四日市公害学習 2005年版
石油化学コンビナート
石油(原油)を350度の高温蒸気で分解すると、プロパンガス、ガソリン、ナフサ、灯油、軽油、重油などに分かれます。このうちのナフサ(10%)をコンビナートの心臓部になる工場が、それぞれの工場へ製品化するためのガスに分解してパイプを通して送ります。第一コンビナートでは三菱化学(三菱油化)、第二と第三は東ソー(新大協和石油化学)がそれでエチレンセンターと呼ぱれています。
「コンビナート」ということぱはロシア語で「結合」という意味で、四日市ではこのロシア語が市民の"日常語として使われるようになった頃、公害がひどくなっていったといえます。
第一コンビナートは、1955年(昭30)12月中部電力三重火力発竃所が石炭を燃料に発電を開始、昭和四日市石油が1958年(昭33)4月、三菱油化四日市工場が1959年(昭34)6月、と操業を開始、日本合成ゴム、松下電工、味の素、などの内陸部にも工易が作られていった。
第ニコンビナートは、1957年(昭32)11月白砂育松の海岸埋め立て工事に着工、1963年(昭38)6月、中部電力四日市火力発電所や大協石油午起製油所、協和油化がっくられた。
第三コンビナートは、公害ぜんそく訴訟提訴の1967年(昭42)に、四日市で残された海水浴場・白砂青松の海岸をつぶし、埋め立て工事が進められ、公害訴訟判決の1972年(昭47)2月に営業運転を開始。新大協石油化学(現在・東ソー)、をナフサセンターとして、協和油化、上野製薬、などの工場が次々作られていった。
四日市石油化学コンビナートは、日本で最初の本格的な大規模なものとして、しかも水俣とならぴ、戦後の公害の原点として有名になり、各地で火カ発電所や石油化学コンビナート建設計画がおきると、“ノーモアヨッカイチ"で住民たちが四日市を訪れ被害調査をするなど、反面教師とした。三島・沼津や銚子は進出を阻止した。
くさい魚
伊勢湾の魚は、木曽三川(揖斐・長良・木曽川)のきれいで豊富な真水と海水がほどよく混ざり合って「うまい魚」との評判がたっていました。
ところが、1960年(昭35)、「高級魚」として出荷されていた魚(スズキなど)が油くさいなどの理由で送り返されてきたり「伊勢湾の魚はくさいので厳重検査をする」などの通告がだされるなどで、漁業がなりたたなくなりました。
1955年(昭30)に操業を開始した中部電力三重火力発電所は、発電機のタービンを冷やすのに、生物ゼロといわれる四日市港の海水を汲んで使い反対側の水のきれいな鈴鹿川へ流したので、磯津近辺で獲れる魚がまずくさくなり、くさい魚の獲れる範囲は三重郡川越町から鈴鹿市若松にかけては100%におよぶようになった。
これは、排水についての規制・基準がなきに等しいありさまで、工場は汚水浄化をしないで垂れ流しをつづけ、港内は七色に染まり、悪臭もただよっていました。
こうしたなか、磯津の漁民は、当面の発生源である三重火カに「排水を磯津側に流さないようにしてほしい」と交渉を何回となく重ね、平和的な解決をめざしましたが中電は一向に聞き入れず、このままでは生活が成り立たない、あとは排水溝を実力で塞ぐしかないと、中電に最後通告をおこない、1963年(昭38)6月21目決行を決めました。これに対し、警察は100人以上を動員、水上警察、海上保安部の警備艇も出動、中電に味方し、漁民に実力行使をやめるよう圧力をかけました。
しかし、これしかないと決めてかかった排水溝封鎖であり、警察の圧力に屈しないで、廃船を沈め土嚢を投げ込む実力行使を關始したところへ、塩浜連合自治会長が現場へ駆けつけ「今日のところは止めてくれ、県知事を連れてきて解決をはかるから」と懇願したので、中止しました。
一日おいて知事が磯津現地へきました。漁民が実力封鎖の一揆を行ったので知事はほってはおけずにやって来て漁民が用意した魚を試食、一口食べようと口にしたとたん「これはくさい」と吐き出しました。中電杜員は「おいしい」と食べました。
知事が現地へ来てくさい魚を実感してくれたので、発生源の排水溝を変えてくれると期待しましたが、1年3ヶ月後の1964年(昭39)12月、発生源はそのままで、3600万円の補償金でケリがつへられ、若い漁民が手にし
た金は数万円、敗北感が残りました。
しかし漁業をやめるわけにはいきません、沿岸漁業から、伊勢湾を回遊する魚を獲る漁法にきりかえました。
