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四日市ぜんそく
四日市公害裁判
記録「公害」
小5授業実践
論文

四日市公害被害地(第1コンビナート地帯)を訪ねる

 四日市は、江戸時代より菜種油の生産が盛んで「伊勢水」としてその名をとどろかせていた。四日市出身の作家・丹羽文雄は、四日市をえがくときは、好んで“菜の花”をとりあげている。

4月9日は海山道の稲荷祭にあたっていた。朝早くから午後になっ ても、海山道参りの人々は菜の花に埋まって歩いていた。
 1936年(昭和11年)『日本評論』4月号、“菜の花時まで” 1960年代前半、公害が激化する頃、菜の花畑が田園から消えていった。

1、公害銀座

 塩浜の第1コンビナートが操業を始めてから、西側こ隣接している通称“塩浜街道”は、悪臭、粉塵、なと五感でとらえられる公害現象があり、街路樹の葉も年1回生え変わるのではなく、2回、3回とかわっていた。公害に強い木として工場ま、夾竹桃や、かいづかいぶきなど植えているが、亜硫酸ガスに強いといっても枯れることもあった。そうしたこともあり、塩浜街道は“公害銀座”とも呼ばれていた。

2、第1コンビナート(臨海部)

 北から南へ、曙町から大井の川を渡ると、塩浜街道の左・東側にあるのが、第1コンピナートの工場群で、公害ぜんそく裁判の被告六社の四日市工場が所在している。

三菱モンサント》この工場は、生産量は、少なかったとはいえ、鍾化とともに、PCBを生産しており、製造禁止になったあと、PCBが回収され、焼却処分されることになっている。またこの工場は、PCB、カドミウム、水銀、などの有害物質をドラム缶につめ、鈴鹿市の山森へこっそりと埋めていた。気づいた住民が騒いだので、県と工場ま60本程度と言ってたが、掘りださせたら、なんと1243本もでてきた。(1974年4月)

三菱化成工業》この工場は、カーポンプラックほかを生産しているが、黒い微粒子をまきちちし付近の住民は、洗濯物を干すのに困ったり、一日に何回となく畳など申拭き掃除を余儀なくされた。
 ぜんそく裁判では、モンサントとともに、破津から遠く離れているので工場の煙突からの煙は到達しないとの計算式を提出。両工場の計算式をそれ以外の工場にあてはめると、磯津に到達することになった。

 《三菱油化》 コンビナートの心臓部となる工場で、粗製ガソリンのナフサを分解、主原料となるエチレンを分解、パイプでつながった各工場こ送ったり、タンクローリーや貨車で出荷しているが、近年、工場のエチレンプラントを撤去、輪入や第3コンビナートの東ソ一から供給をうけている。
 ぜんそく裁耕の始まった1967年12月、当時の九鬼市長は、三菱油化の加藤寛嗣前総務部長を助役にした。(加藤氏はその後5期20年間、市長となった)
 1972年7月のぜんそく裁判判決を前に、三菱油化河原田工場建設は地元住民の反対が強く、6月2日、建設断念に追い込まれていた、判決は工上側敗訴が明らかとなる、そんな時に、東京駅前の丸ビルの本社では、会社の危機をよそに、重役の造反で、岡社長が引きずりおろされ、三菱銀行から送り込まれた専務が社長となるクーデターが行われていた。このクーデターの一部始終は、清水一行の小説『背信重役』(徳間文庫それ以前は、集英社文庫、その前は角川文庫)にとりあげられている。

 この3社は、国際競争カをつけるとして、1994年10月1日に合併、東洋一の大石油化学会社「三菱化学」となった。
 その前日、ぜんそく患者の“かけこみ寺”となっていた、県立塩浜病院が閉鎖されている。

昭和四日市石油》 徳山、岩国、四日市にあった、陸海軍燃料廠跡地の払い下げをめぐっての争奪戦の末、四日市は三菱とのコンビナートを組むことを条件に昭和石油に払い下げとなった。
 昭石は、裁判の進展にあわせ、8万バーレルのプラント増設をしていたが、判決直後の患者側との交渉で「了解なしには運転は開始Lません」との誓約書を提出していたが、患者側の政治家、労組幹部、学者などをてなずけ、運転開始の既成事実をつくりあげた。
 昭石の社員で、住民がぜんそくなどの被害に苦しんでいるのに従業員は同情するどころか、判決で会社が敗訴したことを悔しがることに腹ををて、定年前に退社、公害裁判と工場内での出来事を「罪の量」(つみのかさ)と題した小説を成井透さんが、1986年に出版した。(星雲社・発売)

