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四日市ぜんそく
四日市公害裁判
記録「公害」
小5授業実践
論文

一揆あっての四日市公害

 
 公害とは、人々が被害を被ることです。四日市公害は、くさい魚とぜんそく、環境破壊をもたらしました。
 被害を被る人たちは、石油化学コンビナートの工場に「公害をもたらさないでほしい」と要求しました。工場は「うちではありません」と、どの工場もそう言いました。行政は「法律や規制を守って操業しているから」と手をこまねいていました。
 公害がひどくて市民が騒いだのは、1963年(昭和38年)の夏です。第一コンビナートの公害防止がなされていないのに、第二コンビナートが操業を始め、被害地域が拡大しました。
 一方、海の方では、油くさい魚で買い手がつかず、漁師たちの生活が成り立たなくなり、工場排水口の付け替えを要求しましたが受け入れてもらえないので、この年の6月、排水口の実力封鎖という“漁民一揆”をおこしました。警察隊も水上警察も海上保安部も工場側に立って、漁民の一気に敵対しました。
 これほどの騒ぎを起こしたので、三重県知事が現地にやってきて、漁民が捕ってきた魚を試食、あまりにも臭いのですぐに吐き出してしまいました。同席していた工場の社員は「おいしい」と言って食べました。臭いものは臭いと何故率直に言わないのか、こうした社員の間違った“愛社精神“が、公害の発生を知っていても「うちではない」「隣の工場だ」と言い逃れ、大きな被害を生ずることにつながりました。
 知事も、一揆を起こしたので現地にやってきて、解決を約束しましたが、結局は、発生源はそのままで、わずかばかりの解決金を工場に支払わせて終わり、海の汚れはそのままに放置しました。
 
 大気汚染についての公害は、コンビナートに隣接する塩浜地区連合自治会が、住民の意向をもとに、1961年(昭和36年)市長に対し「工場誘致は必ずしも都市の発展にはつながらない」との意義申し立てをしました。
 “四日市ぜんそく”は特に子どもと老人に多く、そのころの国保自己負担は5割という工学で、医者にかかれない人たちが多く、塩浜連合自治会は20万円を公害病と思われる住民の医療費支払いにあてましたが、三ヶ月で使い果たしました。無策な行政に対する”住民一揆”でした。
 四日市医師会は、その後、公害訴訟支援の会の代表委員となる眼科医の小谷験次郎先生が「医師会の理事は若手で・・・」と問題提起、二宮辰雄会長、小柳越郎副会長ほか理事すべてが若手で「公害病と思われる患者の頻発」の報告が開業医から続々と入り、1964年(昭和39年)1月に「公害対策委員会」を発足させ、市長に対し「公害による疾病と認めた場合、自己負担を負担するか」などの提言を行い、塩浜連合自治会の自己負担立て替え払いの行動とあいまって、四日市市をして、1965年(昭和40年)5月からの公害病認定制度を発足させ、やがてこれを踏襲するという、ほこれる業績を上げました。“医師会一揆”といってよい活動でした。
 
 認定制度のおかげで多くの市民が救われました。重症患者は県立塩浜病院に設けられた“空気清浄病室“に入院。一家の生計を営む入院患者は、医療費はタダでも、生活費までの面倒は見てもらえません。漁師の入院患者は朝3時半頃、看護師さんに起こしてもらい、漁船に乗って伊勢湾の沖合で漁をします。ガスが立ちこめていないので発作を起こすことはありません。夜は病院で眠る。そんな生活を余儀なくされました。「入院患者が働きに行くとは何事か」と非難されましたが、そうした生活費を自分で稼ぐ漁をしたから、入院生活が続けられました。
 
 1966年(昭和41年)公害病認定患者が首つり自殺するという不幸な事態に市長は市議会で「石油化学公害はないと度々申し上げているとおりです」と発言、公害被害の事実を認めようとはせず、きょだいな第三コンビナート誘致を議会に提案、通過させてしまいました。
 
 「このままでは、死を待つしかないのか」塩浜病院に入院中の患者は、名古屋の若い弁護士さんたちが訴訟提起を勧めに来たのにのり「どうせ死ぬのやったら、いちかばちか裁判をやったろうか」と腹をくくり、親戚縁者たちの「天下の三菱に勝てるわけがない、裁判やるのやったら縁を切る」と反対されたのを押し切り「負けたらダイナマイトを持って工場へ突っ込んでやる」と九人が“患者一揆”を越こし、5年の歳月の審理を経て、「原告患者側勝訴」の判決を得ました。
 これによって、県や国は厳しい法規制と、生活保障を含む公害健康被害補償法などを作り、大気汚染の改善が図られるようになりました。
 海の汚れについては、監督官庁ではない四日市海上保安部が、工場排水(1日20万トン)垂れ流しの工場を摘発、起訴(刑事裁判)に持ち込み、判決は有罪でした。計1億トンの垂れ流しで、工場長は執行猶予付きの禁固刑、罰金はたったの8万円でした。しかし有罪には違いなく、工場排水を取り締まる法規制が作られるようになりました。
 空も海も、裁判があったればこそ改善が図られるようになりました。裁判をしなかったら、どうなっていただろうかと思うと恐ろしくなります。
 
 認定された患者は2035名。現在500人近くの人がおります。空気がきれいになった分、発作は少なくなっています。
 海も、臭い魚・背骨の曲がった魚はいなくなりましたが、海底のヘドロ、埋め立てなどもあり、魚がいなくなったりで、漁師は高齢化、衰退しています。
 なによりも、海岸はすべてコンクリートで固められた岸壁で、海辺は工場が占拠「立ち入り禁止」の立て看板を立て市民を寄せ付けないようにしています。漁師町の子どもたちは、スイミングスクールのマイクロバスの送迎でプールへ泳ぎを覚えに行っています。
 当初から現在も「工場がくれば市は発展する」と市が言い続けてきている「発展」の証が、こうしたことだとしたら悲しい限りです。
 
 10年ほど前から、小学校5年生が社会科の“四大公害”学習で、県内外から四日市を見学学習に訪れ、原告患者で漁師の野田之一さんと澤井が“語り部”をしています。野田さんは「コンビナートの工場ができるとわしらの生活がよくなると喜んだが、結局は損をした。わしらの故郷はいいところやろうと自慢できないのがつらい」と語っています。
 
 

全国保険医団体連合会 第19回「保団連医療研究集会」記録集・原稿

澤井 余志郎(公害を記録する会)
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