漁業は決められた海域と漁具で行うことになっています。決められたことだけに従っていては漁がなりたちません。海上保安部の巡視船は海域外や違法漁具で漁をしている漁民を見つけるとどしどし検挙、罰金をとるなどしました。検挙された漁民は「工場がきたない排水を流すせいでこんなことをしなければならなくなった。わしらを検挙するんじゃなくて工場を検挙したらどうや」とくってかかったりしました。海上保安部の警備救難課長をしていた田尻宗昭さんは漁民の言い分はもっともだと気づき、以後工場の排水を摘発するようになりました。日本アエロジルの塩酸垂れ流し、石原産業の硫酸垂れ流しなどで、石原産業は、一日20万トン、計1億トンの廃硫酸垂れ流しで刑事裁判にかけられ、津の裁判所で10年間にわたっての審理を経て1980年(昭55)3月有罪判決が出ました。罰金はたったの8万円でしたが、有罪には違いなく、国や県はきびしい法律や基準を設けるようになり、海の浄化が図られるようになりました。
海水がきれいになってきたとはいえ、魚がすぐに復活することにはならず、漁獲高は少なく、漁師を継ぐ人もなく漁業は衰退しています。
四日市ぜんそく
「工場がくれば市は発展する」と市長などに言われ、住民は喜んだ。しかし、工場の操業開始とともに、悪臭、煤塵、ガス、騒音、といった、見える聞こえる臭う公害が噴出、住民を苦しめ、1960年(昭35)4月、塩浜地区連合自治会は「夜もおちおち寝ていられない」と最初の異議申し立てを平田市長に行い、対策をせまりました。
あくる年の3月、市の測定中問データがまとまった、「磯津地区の亜硫酸ガス濃度は、他地区の6倍」が明らかになり、このデータを裏付けるように、新しい型の“ぜんそく発作”にみまわれる患者が発生しだした。また同年9月、塩浜連合自浩会は、地区住民のアンケート結果をもとに、
1、工場誘致は必ずしも都市の発展につながらない。
2、公害防止策の早急な制定を。
3、公害による人体影響は老人と子どもに特にいちじるしい。
と発表しました。
磯津では、この年の夏、町内の中山医院に、ぜんそくもちでない家の人で発
作をおこした人たちが診察を受けに来るようになり“塩浜ぜんそぐ”と呼ぱれるようになり、第ニコンビナートの操業開始以後市内中央部や橋北地区にも患者の発生があり“四日市ぜんそく”と呼ばれるようになりました。
磯津を含む塩浜地区でのぜんそく患者発生について、当時国保の本人負担は5割という高額なこともあり医者にかかれない人もいて、塩浜連合自治会は会計から20万円を支出、公害と思われる患者の自己負担分を肩代わりする助け合い制度を始めましたが、3ヶ月ほどで使い果たし、中止のやむなきにいたりました。
こうした住民の助け合い制度は、のちに市医師会のはたらきもあり、四日市市をして独自の「公害病認定制度」を1965年(昭40)5月から実施させることにっながりました。この制度は、「大気汚染地区に一定年数住み、4つの病気、慢性気管支炎、気管支晋んそく、ぜんそく性気管支炎、肺気腫にかかっている人を、申請にもとずいて認定審査会が認定するもので、認定患者になる
と医療費は払わなくてもすむことになりました。
しかし、生活費までの面倒はみてくれないのと、四日市ぜんそくは四日市を離れると発作がおきないということもあり県立塩浜病院に入院していた野田之一さんたち漁師は午前3時半ころ看護婦さんに起こしてもらい、磯津の港から漁船にのり伊勢湾の沖に出て漁をやり、夕方帰って病院の空気清浄病室で寝る生活を余儀なくされました。
1966年(昭41)7月、大協石油四日市製油所の正門前に住んでいた木平卯三郎さん(76)が、自宅の2階で首吊り自殺、「死ねぱ薬もいらず楽になる」との遺書を残していました。木平さんの追悼集会で、磯津の公害患者の中村留次郎さんは「弱いものは束になって死ねというのか」、人権擁護委員の小林けい子さんは「コンビナート進出の一つの決算が、善良な市民の死だった事実
を市長さんはどう考えるでしょう」と語っていました。
ぜんそくは、老人と子供、その日暮らしの市民という弱者がかかり、汚染地区から引越したくても自費ではむりです。
こうした自殺する悲劇を生み出す公害に、行政は手をこまねいているばかりか、第三コンビナート誘致を推し進め、翌年6月には大谷一彦さん(60)が「九鬼市長、ぜんそくをやってみろ」といった日記を残して自殺しました。
第三コンビナート誘致を止められなかった弱体の市民運動、市長の意に従う市議会に、前途に希望はもてない。県立塩浜病院に入院中の磯津の患者9人は、弁護士と支援者からの訴訟(裁判)提起の誘いを受け、親戚や地域の人たちの反対の中「このままでは死ぬのを待つだけ・・」と裁判にふみきることにしま
