうで、煙突からはぜんそく患者を発生させた有毒ガスの煙は変わることなく吐き出されている。なんとも言えない気分になる、これからだな問題は…。あとの仕事が待っているので煙突とばんざいを眺めてばかりはいられない。
7分冊になった判決正本を野呂汎弁護団事務局長から受け取り、賠償金差し押さえにも使うとのことで、吉村功さん(市民兵、名大工学部助教授)と近くのコピーやさんへ行ってコピーどりをした。いつものことではある。だから、はなやかな「勝訴判決報告集会」の現場に立ち会うことは出来なかった。あとで、野田さんに聞いたり、テレビでそのときの模様を見たりした。 コピー作業が終わり、裁判所前に行ったら、記者団や支援者たちにあれこれ聞かれたりしていた野田さんが、私の顔を見るなり「病院へ行ってくれんやろうか、疲れたし来れなかった藤田(一雄)さんにも報告したいで」と言うので車で病院へ向かった。車の中で、「わしな、裁判には勝ったけど、公害がなくなるわけではないので、なくなったときにありがとうと言います、つて言ったけど、それでよかったやろうか」と不安げに言った。さすが野田さんやと思った。市役所屋上で、ばんざいと変わらぬ煙を見ながら思ったもやもやが野田さんのありがとうは言えやんのあいさつをしたという話ですっきりした。「よう言ってくれた、そのとおりや…」と同意した。
もう一つ、あとでテレビを見て感心したのは、記者団に「いちばんうれしかったのはなんですか」と聞かれ「加害者は工場だと判決ではっきり言ってくれた、これからは、堂々と工場に公害をなくせと言える、それが一番うれしい」と答えていた。これまで工場がなんか悪いガスを出しているのでぜんそくになった、工場へ行って「悪いガスを出さんでくれって」言いに行くと、どの工場も「うちじゃない、うちやない」と責任逃れをした、これからはそれができなくなる、つまり、これからが本当の公害反対、青空をとりもどす運動がやっていける、支援者のみなさんがんばりましょう、ありがとうのあいさつができるようにしてくださいと、野田さんは心からのメツセージを発したわけである。
公害四日市の戦後は野田メツセージに応えての反公害でなければならなかったのに、このメツセージは支援者たちに受けいれられることなく「反公害派」は消えていき、「反動派」の台頭を許してしまった。
勝訴判決は、公害反対運動のたかまりによって獲得したと思い込んでいた支援団体が勝訴の余韻にふけっているとき「反動派」は、表だって、闇のなかで、うごめき、一つ一つ勝訴を削りとっていたが、そのことに気づかなかった。それと、支援団体は、勝訴判決確定の前に支援すべき目標をなくし公害反対は消えていった。
7月27日 中電の加藤乙三郎社長は「二次訴訟ではなく話し合いで解決したい」と表明。三菱三社は「会社側から積極的に自主交渉による救済に乗り出す考えはない」、油化は「新たな訴訟が起こるなどの段階で対処していきたい」。
7月28日 中電社長が亡くなった二人の原告患者の墓参、「四日市全体の認定患者の救済については、県と市がもっている構想の救済機関に積極的に協力したい。三重火力は低硫黄重油を使用する」などを表明。
四日市市公害認定審査会は、この月申請のあった11人を認定、886人となった。
7月29日 弁護団は会議をもち、自主交渉は9月1日に第1回の交渉を磯津公民館で開くよう申し入れる。自主交渉は補償額だけでなく公害防止対策も含める。交渉は年内終結を目標とし、六社が応じないときは年内に二次訴訟をおこすと決めた。
7月31日 原告、弁護団、患者、支援団体などの約80人が、四日市市役所で、県知事・市長に、行政責任と公害対策を追及。「これまでの公害行政が不十分だった」と頭を下げ、「月に1回、磯津公民館へ二人で出向き住民の声を聞く」などを約束。
8月17日 「公害と教育研究全国集会」の第2回が四日市で開催された。(3日間)
8月21日 原告、弁護団、直接交渉参加者、支援団体など約150人が上京、三菱三社と昭石本社で交渉をもち、先に口頭で約束した立ち入り調査自由などを文書にしろと要求、昭石については増設プラントの操業は住民の理解を得たうえでもいれた「誓約書」に調印。
