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私の公害体験
澤井余志郎
- 1966年(昭和41年)7月、公害認定患者の木平卯三郎(76)さんが、自宅め2階で首つり自殺。
7月14日、政党・労租の公害対策協議会が“木平さんの死を無駄にするな”との市民集会を開催。塩浜病院に入院中で磯津の中村留次郎さんが「弱い者は束になって死ねというのか」と訴えた。
中村さんは、「公害反対を気安く言うな。ぜんそく患者の本当の苦しみを知ったうえでやれ」と言った。患者は夜中から明け方にかけてひどい発作をおこすから、病室へ来て、一晩居ってみろとも言った。
8ミリ映写機、カメラ、録音機を携え、夜に病室へ行った。ひどい咳、ぜんそく発作で苦しんでいる患者さんが居た。しばらくしてから、医者に「この空気清浄室には24人分の空気しかおくりこめないので…」と追い出されてしまい、もっとも苦しむ場面にはであうことわなかったが、苦しみはよく分かった。わたしになにか出来ることはなんだろうかと考えた。
- こうした事態でも、行政、工場とも、手をこまねいているのみで、依然として公害被害はとどまることが無く、患者救済も進まない。この状況を打開するには、訴訟という手段を講ずるしかないと、公対協は弁護士さんたちに相談、公害ぜんそく裁判を起こすことにした。
原告患者を誰にするかでは、もっとも被害の大きい磯津の、塩浜病院入院中の9人で、訴える相手の工場は鈴鹿川の北側に隣接する第一コンビナート六社となった。
磯津は、四日市本土かちは鈴鹿川で切り離されている地形だけでなく、行政は木一本植えることもなくみ捨てている。
磯津には100人ほどの公害認定患者がいた。なんとかその人たちが、患者の会を作って、公害裁判を支援するとともに、公害反対の運動を進める中心になればいいなと思った。
そのまとめ役こなりそうな患者さんを訪ね、思っていることを述べ、下働きしますと言った。「帰れ」と言われた。「選挙になると、すぐにでも公害をなくすようなことを言い、ピラもまきにくるが、投票が終われぱあとは知らん顔、そんなものの言うことを信用できん」その日は、そう言われるのはもっともだと、引き下がった。
しかし、選挙に利用しようなどとは全く考えていないことなので、このまま引き下がることはできない。おれはそんなんじやない、一人で役にたつことをしたいだけだ…、間をおいての、磯津通いを始めた。
- そのまま引き下がるのはいやだから、仕事が終わったあと、なんだ、こうだと理由をつけたり、用事を作ったりでの磯津通いをした。「おまんは、おれが思っていた男とどうやら違う。こんど患者を集めるから、そのとに署名用紙を持ってくるように・・」となった。その集まりに行った。「この人は市役所の人でここれから配る用紙も役所で作ってきてくれた。経歴詐称は、自分が言ったことではないので、訂正しなかった。−ヶ月ほどたった頃、「役所の人だって聞かされていたが、おまんは役所の人間ではないな。だけどようやってくれるで助かるわ」と別の人たちに言われた。
こうしたことで、今も磯津通いは続いている。
- 1966年(昭46)暮れから翌年にかけて、霞ヶ浦埋め立てと第三コンビナート誘致を県・市が言い出した。公害対策が一向に効果を表さないなかでの公害発生源拡大は、どうみても無謀としか言いようがない。北部の人たちは「ノーモア塩浜」で反対した。
北部に住む人たちから、反対のピラをつくっての各戸配布をするので、仕事が終わったら手伝いにこい、と言うので行った。ビラは、お前がガリきりして、印刷してくれと、ガリ版刷り道具が揃えてあった。出来上がったビラは、数人で手分けして各戸べ配った。
あくる朝、あるコンビナート労組の役員に呼び出された。組合事務所の机の上に、昨晩作って配ったビラがあった。「これは、おまえが作ったビラだな。お前の給料は誰が出しているか、おれたちの組合費からだろう。雇い主の意向に(第三コンビ建設)さからう者は辞めてもらうしかない。お前が辞めるか、うちの組合が地区労を脱退するか、お前が決めろ。」迫られ、「どちぢも、私こは返事のしようがないことですが、コンピナート労組の思いもよくわかるので、これからは、自分なりに気をつけるようにするとしか返事のしようがありません」と答えて引き下がった。 それをきっかけに、以後、黒衣(くろこ)に徹するようにこころがけた。