した。
第一コンビナート6杜を相手取っての「訴状」は、1967年(昭42)9月、津地方裁判所四日市支部へ提出、その年の12月1日第一回の口頭弁論が開かれました。ところが、九鬼市長はこの裁判にこともあろうに被告6杜の中心である三菱油化の総務部長の加藤寛嗣さんを助役にしました、これは「市は6杜と一緒になって、患者側と戦うぞ」との意志表示にほかなりません。
6杜は、「悪いガスを出しているのはうちではない、隣の工場でしょう」と裁判になる前、磯津の住民にくりかえし「うちじゃあない」「うちじゃあない」と言っていた責任逃れを裁判のなかでも繰り返していましたが、54回の口頭弁論を経て、1972年7月24日「原告患者側勝訴判決」が下されました。
野田さんは判決報告集会で「裁判では勝ちましたがこれで公害がなくなるわけではありません、なくなったときに“ありがとう”の挨拶をさせてもらいます」と支援者たちに話しました。言葉には出しませんでしたが、「うちじゃない」「うちじゃない」といい続けてきた工場が加害者であると判決で明らかになった、これからが本当の公害反対闘争になります、がんばりましょう、と野田さんは言いたかったのだろうと受け取ったのですが、“ばんざい”の余韻が消えていくのとおなじように、運動は消えていったり、反動の動きが現れました。
判決は、住宅に隣接して工場を作った
・立地上の過失、最高の公害防止をしないで操業した過失、工場がはきだす煙の中にふくまれるガスによって患者が発生したことはあきらかであり6杜は共同不法行為にあたる、
といった内容で国や県は新たな法律を作ったり、規制基準を強めたりしました。工場はそれらをまもるようにしたので大気汚染の改善が見られるようになりました。このことからいっても、裁判を起こさなかったら、栽判で負けていたら、四日市の人々だけでなく全国の大気汚染地区の人々も、もっともっと長い聞ひどい目にあったといえます。
自然・環境破壊
四日市は伊勢湾に面した海辺の街です。なのに海岸は工場などによって、コンクリートで固められた岸壁で、本来海辺にある砂浜・渚も松林もありません。これは異常事態です。磯津漁師町の子供が泳ぎを覚えるのにスイミングスクールヘ通うなど、どうみても不自然です。
野田さんは公害学習で訪れる小学生たちに
「コンビナー一トが出来る前までは磯津の浜には大きな松がたくさんあったのに今は一本もない。町の中にも大きな木は一本もない。君たちに、わしの故郷はいいとこやって自慢できないのがつらい。一度壊された自然は元にはもどらん、君たちの所の自然はこわさんようにな・・・。コンビナートが出来れば良くなると喜んだけど結局は損をした。」
と、寂しそうに話しています。
災害
東海地震を想定しての対策が図られています。
コンビナートの各工場はパイプでつながっています、地下に埋設されたパイプは300キロメートル、軒下を通るパイプは60キロメートル弱、タンクから500メートル以内の学校・病院は5箇所、民家は1500戸あるといわれています。
あってはならないコンビナートの工場での事故は時々発生しています。通常時でも起きている事故ですが、地震時の事故を想像するだけでも怖い思いがします。
環境再生
公害という苦い経験・負の遺産を転化、市民にとってのまちづくりプランを「環境再生」をキーワードに検討しようと、公害・環境で優れた学者・研究者の調査・研究と市民運動による「四日市環境再生まちプくりプラン検討委員会」が7月24目の公害判決32年にあわせ、7月31日、市民と学者・研究者220名の参加で「第一回シンポジウム」が開催され、運動が開始されました。
一方、県下唯一の国立総合大学である三重大学が、個々の研究室の取り組みではなく、大学として地域の負の遺産である四日市公害に取り組むとして今年4月から共通教育の総合科目「四日市公害から学ぶ四日市学」を開講、7月24目に第一期のまとめともいうべき「国際環境シンポジウム」を開催しています。
塩浜小学校と公害
塩浜小学校は、三浜、納屋、東橋北とならび公害被害のひどかった小学校でしたが、中でも塩浜小は激甚校でした。
1945年(昭20)夏、米軍の空襲で焼かれた塩小は、敗戦後現在地の、当時海軍燃料廠が工員の工作室・集会室に使っていた所へ移転して急場をしのいだ。なかでも講堂はトタン屋根で雨漏りがしたり、講堂のど真ん中に丈夫な柱が十数本もあったりでなにかにつけて都合の悪いつくりで、早くから建替えの要望が出されていた。ところが、コンビナートの操業拡大などがあり、公害