8月25日 県は市に対し、公害患者救済法にもとづいて、行政が負担してきた医療費と医療手当て9人分を六社に請求するよう指示。とりあえず救済法が施行された1970年(昭和45年)2月から72年5月までの分として、医療費533万3988円、医療手当95万2000円を被告六社に請求することとなる。これまでの医療費は、財団法人公害対策協力財団が2分の1、残りを国、県、市が負担してきた。
8月29日 県知事が「企業による公害対策協力財団の設立を四日市商議所が中心になってすすめているが、9月中に発足させたい、当面公害患者の医療救済に当たることになるだろう」と記者会見で語った。
8月31日 弁護団は会議をもち、自主交渉参加者(第一次)121人、総額5億7585万円の補償要求額をきめる。未成年者300万円、成人・通院550万円 入院650万円、公害病死1000万円の4ランク。交渉費用は1割の5235万円。
9月1日 原告患者で裁判中に亡くなった瀬尾宮子さんの長女・喜代子さんは、母親の死で高校1年の1学期で中退、主婦がわりをしていたが、この日、福田香史市議(社)と秋葉三菱油化総務部長につきそわれ復学の手続きをとった。学資は油化、家政婦は化成が援助するとのこと。本人の意思に関らずの善行で、のちに問題を生じた。
9月1日 磯津公民館で夜7時より、第1回の自主交渉。六社は社長権限を持つ本社の総務部長クラスと代理人の弁護士20人ほど。患者側は自主交渉参加の患者、弁護団、支援団体など120人ほどで公民館はいっぱいの人。患者側は「判決後の公害防止を示せ、補償交渉に誠意をもってあたれ」などを要求。支持する会は「工場内の配置図、ばい煙発生施設ごとの燃料使用量と硫黄分、新増設・増設計画などの資料と公害防止対策を提出せよ」などを要求。補償要求は患者代表が読み上げて提出、回答をせまった。
9月4日 田中県知事と九鬼市長との第1回の話し合いが磯津公民館であり、支持する会が18項目からなる「緊急・抜本対策についての要求書」を提出。これに対し「塩浜と市立病院の小児科病棟に空気清浄機を設置すること」ことを約束、その他については誠意を持って対処するとし、つづいて県知事は昭石の増設プラントの運転開始について「せっかく産まれた子どもだから……、ツノをためて牛を殺すわけにはいかない…」と、操業を認めてほしいと言ったが認めなかった。司会は前川辰男支持する会代表委員がしていた。
9月5日 第2コンビナートの橋北地区でも青空回復の運動を本格化しようと、かねてから市民兵たちの助力ですすめてきた橋北地区公害認定患者の会は、この日、橋北児童館で「第3回橋北公害教室」をもった。この会合には、各党派市議や支持する会役員、四日市患者会役員、弁護団などがズラリ参加。磯津患者会の加藤光一会長から「磯津と同じように橋北もやるべきだ」といった激励もあり、話し合いの末、各町ごとに話し合い、役員を決め、学習会をもつなどを決めた。
9月9日 小山環境庁長官が来四、汚染者負担主義の原則に基づいた、健康被害者救済基金構想を発表。
9月11日 公害病で亡くなった、南君枝さん(中3)保田精一くん(小1)谷田尚子さん(小4)の追悼集会を、三重県教職員組合三四支部が催し、記念講演を吉村功さん(名大助教授)が行った。
9月11日 経団連(経営者団体連合会・植村甲午郎会長)は、正副会長会議で、環境庁の公害被害者を企業負担で救済する「公害基金」の構想を大筋で賛成するとした。
9月13日 磯津患者会、弁護団、支援団体の60名ほどが、増設が問題になっている昭和石油と三菱化成を訪れ説明を受けた。
9月15日 磯津第2回自主交渉。補償要求についての回答はなく、診断書などの提出を求め、紛糾、弁護団が資料を提出することで収めた。昭石の増設プラント運転開始問題では、公害対策について熱心に追求した。
9月16日 隣接の三重郡楠町が四日市からの“もらい公害”の実態調査の結果を発表。それによると、四日市公害病(ぜんそく)の発生率は、四日市よりも楠町のほうが高いことが解かった。
9月20日 九鬼市長提唱の「住民とコンビナート企業との対話」の塩浜こんだん会があり、その席上、自治会長から「公害患者が自治会長を問題にせず、患者でどんどんやればいいと、現に、患者の要求を聞き入れている、自治会長の要求も聞き入れてもらわんと困る。一つだけでもいいから確実にやることを約束してくれ」と、企業に迫る場面もあった。