- 公害は被害を被ることである。中村さんが言っていたように、公害の実態を知ることから公害反対運動は始まる。
“公害反対!”と手をあげての運動は、できる人にしてもらい、その人たちが公害の実態を知り、運動に備えてもらおうと、くさい魚で、ぜんそくで困窮する磯津の人たちの生活・思いといったものを話してもらい、それを話し言葉でそのままテープおこしをして、ガリ版文集を作ろう、本名では具合がわるいのでペンネーム代わりに「公害を記録する会」とした。被害者の本当の話を聞かせてもらおうとするには、人間関係ができていないと聞けないので、いきなりではなく、信用してもらうことも必要だった。
- 公害患者、漁師さんなどの聞き書き、日誌、論文とか新聞記事などの採録などのガリ版文集は、「記録・公害」の表題で、公害が無くなるまで発行すると続けてきたのに、指が思うように動かなくなったり、書いた後指が痛むようになり、終刊にし、公害市民塾が奇数月に、主にワープロで打ち出している、「公害市民塾・瓦版」に引き継いだ。
- 1969年夏、名古屋大学の学生と教師たちが、四日市反公害の手助けをしたいとやってくるようになった。公害裁判の傍聴券を確保するために前夜から寝袋を持って裁判所の庭に並ぶとか、裁判支援のビラの印刷手伝いなど細かいことを手弁当でやってくれた。裁判支援の中で、弁護団からも、もっと広く裁判の様子などを知ってもらうのにミニコミ誌がほしいといったこともあり、それまで学生たちはそれぞれで動いていたが、1970年2月、四日市公害と戦う市民兵の会と名乗ることにした。大学の先生も学生も、主婦も、工場労働者も、公務員も、みんな平等の、市民の、公害患者のために、黒衣で助っ人する兵隊であるとし、月刊ミニコミ『公害トマレ』を発行、地区別に担当者を決め、月一回は、『公害トマレ』と、患者会の印刷物を配った、公害状況やぜんそく症状なども聞いて、対策を講じたりした。私も、最初からそれに関わっていたが、表面に出ないように気をつけ、弁護団会議や対策は名古屋で夜やられるので、いつも出席して、弁護団と、現地の原告患者、支持する会との連絡も取るようにしていた。
- 公害裁判判決の前年、河原田地区(現在、公設市場のある所)に、三菱油化が新たに河原田工場を建設するとして田畑の買収をすすめ、200人ほどの地主ほとんどが承諾していて、反対の地主はわすか。その反対地主が新聞記者の紹介で市民兵に助っ人を頼みに来た。どう見ても形勢不利、だけど、助っ人を自認している市民兵として断るわけにはいかない。そこで、その代表と2,3の約束事を交わし、住民主導、よそ者は徹底して黒衣で動くことで、翌年判決72年6月、同意書撤回の地主が増え、油化は県知事に「進出断念」を申し入れた。四日市でコンビナート進出を成功させたたったひとつの出来事で、地元住民だけでやった(革新団体などよそ者が入らなかった)から成功した。
- このほか、市民兵たちは、四日市の人たちのために、よくやってくれたが、「黒衣で助っ人」選挙に出ようとは考えていないから、声高に「これもやりました」「あれもやりました」などと言わないだから、ほとんど市民兵たちの活動は世の中に知られていない。ただ、その足跡は資料にとどめられているので、市公害資料室にある資料で見ることができる。
- 公害裁判をおこしたから、患者たちが勝訴したから、四日市公害は改善されてきた。裁判がなかったら、負けていたら、四日市の人たちだけでなく、全国(41の公害認定地区)の人たちも、もっともっと長い間、ひどい苦しみにあわされていた。
- 裁判のおかげで、公害は改善されてきた。現在は523人の公害認定患者になっている。これからは、公害の過ちを繰り返さない、その教訓を学ぶことが大事だと、原告患者で漁師の野田之一さんと、語り部をしている。もちろん、黒衣で、助っ人の気構えを忘れないようにである。
2005年6月
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