がひどくなった。悪臭や亜硫酸ガスの濃度が高いときに全校児童を安心して非難させる場所にすることを兼ねての講堂と、さらには、体育館にも兼ねさせるという、しかも冷房装置のある、全国にも例をみない公害用の講堂が1967年(昭42)にできあがった。この年は塩小校区の磯津の公害認定患者9人(塩浜病院入院中)が塩浜第一コンビナート6杜を相手取っての公害訴訟の訴状を提出した年である。
塩浜小では、公害に対処するためにとった対策は、
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【芝生と植樹】
ほこりをたてないために、運動場の一部に芝生を植え、スプリンクラーをとりつけ、風のあるときには水まきをしていた。(現在はとりはずしてない)
また、亜硫酸ガスや悪臭に強い木を学校の周囲に植え、公害の影響を少しでも減らすようにした。植えた木は、かいづかいぶき、さんごじゅ、まさき、黒松、ポプラ、ユッカ、ドラセナ、いちょう、などで、児童や教職員が挿し木をして育てもした。周囲にこれだけの植樹がしてある学校は塩小だけである。
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【空気清浄機】
悪臭がひどかったり、亜硫酸ガスの濃度の高いときに使用するようにと、1964年(昭39)「公害が学校教育に与える影響調査」の資料を集めるとのねらいで、塩浜・三浜・東橋北の三小学校に2台ずつ、同地区から遠い川島、三重、両地区の中聞にある四郷、羽津の各小学校には1台ずつの計10台を、いずれも四年生の教室に置いた。
その後、塩小の全教室に取り付けられた。冷房装置はついていなかったので特に夏などは使わなかったこともあったようである。
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【公害マスク】
1965年(昭40)4月、塩浜、三浜、納屋、東橋北の四小学校の全児童約3300人に、市がくばった。このうち、塩浜小学校では、189人の新入生を含め全校1059人の児童にくぱった。「スモツグのひどいときや、においのきついときにかけなさい」とマスクの使い方を教えていた。このマスクは活性炭がしみこませてあり、黄色に染めてあることから“黄色いマスク”と呼ぱれ、一躍公害の代名詞にもなり、全国に知られることになり、東京江戸川の小学校の校長先生たちが調査におとずれ、江戸川の小学校でもこのマスクをかけさせるようになった。このように、このマスクは、四日市公害をなおいっそうその名を高めることになったので、かねて「公害はありません」といってはばからなかった九鬼喜久男市長は3年目からくぱることをやめてしまった。
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【乾布まさつ】
毎朝始業前に教室で、上半身はだかになり、塩小の作詞作曲になるレコードでおこなった。夏休み、冬休みもラジオ体操のかわりに家庭でおこなうようにした。
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【うがい】
一日6回、うち2回は重曹で、あと4回は水でのうがい。昭和40年代前半頃は木造校舎で、うがい場は一階のはしや、運動場の手洗い場などで、蛇口も少なくならんでしていた。
鉄骨校舎になつてからは、現在みられるように、蛇口が40個ついたうがい場が各階2箇所、計6箇所つくられた。いまは手洗い場になり手洗いの注意書きの紙がはられているが、その下には、「うがいのしかた」が書かれている。
ただしいうがいのしかた
頭をうしろにさげるようにしてうえをむき、目はてんじょうをみる。
口をあけて「がらがら」と10回ぐらい声をだしてはきだす。これを
3回くりかえす。
のどのおくまで水を入れてよくあらいだす。
一日、6回する。(2回はくすりで)
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【その他〕
☆公害資料センターを設け、児童が、公害の実態を目でやかるような図表、
模型などを、2階の口ど一に展示して、学習させていた。
★ 公害の発生源関係 ★ 大気汚染の種類と実態
★ 公害病の種類と容態 ★ 児童の健康調査関係
★ 公害病の対策等