9月25日 田中知事は、県議会で「昭和石油の8万バーレル増設プラントの運転は総量規制の枠内なので認めざるをえない。公害対策協力財団の基金は3〜5億円で当面は健康被害者の救済で生活保障と医療手当支給を考えている」と発言。
9月27日 県議会で、県警本部長が、公害裁判被告六社の刑事責任について「因果関係が問題だが、捜査しても公訴を維持するに足る証拠収集はほとんど不可能である」と刑事事件にはしないことを明らかにした。また、知事は磯津交渉についてあっせんの労をとる気があると答弁した。
9月30日 東橋北地区の患者70名ほどが全員集会をもち、公害発生源対策要求や申し合わせ事項について話し合い、西橋北患者にも呼びかけ、第2コンビナートの3社(大協石油、協和油化、中電四日市火力)への「青空要求」提出を決めた。
10月2日 九鬼市長は記者会見で「橋北患者会の第2コンビナートにたいする自主交渉は因果関係がはっきりしていないので難しいと思う。私としては静観する」と語った。
10月3日 大協石油をはじめとして、第2、第3のコンビナート労組が合同で公害学習会をもった。講師は野呂汎弁護団事務局長と、公害訴訟を支持する会の前川辰男代表委員で、当面する問題での質問があいついだ。
10月4日 昭和石油が、磯津の住民代表30人を招いて、増設プラントについての説明会を計画、市民兵の会はこの日の朝磯津の各家へ「昭石公害防止計画のからくり」を説明した内容のビラを配り、運転開始ノーをはたらきかけた。
10月4日 支持する会が申し入れ、レストランコダマで、四日市患者会の役員との共闘での話し合いがもたれたが、橋北患者会の直接交渉や、市民兵についてが語られ、赤軍派やテルアビブ空港乱射事件なども出る、あたかも市民兵が関係しているかのように。
10月5日 四日市患者会から、橋北患者会の第2コンビへの直接交渉をやめろとの申し入れがあり、緊急の会議をもち話し合った。「隣接する患者が公害をなくせと要求するのは分裂にはならない、金銭要求は四日市全体でいっしょにやる、3社への直接交渉は継続することを確認した。
10月6日 磯津自主交渉団30人が、昭石へ8万バーレル増設プラントを運転しているかどうかについて、立ち入り調査。公害防止がなされわれわれが確認するまでは操業しないよう改めて申し入れる。
10月6日 第3回磯津自主交渉で六社が金額回答を出した。「成年者には原則として要求どうりの補償をするが、未成年者には100万円減額」それと通院日数などについて、日数未満は減額するなどで、交渉はまとまらず、六社は再考を約束した。
10月8日 市民兵教師グループが中心になっての「反公害磯津寺子屋」の中間総括と今後の進め方についての研究会。公害調査に来四したタイの留学生7人も参加。5日から7日にかけては、米国の学生と研究者も来四(市民兵事務所へ宿泊)、ちょっとした外国人ブーム。
10月9日 市民兵の会は、最近とみに高まっている“反市民兵”キャンペーンについて論議。市民兵は暴力集団で、既成組織否定の危険なものといったことが患者会に流されており、そうしたデマを流す者、それによって利益を得ようとする者などの真意はなにかなどを出し合ったが、市民兵の事実を知ってもらうなどして、反公害運動の分裂をさけ、公害発生源とのたたかいを強めようと話し合った。前川辰男支持会代表委員が、地区労議長に「うるさくてどうにもならんので沢井をクビにせい」と言ったのに対し「なんで社会党にそんなことを言われなくてはならんのか、不都合があれば地区労で考える」と断った。記者クラブの人たちが前川氏に「なんでクビにしたいのか」と聞きに行ったら「そんなことを言ったおぼえはない」と否定した。
10月11日 四日市患者会三役と支持会常任委員との懇談会で、患者会としてはまず各地区ごとに地区組織をつくることであり、支持会へはその後に支援をたのむことになるなどが話し合われた。
