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四日市ぜんそく
四日市公害裁判
記録「公害」
小5授業実践
論文

「四日市公害と住民運動を考える」

伊藤三男

 四日市公害は石油化学コンビナートによって引き起こされた大気汚染が原因です。その汚染された空気によって呼吸器が冒され、気管支ぜんそくやひどい場合は肺気腫にまで進行して一般的に「四日市ぜんそく」と呼ばれることとなりました。「ぜんそく」はこういう形のみでなく小児ぜんそくや原因不明のものもありますが、四日市の場合は特定の地域に集中して発生した点に特徴があり、患者たちは汚染物質の発生源を隣接するコンビナートだと考え、提訴し裁判所によって認定されたわけです。
 この場合「特定の地域」とは四日市市南部の磯津地区を指すのですが、ぜんそく患者はこの地区のみに発生したわけではなく、大まかにいえば名四国道及び塩浜街道沿線に最大で1500人程度の患者が、「公害病」として認定されたのですから少なくとも「四日市公害」は、四日市市全域に関わる問題であるわけです。にもかかわらず、果たして四日市公害が四日市住民にとって解決しなければならない課題となっていたのか、と考えると大きな疑問符を付けざるをえないのです。

 四日市市は現在人口が約29万人(来年3月の楠町との合併で30万になる)、三重県下で最大の都市です。東には、伊勢湾があり南端の楠町と隣接しているのが塩浜です。磯津というのは通称であり自治会名として以外に使用されることはありません。鈴鹿川河口部にあり四日市市街から行くには幅100Mにもなる橋を越えなければならず、むしろ楠町の北端と表現した方がわかりやすいと思います。現に磯津漁港の地番は楠なのです。磯津はもともと漁師町であり、今でも100人ほどの人が漁業を営んでいます。これでも現在の四日市の中では最大の漁業組合ということになります。
 子の塩浜地区の鈴鹿川より北の区域には戦争中に海軍の燃料廠があり、軍事基地的な要素を持っていました。鈴鹿のNTT研修所跡地が海軍の飛行場でもあったわけで、伊勢湾岸は軍事的に利用価値の高い地域だったということになります。戦後、塩浜の燃料廠跡は民間に払い下げられます。くわしい経緯は省略しますが基本的には三菱グループが獲得することになります。1950年代当初から新しい産業としての石油化学産業が登場し精製してのガソリン・重油・軽油などの石油製品のみならず、安くて軽くて丈夫なビニール・プラスチックなどの加工製品を世に送り出します。従来の金属中心からの大きな転換であり、大衆からも大歓迎を受ける時代の花形でした。

 塩浜地区を網羅したのは三菱油化・三菱化成・三菱モンサント化成のグループ三社。さらに精製の昭和石油と戦前からこの地に工場を構える農薬メーカーの石原産業、そして電力を供給する中部電力三重火力発電所。後に裁判の被告となるこの六社を中心にしてコンビナートが形成されました。第1コンビナートと呼ばれるようになります。パイプラインが縦横に走りモクモクと煙をはく高煙突、さらに夜間も煌々と輝くプラントの群れは戦災で破壊された光景からの脱却であり、「100万ドルの夜景」と持て囃されたのは無理もないことだったのでしょう。磯津の漁師たちも天候に左右され過酷な労働である漁業から転じて、工場に働き口ができるとの夢も抱いたのです。

 実はこの頃すでに熊本県水俣の漁村一帯では「奇病」が発生し地域住民の体を蝕みはじめていたのですが、後に四日市にまで形を変えた「公害」が進行してくるとは、この地にすむ人々は考えもしなかったのです。この時期から石油化学コンビナートによって恩恵を受ける人と、被害を被る人との分極化が明確に始まります。
 四日市公害訴訟の始まり、厳密には9人の原告が加害者を六社に限定して津地裁四日市支部に提訴したのは1967(昭和42)の9月。ここに至るまでには既に10年以上が過ぎており、水俣同様被害者は増加する一方です。それは原告の数をはるかに上回っているのですが、原告となりえたのはわずか9人。勝算はあるのか、経費はどうなるのか、そして親戚縁者や近所の人々の思惑。今から37年も昔の小さな漁村、しかも敵に回すのは巨大企業。むしろ尻込みするのが当然でもありました。そんな中で患者の地域を磯津に限定し、原告を決起させたのが弁護士だったのです。名古屋に本部を持つ東海労働弁護団の弁護士が、全国状況をふまえた上で四日市に乗り込んできました。彼らの最大の仕事は原告の掘り起こしにあったわけで、患者たちの信用を得るまでには並々ならぬ苦労があったことでしょう。