☆給食と食生活の指導では、公害地で大切な、にんじん、トマト、ミルク、しいたけ、肉、油こいものを好きになるように指導、それと、気道の粘膜が障害をうけるので、これを保護し強化するために、ビタミンAとDが効果があるというので、ADの肝油を一日1粒服用。家庭でもADを多く取り入れるよう調理講習会と献立コンクールを実施。
公害の最もひどかった頃(昭和38年から10年ほどの間)塩浜小学校の児童・教職員は大変な学校生活をよぎなくされていたが、公害病認定児童は他校より多くなっていても、当時、正面玄関にはところせましと健康優良校の表彰状が張り出されていた。
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【公害病認定児童】
公害裁判判決の年 1972年(昭42)・73年 56名
74年 52名 75年 53名 となっている。
ぜんそく発作は夜中から明け方におこしやすく、発作をこらえるのに全力を使い果たし、朝方おちついて寝込むので学校を休ませる。昼問は発作がないので、外へ出て遊ぶ、近所の人は発作で苦しんでいたことを知らないので「あの子はいつも学校をずる休みしていると陰口を言われているのがつらい。」となげいでいた。そとへ東海テレビが四日市公害のドキュメント番組をつくりたいといってきたので、世間にしってもらうにはこれがいいと、深夜発作をおこしたときカメラにおさめるべく待機し、その女の子(磯津の塩浜小学校3年生)が発作で苦しむ様を収録、「あやまち―1970年夏 四日市」を放送した。そのなかで、くりかえし、塩小の運動場にならんだ児童が校歌を歌う場面があり、校歌の中の、“工場は希望の光です”のくだりがそぐわなく、そのことがあってか、昭和45年の卒業式から歌われなくなり、2,3年後、校歌の一部をかえた。
校歌ということでは、“県立四日市南高校も作詞者谷川俊太郎氏の「こんなはずではなかった」の反省の文章を雑誌「世界」に寄稿、改作した。富田中学校はある年の4月、新入生に生徒手帳をわたし、「白砂青松の・・」とある一番の歌詞を消させ、二番を一番にし、四番まであったのを三番にしでいる。
塩小でぜんそく発作のひどい子は、四日市ぜんそくは四日市を離れると発作がおきないという特徴もあり、川合町の塩小3年と5年の女の子は、一志郡白山町の県立一志病院に入院、隣の家城小学校へ通う、病院ではスパルタ教育をほどこし、冬も冷水摩擦などを徹底、家族との面会は月一度だけというきびしさで、子供も親もつらい日々で2年ないし3年すると治ったようになる。ここ2年ほど家城小の5年生が、公害学習で塩小に来られたとき付き添いの先生が当時ぜんそく児童の“わかあゆ学級"におられたと話されていた。家城小は塩小で学んだあと、当時の事情を知る人、(7年間家城小に勤務)に教室にきてもらって四日市などから来ていたぜんそく児童の話をきかせてもらったとのことであつた。
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【公害学習で訪れた小学校】5年生
2001年 多気明和町立斎宮小学校、 松阪市立大河内小学校
上野市立中瀬小学校 同・久米小学校 白山町立家城小学校
阿山郡伊賀町立西柘植小学校 久居市立榊原小学校
員弁郡東員町立笹尾小学校 三重郡町立竹永小学校
亀山市立白川小学校 四日市市立塩浜小学校 同保々小学校
同三重西小学校 同高花平小学校 同富洲原小学校
*四日市の5校は、それぞれの学校で。
岐阜県大垣市立赤坂小学校
*中学校は2年生、奈良教育大学付属中学校 岐阜県南濃町立養南中学校
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【四日市ぜんそく】
四日市市が単独てき始めた「公害病認定制度」は1965年(昭40)5月で、その後国が全国で実施するようになった。その認定制度は1988年(昭63)2月で廃止きれてしまったが、この間に認定された患者は2035人をかぞえている。
このうち、4名が自殺された。楠町では162名が認定されている。
小中学生では、海蔵小で2名、中部西で1名、塩浜中で1名が、公害病でなくなった。親たちが、「ぜんそくでは死なない」と子供に言い聞かせていたが、現実に死ぬ子が出て「僕も死ぬのか」と子供に問われ親たちが困っていた。
現在認定患者は、500名弱、空気がきれいになってきた分、発作に見舞われる回数が減ったり、発作がおこらなかったりだが、治ったとは言い切れないようである。
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