10月12日 四日市患者会三役の申し入れで、橋北患者会町委員がこんだん。「橋北だけで自主交渉をするな」から始まり、橋北では患者だけが4〜5人の補佐人(市民兵)でやるというが、弁護団や支援団体がつかなければ、要求書を持っていっても相手にしない。そうすると名古屋大学からヘルメットをかぶったゲバ学生が工場へおしかけメチャメチャにし、機動隊が出動する、患者会役員はブタ箱へ放り込まれる、それでもいいのかと忠告。橋北は「われわれは、素朴に公害をなくせって要求するだけ、会社が言うことを聞かないときには弁護団や支援団体に応援を頼むことにしているだけ……」それにしても、「ゲバ棒」「ゲバ学生」「ブタ箱」などついぞ思ってもいなかったことが飛び出したりした。後日、橋北からみんなと相談の結果を連絡することになった。
10月13日 磯津住民(といっても主体は患者)と田中知事・九鬼市長との第3回の話し合いがもたれたが、この日、昭石の幹部と吉田克巳県公害センター所長も来ていた。知事は「四日市地域の硫黄酸化物の総量規制を達成するためにも、昭石の増設プラントの操業を認めるべきだ」と主張。住民側は「住民が納得するまでは操業するなと、県として申しいれよ」と対立。吉田所長は「操業しても、磯津への公害の心配はない」と県のプロジェクトチームの総括責任者として事細かな数字を並び立てて力説。住民側は吉田氏の説明を複雑な気持で聞いたが、「よろしい」とは言わなかった。
10月13日 橋北患者会は、四日市患者会の申し入れについて話し合った。「橋北だけでやるな」の申し入れは納得できない、それに「ゲバ学生」「ブタ箱」などオドシじみた話は感心せぬ、四日市患者会へは「青空要求はやっていく」と返事することにした。
10月17日 四日市患者会三役のよびかけで、支持会代表(前川氏のほか、共産党橋本健治地区委員長、萩原量吉県議など)弁護団4名の幹部、市民兵、橋北各町委員などが、橋北児童館で話し合い。第2コンビへの直接交渉について、四日市患者会からは「四日市患者全部がまとまるまで待つべきだ」支持会からは「“エコノミスト”にああいう論文(今四日市で問われているもの)を書くような吉村さんが補佐人についている橋北患者会の自主交渉には支援することはできない」、弁護団からは「患者だけでやるのは甘い」などの発言があいついだ。橋北からは「第2コンビナートの公害について、この悪臭はどこの工場のどのあたりから出ているって、私たちには分かるんです。それを無くして欲しいって要求するのがなんで皆さんにご迷惑をかけることになるのかわかりません」とか、「私たちは吉村先生や沢井さんなどにいろいろ教えてもらってやってきましたのでこれからもそやっていきたいと思っています」「これからの交渉のなかで必要におおじ、弁護団や支持会にお願いしますので、その節はよろしくお願いします」で終わった。別れぎわ、野呂弁護士が沢井に「これまで聞かされてきた話と実さいに橋北患者さんの話とずいぶん違う、橋北患者さんが中心になってやるのがいいことだから、このまま進めたらいい、弁護団には私からよく話をしておくから……」と言ってくれた。前川氏の画策は頓挫した。
10月17日 磯津の住民有志20人ほどが集まって、「公害をこうむってきたのは患者だけではない、一般住民にも六社は補償すべきだ」と要求について協議。
10月18日 磯津の患者4名を福田香史市議(社)が車に乗せて県庁へ出向き、知事に会い「昭石の増設プラントの操業を開始しても公害発生の恐れがないと、知事としてそのことに責任をもって保障するかどうか」をつめに行ったというが、同行した母親たちは用件も知らされず着いていったが、操業OKにされてしまった。
10月20日 昭和石油で重油を積み込んだタンカー第10千代丸(旭タンカー所属、123トン)が、四日市港内で爆発、乗組員3人のうち、1人が死亡2人が重体。
10月20日 磯津第4回交渉。この日六社は「補償基準の一部を訂正し、総額5億4000万円を支払う。このうち、支払い総額との差額7〜8千万円は解決一時金として支払う」と回答。子どもへの上乗せがなく、再考を迫り、その他についても27日までに回答を求めることにした。
10月20日 東北大、大阪大、鹿児島大の学生が、ポスト判決四日市、磯津反公害寺子屋教育についての研究で、市民兵事務所に泊り込みで研究調査。