 裁判の結果はご存知のように原告(患者)側の全面勝訴で終わります。提訴以来5年後の1972年(昭和47年)7月24日のことです。判決を出したのは米本清裁判長で、単に発生源が企業であるというだけでなく、「六社の共同不法行為」を断じ、されに被害を出さないためには利益を度外視してでも発生源対策を講じるべきだと述べたところに、この判決の重大な意味がありました。裁判の過程そのものは因果関係をめぐる押収が多く、風洞実験などのシュミレーションや複雑な数値の展開で難解かつ退屈な部分も多くありました。一般的には経済学者として立地の不備を指摘した宮本憲一さん(当時大阪市大教員)、易学的見地から発生源を限定した吉田克己さん(当時三重大教員)の功績が大きいといわれています。しかし、このはんけつは訴えた側の力量をも超えるほどの質を持つものであり、むしろ当時の「四大公害訴訟」の怒濤が米本裁判長の胸を揺すぶったのかもしれません。何しろ吉田さんは臨床医でなく、患者の病状を診断したことはほとんどないわけですから。
 熊本水俣病・新潟水俣病・富山イタイイタイ病・四日市ぜんそく、これら四つの公害を巡る裁判はすべて原告側が勝利しました。しかも被告の控訴もなく4〜5年で収束しました。ただし水俣病は複雑な要素がありまだまだ継続されていきそうです。裁判に勝てばそれですべてが解決ということにはなりません。何しろ発生源である工場の操業は続くわけですし、患者の病気が治るわけではないのです。四日市を見てもいまだに500人ほどの認定を受けた公害患者が存在しています。しかし、法的に四日市は大気汚染地域の指定を解除されていますから、新しい患者が発生することはないという仕組みになっています。実態はどうなっているのか。行政の調査などさらさらありません。

 ところで今、 四日市はどうなっているのでしょう。市役所や商工会議所は「青空がもどった」「海もきれいになった」つまり「四日市は公害を克服した街」としきりに宣伝をします。確かにいつまでも公害に汚染された街で暮らすのはいやですし、外へ行ったとき四日市=公害というイメージで見られるのは叶いません。私自身は隣の鈴鹿市に住んでいるのですが、一昨年当時の市長の恣意で四日市との合併が画策されました。この時多くの市民が反対でした。鈴鹿市民の思いは「あの四日市だけとは合併したくない」ということでした。元来鈴鹿と四日市は鈴鹿川を挟んで地域の成り立ちが違いますし、そしてなによりも公害のイメージが強く残っているのです。さらに輪をかけたのは近頃の四日市の街の寂れ方にあったのはいうまでもありませんが。だから、四日市は公害を克服したのではなく、公害によって大きな痛手を受けた街と表現するのが相応しいようです。つまり、何一つ解決できないままに今日に至っていることになるのです。

 さて、いよいよ本論に入らなければなりません。今日のテーマは「住民主導の運動」となっていますが、ここまで述べてみて果たして四日市に「住民主導」なる運動が存在したのかという疑問にぶちあたります。もっといってしまうと「住民不在」であったために今日の四日市の「惨状!」があるのではないのかとさえ思ってしまいます。先にもいいましたように原告に決意させたのは弁護士です。さらに裁判は双方の弁護士・証人の論戦。患者本人の陳述はありますが分量としてはそう多くありません。唯一住民の声として登場しましたが、原告ですから当然のことです。
 では、 判決の日、市役所の向かい側にある裁判所前の道路にあふれんばかりに押し寄せた人々は何だったんでしょう。企業の人が多少紛れ込んでいたかもしれませんが、圧倒的多数は「支援」の人々です。近所の人々が「よかったよかった」と駆けつけてくれたのかというと、決してそうではありません。基本的には労働組合関係、しかも官公労といわれる公務員たちです。主力は三重県教職員組合と四日市市職員労働組合で作られている「四日市公害訴訟を支持する会」。当時は北勢の学校には組合の組織として公害対策委員会が設けられており、傍聴券獲得や研究調査活動に大きな役割を担っていたのです。公務員関係では他に全電通(電電公社の組合・今は民営化でNTT労組となってしまいました)や全逓(郵便局)・国労(国鉄も今やJRという私企業)も元気でした。民間の労働組合はコンビナート及びその関連会社が多く、動きがとれるはずがありません。
 総じて言えば公害裁判を支援していた圧倒的多数は身動きのしやすい公務員労働組合だったのです。そして、その中の一人一人が個人としてなにがしかの働きをしたかといえば、結局組織にのっかっての運動からほとんど足を踏み出してはいないのです。「組織的」が悪いと言っているのではありません。それはそれで大きな力にはなったのです。署名・カンパ・動員いずれも多数であってこそ効果は倍加するのですから。しかし、それが個人の内部に自立的・自発的エネルギーを培ってくれたのかと考えると、そうではなかったのです。それは勝訴以降の運動の流れを見ると明らかなのです。
 近隣住民はどうしていたのでしょう。住民主体の運動があったのでしょうか。「四日市公害を記録する会」は澤井さん個人の仕事です。教員による授業実践もいくつかありますが、学校の枠から超えているものではありません。ちょっと個性的な「四日市公害と戦う市民兵の会」がありますが、明大の教員・学生や県内の教員が主力で、四日市に根を張った住民と規定することには無理があります。彼らも今は各地に分散してしまい、グループとしての活動はほとんどありません。ただ「公害トマレ」という優れた財産を残してくれましたが、やはり「よそ者集団」との印象は否定できません。

 このように、住民主導ということを考えてみますと、どうにも四日市にはあてはまらないのです。足尾銅山の鉱毒との戦いや大分での「風成りの女たち」あるいは三里塚の人々。これらはかなり突出していますが、 四日市にもう少し地元の住民たちの運動があったなら、現状はどうなっていたでしょう。少なくとも今の市長(市政)を批判する声がもっと高まっていいはずです。残念ながら四日市は公害による「負の遺産」を抱えたまま難渋しています。逆に言えば「住民主導」がいかに大切かを教えてくれているのかもしれません。住民がもっと自分の住んでいる地域を大切にする、そこから「住民主導」が始まるのだろうと思っています。

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