中部電力三重火力発電所》 1955年、石炭を燃料に発電を開始、昭石が操業を始めるとともに、重油に切り替えていった。タービン・発電機の冷却こ生物ゼロの四日市港の水を使い、反対側の磯津の鈴鹿川に放流、沿岸の魚が油くさくなり、売り物にならず、放流口の付け替えを要求したが受け入れられず、漁民は1963年6月、排水溝実力封鎖を行ったことで、県知事が現場にきてさかなの試食をしたが、一口、口にするや「臭い」と吐き出した。居合わせた中電社員は「おいしい」と言って食べた。
 電力発電は34万1千キロワット、1〜4号機、67メートルの煙突4本は公害裁判のなかで、120メートルの煙突2本に変わっていった。
 この発電所は、(1982年(昭和57年)運転休止、1989年(平成元年)6月、取り壊しが決まった。公害裁判判決から17年後のことで、1990年に解体工事があり、その姿を消した。この頃の公書認定患者数は861名であった。
 解体後、隣の昭和石油が跡地を借り受け、重油から、ガソリンや軽油を作り出すプラントを建設、操業している。煙突の先端にワッパみたいなものがついている2本のところが、発電所あとである。

石原産業》) ぜんそく裁判の被告工場(民事)のほか、廃硫酸を1日20万トン、計1億トンをたれながした容疑で、四日市海上保安部に摘発され、津の裁判所での刑事裁判で10年間の審理をとうして「工場有罪」の判決があり、控訴せず、判決に服した。
 この工場は、酸化チタン製造の過程で大量の放射能を含む産業廃棄物を出していて、この産廃アイアンクレイは金を出して捨て、その上に山土で覆うことをしていたのに、いつのまにやら、三重県が有価物に認定、1トン500円とかで、産廃シールを張替えての商品にしていたのが、四日市大学講師の河田昌東さんなどの市民団体の調査・摘発で問題化、有価物としての生産を中止。埋め戻し材とどして使われた岐阜、愛知、三重の住民や議員などが、撤去を要求している。また、3県の議員が三重県にリサイクル製品としてフェロシルトの認定を取り消すように要請している。

3、近鉄塩浜駅

  コンビナート工場へ働きに行く、社員、下請け労働者などで、朝晩賑わいをみせていたが、最近はそうした賑わいは見られなくなっている。公害がひどい頃、近鉄電車で通勤している人たちは、「目をつむっていても匂いでわかります」と言っていました。

4、四日市商業高牧(全日制・定時制)

 数キロ離れた西部地区へ移転。跡地を三菱油化(現・三菱化学)が買い取り、事務所や厚生施設を作っている。

5、塩浜中学校

  1キロほど離れた近鉄線路西側に移転し、跡地を昭和石油が買い取り、厚生施設や運動場として使用している。

6、県立塩浜病院

 第1コンビナートとは道路一本べだてたところにあり、ここには、空気清浄室(24凍)が設けられ、重いぜんそく患者が入院、裁判の原告患者もこごに10年以上入院をしていた。ぜんそく発作は、夜中から明け方におき、救急へかけこんでくるので、午後5時を過ぎると駆け込んでくる患者のカルテを守衛所へ置き、すぐに治療がうけられるようにしていた。
 三菱3社が合併、大化学会社となった前日の1994年9月30日、閉鎖された。
ぜんそく患者が居なくなったわけではないので、ぜんそくの診療所をつくってほしいと陳情、市は、近くにプレハブの家を建て、2年間、受診状況をみてどうするかを決めるとしたが、夜の限られたわずかな診療時間では、受診をしようもなく、2年間で止めてしまった。患者さんのなかには、塩浜病院の代わりに建てられた、県立医療センターへ、30分ほどかけて通院している人もいる。

7、塩浜小学校

 公害病認定地区にある12の小学校のなかで、塩浜小学校は、もっとも被害をこうむった学校といえる。
 児童は、通学のときには活性炭の黄色いマスクをかける、授業のはじまる前教室で上半身はだかになり乾布まさつ、蛇口が40個ついたうがい場で一日6回、う2回はくすり(重曹)でうがいをする。こうして公害に負けない体力づくりをしていた。それでも、ぜんそくに侵される子どもが出て、判決の年の1972年には56名の公害認定患者が定いた。
 教室には空気清浄機があり、体育館には地域の人たちの避難所にもなるようにと、大型の空気清浄機が備え付けられていた。

8、磯津

 ここには1キロ四方の土地に630所帯、1700人ほどがすみ、漁業で、公害以前は栄えた漁師町です。いまは、漁業が衰喝し100人ほどの高齢漁師によって漁が営まれている。(最盛期には400人をこえていた)。
 四日市公害の激陣地で、判決3年後の1975年には173名の公害認定患者が発生していた。現在も70名ほどの欝定患者がいる。
 災害避難所として、磯津も塩浜病院跡の健康センターに指定きれているが、磯津橋を渡って、パイプの下を通って、しかも低地になっている所へと、どうやって安全が保てるのか、往民は不安を感じている。

9、臨海部だけではたりず、内陸部の河原田地区にも、三菱化学(旧油化)川尻分工場、JSR(日本合成ゴム)、味の素、松下電工、など中内陸部の工場がある。三菱油化は、川尻工場のほかに、内部川の南側に河原由工場を建設すべくほとんどの地権者の同意を得たが、少数ながらも公害拡大反対を訴えた住民グループによって、地権者の同意撤回があいつぎ、ついには公害判決の年の昭和47年6月(判決は7月)三重県知事に建設断念を申し入れた。三菱化学は川尻のエチレンプラントを撤去した。

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