10月21日 昭石はこの日、記者クラブで、増設プラントの運転について「住民には充分説明して納得してもらったので、23日から運転を開始する」と話した。操業をふみきることについて、「住民側から質問が出なくなった」「住民や患者が納得してくれた」との感触をつかんんだをあげている。昭石は、19日に、田中知事と、地元の塩浜・磯津自治会長あてに、1)硫黄酸化物排出量は県規制値を下回る、2)将来はさらに下回る、3)規制が強まれば従う、などの「確約書」を提出。「誓約書」と磯津自主交渉の相手である支持する会、患者会、弁護団にはなんの連絡もない。
10月22日 磯津患者会は各町ごとに昭石の増設プラント運転について、患者だけで話し合ったが、即刻抗議に行くことにはならなかった。
10月23日 橋北患者会30名ほどが「新しい患者が出ないようにせよ」など公害発生源対策11項目の「青空要求書」を第2コンビナート3社へ提出に行った。大協石油と協和油化は受け取ったが、中電四日市火力は、応対に出た所長が「亜硫酸ガスは出しているが公害は出していない」とか「マッチ一本から出る亜硫酸ガスはどれくらい出ているか知っていますか」などと煙にまき、患者から「火力の煙突からはマッチ何万本、何十万本の亜硫酸ガスがでているのか教えて下さい」と言ったら、「この話はやめましょう」とそらしてしまった。ああだこうだと言いがかりの繰り返しで、まともな所長ではなく、これでは話にならないからといったんひきあげることにした。
この日のことは、あくる日の新聞に「亜硫酸ガス出しても公害は出していない」の大きな見出しの記事が載った。公害裁判被告企業としては不名誉なこと。あくる日、患者会役員で再度火力を訪れたときには件の所長は前日とはうってかわりの低姿勢であったが、「患者名簿を出せ」とか「補佐人は……」など本質は変わらずであったが、要求書は素直に受け取った。
10月23日 磯津自主交渉団と弁護団、支援団体の代表24人が、昭石を訪れ、この日からの8万バーレル増設プラントの運転開始に抗議、「増産についてなお多くの疑問が残っている段階で運転開始は、継続中の交渉を無視したものである。納得するまで操業を開始すべきではない」との抗議文を渡して抗議。
10月23日 四日市患者会の山崎会長と加藤・小井・阪副会長が、県の本田、市の園浦環境部長に会い、四日市患者会とコンビナートなど29社との補償交渉がもてるよう仲介してほしいと要請。県・市はこれを了承、11月6日に市役所で初会合をもつことを約束した。患者会の「弁護団・支援団体抜きで、ときには笑いながら、なごやかな雰囲気でやっていきたい」との申し出を県・市がうけたもので、波紋がひろがった。
10月25日 第2コンビ3社は、11月2日の交渉には出席できないとし、1)患者数人とだけなら、2)工場内でなら交渉におおじる、3)交渉には本社幹部ではなく工場長クラスで、というもので、町委員会では既定方針どうり患者全体での交渉をと確認した。
この後、3社の総務課長は、橋北のお好み焼き屋の2階に橋北患者会4人の役員を呼び「何とか金で、交渉をやめられないか」と打診、その金は全員ではなく役員だけのもの、4人はぐらついたが、その中の一人が、「これはすべきことではない、」と反省、裏取引は今後おうじないことにした。
10月26日 午後0時半頃、三菱ガス化学の過酸化水素製造プラントが、大音響とともに爆発炎上、爆音は市内全域にとどろき、黒煙が立ち上った。
10月28日 公害被害は患者だけではないと、磯津住民約500人が磯津公民館へ集まり、六社に公害防止対策と補償を要求することを決め、名称を「公害防止磯津住民会議」と決めた。
10月28日 大協石油と協和油化が「本交渉を前提とした予備交渉をしたい」 中電は「北浜町の中電営業所で患者だけと交渉する」と回答してきた。
10月30日 四日市市公害被害者認定審査会が、この月申請のあった18人を認定。11月1日現在の認定患者は924名となった。
10月31日 「エコノミスト」誌に発表した吉村功さんの文章が問題になり、弁護団会議で論議が交わされた。この席には、訓覇也男(市議・無、患者はげます会長)萩原量吉(支持会、県議・共)沢井余志郎(記録する会)も吉村さんともども出席して議論。今後の進め方・内容などについても話し合った。
11月3日 第5回磯津自主交渉、六社は前回回答から上積みしないとこたえたことから患者側が硬化、深夜までもめた。六社は途中別場で協議、支払い総額を800万円増額すると回答したので、次回18日に再び交渉することにした。
