四日市公害被害地(第2・3コンビ)を訪ねる
1、本町プラザ4階「四日市市環境学習センター」
四日市には、この市の施設と、桜地区に「三重県環境学習情報センター」とがある。両者とも主に扱われているのは「環境」で、「四日市公害」はわずかといってよい。
2005年1月、「公書資料館建設を」の声に、環境学習センターの中に、90平方米の「四日市公害資料室」を設けた。四日市市が、姿勢100周年記念事業として「四日市市史」20巻の編纂をするについて、公害関係資料を集め、複製したものである。資料提供者は、四日市市職員労組(公害訴訟を支持する会を含む)、三重県教職員組合三泗支部、吉田克巳三重大教授、沢井余志郎、などのほか、市の公害・環境保全行政資料などである。資料室には、1996年6月から7月にかけ、市立博物館で「公害の歴史展」を開催したときに掲示したパネルも展示してある。歴史展のサブタイトルは“公害の街から環境の街へ”とうたっていた。
2、第2コンビナート
文字通りの白砂青松の午起海岸を埋め立て、大協石油(現コスモ石油)、協和油化、中電四日市火力、などが建設され、1963年6月に運転が開始されるとともに、騒音、振動、悪臭、すす、有毒ガスなどの発生で付近住民は苦しめられた。
母親たちはすすで汚れた洗濯物を持って、火力ヘ抗議行動をおこすなどした。火力は、付近の住宅で洗濯されたものを集めて廻り、工場内に設けた乾燥機で乾かし、各家に届けるなどして急場をしのいだ。
市営住宅に入居していた人たちは、公害を逃れ、西部の山の手などに転居した。持ち家の人たちも、終の棲家としていたのに、住める状況になく、転居せざるをえなくなり、跡地を工場が買い取り、従業員の駐車場などにしている。
工場のある埋立地は、三重県知事によって「三郎町」となずけられた。当時の、市長、中電社長、大協所長はいずれも「郎」のつく名前であったことからであるが、三郎町には工場があろだけで、住民は一人もいない。
1975年2月、大協石油は灯油タンク火災をひきおこした。2度目のタンク火災で、火の手と黒煙はものすごく、簡単に消火できる火事ではなかった。
中電四日市火力は、判決後、橋北地区公害患者会の青空要求に対し「亜硫酸ガスは出しているが公害は出していない」と言ってのけ、中電はあくる日、その所長をを転勤させた。判決後、66万キロのほかに55万キロを増設、燃料を重油から天然ガスに切り替え、煙突を、前からある120米2本のほかに200米の煙突を立てた。
3、第3コンビナート
霞ヶ浦海岸を埋め立て、第三コンビナートを誘致することを県・市が計画、1967年(昭和42年)2月市議会に議案を提出、議会は傍聴席につめかけた満員の住民の見守るなか、強行採決で決めてしまった。これによって、四日市でたった一つ残された海水浴場が無くなる事になった。
この年の9月1日、磯津の公害患者9人が公害裁判を提起起し、以後、埋め立て、プラント建設は、裁判と同時進行で進み、判決の年の2月1日、営業運転開始。この日は、5年を要した公害裁判が結審した日でもある。
第三コンビは出島方式で、新型のプラントだから公害の心配はない、もし、公害が発生したときは、市とコンビとで結んだ公害防止協定によって市が責任をもって解決をすると約束した。ところが、運転開始早々、悪臭が発生、付近住民が、市長に会ってなんとかしてほしいと言ったら、市長は「味噌やの前に行けば味噌の匂いがする、コンビが出来ればコンビの匂いがするのは当たり前」と言うので、住民はあきれて帰ってしまった。
このコンビは、新大協和石油化学(ナフサセンター)が中心で出発したが、現在は東ソー(東洋曹達)となっている。東ソーはエチレン30万トン余の増設をすべくアセスメントを実施、行政の認可を受けているが、建設の気配はない。
大協石油の頃、原油と製品のタンク基地を作るとして、霞の先端の土地を購入していたが、20年後も空き地のまま放置、コスモ石油は、その土地に中部電力に売電する火力発電所を作った。(22万キロ、計画ではあと22万キロをつくる)。燃料は、製油所での残渣油を焚いている。昭石は売電ではなく、もう一度、ガソリンや灯油を抽出するプラントを、三重火力の跡地を借りて建設した。
霞の北半分は、四日市霞埠頭で、コンテナ船や、石炭船が寄港、ホンダ鈴鹿工場ででつられた車の輸出港にもなっていて、たくさんの車が輸出をまっている。
四日市港開港100年を記念してと、100メートルの高さのポートビルを100億円近い金で建設。80メートル付近に展望室が設けられている。四日市港管理組合は、三重県と四日市市の出資で運営されている。
組合は、トラック輸送をスムースにするためと、霞埠頭から、貴重な砂浜の残る高松干潟を通る専用道路を作ろうとしている。
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