公害患者が公民館で交渉している一方で、磯津住民会議は漁協で協議、協議のため公民館を出た六社を呼んで予備交渉。
自主交渉のさい、患者側は、昭石が増設プラントの運転を開始した背信行為に「住民の了承をえたとする根拠を示せ」「その事実がなくば直ちに操業を停止しろ」と追及。
11月4日 中電は、大協・協和とともに予備交渉に出席すると申し出てきた。
11月6日 四日市患者会が「全患者に補償せよ」と、市役所で、六社と大協石油 日本合成ゴム 味の素 新大協和石化の10社と初の交渉をもった。患者会は三役と11地区の代表からなる15名。患者側から「1)過去の被害補償、2)将来の生活保障と医療保障、3)発生源対策、」を要求。企業側は「発生源対策は行政の指導に従って行う。補償は公害被害者救済基金のほうで行う。」と答えた。以後、企業側はこの2つを繰り返し述べるようになった。行政を前面に立てることにした。本田県環境部長はこのあとの記者会見で「発生源対策は、県市の監視でやるので、地区ごとにはしないようにしてほしいと言ったことに患者側は了解してくれた」と語った。
11月6日 橋北患者会と第2コンビ3社との予備交渉が橋北児童館でもたれた。3社の総務課長をふくむ10人と、患者側は患者だけの10人。交渉は「工場内か、中電営業所で」を主張、「橋北児童館では困る理由を文書ではっきり回答するなら、決裂という事態はさけてよい」と妥協して終わった。
橋北患者会は、市民兵が当初から助力していたが、患者主体、市民兵は“黒衣で助っ人“を心がけ、ときには磯津自主交渉(患者、弁護士、支援者入り乱れての交渉を見学、橋北はあくまでも患者主体でしていくことの反面教師として見学)に案内したし、要求書提出にも同行したが発言はしていない。
11月7日 大気汚染公害被害者救済法の地域指定の四日市、川崎、横浜、富士、尼崎、大阪、6市の市長や担当者、環境庁が集まっての「指定地域連絡協議会」が川崎市で開催。園浦四日市市環境部長が「公害被害者救済のための基金財団発足を決めた。事業内容は川崎市などが考えているものと同じだ。運営資金は市が1億円、企業からの寄付金4億円で、来年1月から事業を始める」と発言していた。
11月8日 橋北患者会へ3社から、「交渉の会場としてなぜ橋北児童館ではいけないのか」の文書回答が来た。市販の便箋と白紙の封筒で、会社名はどこにもなく総務課長の個人名が書いてあり、内容も患者以外の者が居ては雰囲気がよくない、などわけのわからんもので、この夜の役員会で、1)工場が相手では話にならん、2)3社の社長に直接、内容証明郵便で交渉の申し入れをする、3)市民に会社の態度をしらせ患者たちのしていることを理解してもらう、4)その日のために勉強会をこれまで以上に積み重ねる。
9日夜おそく、患者会代表宅に「いまやっていることから手をひかないと、命がないぞ」との脅迫電話があり、2〜3日後にも同様の電話があった。
11月10日 磯津自主交渉打ち合わせ会で、最終140人の患者・遺族に対しての補償5億6900万円について、不満ながらも受諾することを決めた。弁護団の野呂事務局長は「100パーセントとることは出来なかったが、わずか3ヶ月たらずの交渉でこれだけの成果を獲ちとることができたのは、公害反対運動の勝利のあらわれでもあるわけです」と述べた。
11月11日 橋北患者会の勉強会で、この日の講師を吉村功さんがつとめた。「第2コンビが加害者であることの事実」をテーマに、排煙、気象、汚染状況などについて説明。中電四日市火力へ要求書を持っていったときに所長から「マッチ1本で亜硫酸ガスがどれくらい出るか」と問われ、所長も、患者も答えられなかったことについて、この日の勉強会で、マッチ1本では1センチ四方くらい、火力の煙突からは1時間あたりマッチ8億から9億本分の亜硫酸ガスが出ることが分かり、時間をオーバーして勉強。
11月11日 「公害防止磯津住民会議」のメンバー500人ほどが漁どめや仕事を休んで6社の工場に押しかけ、抗議文を手渡すとともに、「18日午後1時までに要求におおじる返事がない場合は実力行使に移る」と宣言した。席上、自治会長に「もっと強く言え…」とはっぱをかけながらの交渉に企業側はたじたじで「本社と協議してどうするかきめます」と約束した。
11月13日 弁護団会議。田中覚知事が衆院選へ、九鬼喜久男市長が知事選へ立候補することになり、社・共・労から「市長選の候補者を出してほしい」との要請にどうこたえるかで討議したが、結論は出ず。
11月14日 四日市患者会役員が、市の園浦環境部長に会い、「磯津では六社が5億6千万円払うのに、四日市公害対策協力財団は54社で5億円だけの基金ではおかしい」と抗議、市は「訴訟ではっきり、加害者と被害者との因果関係が認められた」からだと答えた。会合のあと「訴訟をやるようにしないと、どうにもならんのじゃないか」と訴訟指向の声が出ていた。
11月17日 橋北患者会と三社との第2回予備交渉がもたれ、三社から総務課長クラス7人、患者側から24人が出席。三社側から「交渉場所の行き詰まりを打開するため、市・県など第三者の仲介を依頼したい」と提案。患者側は「米本判決で、市・県も企業と同じ責任を問われているのに、そんな第三者の斡旋は必要ない。患者側は直接の交渉を要求する」と提案を蹴ったところ、あとは黙るのみで、「では、あとどうするかの話し合いはできないのか」に、「それ以上のことは、会社から指示されていない」と答え、患者から「子どもの使いよりも悪い」「いや、いまどきの子どものほうがよほどしっかりしている」と発言。交渉は進展せず、三社は、21日に文書で再回答することを約束した。
11月17日 磯津自主交渉の協定書案として全文7条からなる六社案が提示されたが、なかに、第6条「本協定は、甲(患者側)の早期救済のため、各個人について個別的事情及び因果関係の有無などを問うことなく締結されたものであり、右被害補償に関しては、本協定成立をもってすべて円満解決した。」との条文があり、弁護団は「因果関係を問うことなくとの表現は、判決が認定した因果関係の否定で、判決を尊重していなのでこれでは調印できないと削除を要求。
11月18日 磯津公民館での調印式に、四日市現地事務所の松葉謙三弁護士あて六社側から「今日の調印式には出席できない」と通告があった。六社を代表して三菱油化が記者クラブへ来て「患者側に申し入れてあった必要書類の提出がないので……」との理由を述べていたが、この日、調印に備え、双方の弁護士は書類のチェツクをしており、調印式で会おうと別れている。この突然のボイコットは、磯津住民会議や四日市患者会との交渉にひきこまれること、発生源対策要求には応じない、そのために欠席の挙に出た。それと、患者たちの足元をみすかしてのこともあってのことのようであった。調印式に集まった患者側は六社の工場に出かけ、あくる朝まで抗議した。六社側に「20日には必ず磯津公民館へ出向く」ことを約束させた。
11月18日 磯津住民会議の要求に対し六社は「市を仲介にしてなら話し合いに応じる」と回答してきた。
11月19日 四日市公害認定患者の会第3回総会があり、500人ほどが出席。(過去2回は50人ほど)。来賓として、社会党・前川辰男、共産党・橋本建治、公明党・大島武雄、市民兵の会・吉村功、公害患者はげます会・訓覇也男、弁護団・郷成文、支持会・小畑広次、それと飛び入りの県知事候補・田川亮三が紹介された。山崎心月会長が「被害者が加害者に被害の補償を要求するのはあたりまえのこと、そのため企業と交渉を……」と挨拶。会の方針として、1)新しい患者が出ないような空気にせよ、2)いまの患者の病状が悪くならないような空気にせよ、3)患者パワーで完全な青空を、などを決めた。最後に「患者一本で委任状を出すことに賛成する人は拍手を」と閉会挨拶に立った役員がよびかけ拍手を得たが、なんのどういう委任状なのか説明もなく終わった。
11月20日 磯津自主交渉調印式に、六社総務部長名で「調印は名古屋の中部電力本社で行いたい」と文書通告があった。「諸般の情勢から、磯津での調印は無理と考えた」との理由。磯津公民館へは、昭石の亀山総務課長が、お詫びと釈明にと出かけてきたが、なんの権限もなく、一人いい子になろうとしただけ。「銭が欲しけりゃ名古屋まで来い」と言わんばかりの、判決前の企業体質丸出しの高姿勢に戻ったとしか言いようのない振る舞い。患者側にも、そうした振る舞いをさせるスキがあったのかが問われることでもあった。
11月20日 磯津住民会議の代表が六社の工場を訪れ、再度、交渉に応じるよう、23日までに回答を迫った。
11月20日 公害患者をはげます会会長のくるべまたお市議(無)と橋北在住の中島隆平市議(自)が、患者会と三社に「会場は市の橋北出張所会議室とする」との斡旋を行い、返事を求めてきた。 あくる日、3社から斡旋を受け入れるとの連絡があり、患者会も受け入れることとした。それまで、はっきりとした態度を示していなかった西橋北患者会も交渉に参加するとの表明があった。
11月22日23日 磯津自主交渉団は調印を一方的に蹴ったとして100名ほどに、支援団体から10名が参加、中電本社で弁護団と合流、抗議。23日に及ぶ交渉の結果、「確認書」を取り交わした。1)調印式は磯津を除く四日市市内で、六社は社長などの代表者が出席して行う、2)発生源対策については各社個別に担当技術者を磯津に派遣して説明、質問を受ける。
交渉のあと、双方の弁護団が協議、調印式は30日、近鉄四日市駅前の農協会館で行うことを決めた。協定書もその日の交渉で「患者、遺族140人に対する総額5億6900円の賠償金は、調印後2週間以内に六社連帯で支払う」「通院患者が入院するなど事情変化の場合は、協議のうえ差額を払う」など7条からなっている。
11月24日 四日市市は六社に対し、これまで市が負担してきた磯津の公害患者(死者を含む)140名の自主交渉参加者の医療費を請求する方針を決め、30日の調印後に六社と話し合うことにした。公害認定患者の医療費は、本人が国保加入者の場合、7割を国保負担、3割を公害被害者救済法にもとづき、国、県、市と公害防止事業団が3分の1ずつ負担しているもので、今度の請求は「病気の原因が第三者によって引き起こされた場合、自治体は負担した分について原因者に請求することができる」という国保法第64条にもとずくもので、市は、「六社が原因者であることを認めた」という解釈で請求することにした。
11月27日 橋北患者会と第2コンビ三社との第1回自主交渉が市の橋北出張所2階で開かれた。大協石油と協和油化は早くから会場準備にあたり、ガスストーブ、紅茶、茶碗、スリッパなどを持ち込むなどのサービス、後から来た中電はあわてて持ちに走るなどがあった。会場は30人ほどしか入れず、70人ほどの患者は交代で会場へ入った。
はじめに、斡旋に入った、訓覇・中島市議が挨拶。患者側は佐久間委員(高校教師)が司会をつとめて進行。大協石油(池田総務部長)協和油化(三輪総務部長)中部電力四日市火力(村瀬次長)の順で、11項目の青空要求の回答を、一社ずつ席を替わって述べた。大協の小林総務課長は3社とも同席していた。回答はいずれも公害防止に努力しているといったことで、過去の加害・被害については口をつぐんだりしていた。吉村さんなど補佐人といわれる市民兵が3〜4人同席したが発言はしなかった。患者側の発言は具体的で、会社側は困窮していた。この夜の交渉は質問する時間が少なく、次回を12月7日か8日にもつことを申し入れ、夜10時前に終わった。
11月28日 四日市患者会役員会があり、「橋北は発生源対策の要求を出して交渉を始めたが、本心は金だろう、そんなものやめてしまえ」といった発言が橋北の役員に浴びせられたが、「せっかくやりだしたのだから、やめるわけにはいかない」と反論した。
11月30日 磯津の公害患者と遺族140名(10月1日までの認定患者)と六社との公害被害補償協定書調印式が、四日市農協会館8階ホールであった。補償総額5億6900万円(要求は6億7115万円)。
調印式には、患者側全員と弁護団、支援団体が参加、六社側は副社長クラスをトップにしたメンバーが出席。まず患者側の北村団長が署名、つづいて六社が行った。患者代表は「青空がもどるまでは握手しません」と挨拶。調印式後、磯津患者会、弁護団、支持する会、県共闘は連名で「四日市に、真の青空をとりもどすために闘う」との共同声明を発表。
調印式を終えて会場を出てきたら、市役所前で田中角栄総理が、知事から衆院選に出馬する田中覚候補の応援演説をしていた。「私が公害をなくす」と威勢のいい演説をして、調印式帰りの磯津の母親たちが拍手をしていた。「角栄が公害をひどくしたんだよ」と言ったら、「だけどわしがなくしてみせるって言っとったで、なくしてもらわんとな」と期待していた。