四日市公害ぜんそく裁判

 四日市市の南東部に位置する塩浜地区の第一コンビナート(火力発電、石油精製、化学)が、本格操業を始めてから、鈴鹿川を隔てて隣接している磯津の町で、開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状を訴えて駆け込む患者が急増した。1961年(昭和36年)夏のことだった。

 この漁師町の磯津で、ぜんそくといえば、「あそこの爺さん」「こっちの家」といえるほど、限定されていたのに、同じころぜんそく発作で、医師へ駆け込む人たちは、そうしたぜんそく持ちの家の人たちではなく、しかも、漁で沖に出れば何ともないわけで、「こいつはおかしいぞ」「工場がくるまではこんなことがなかった」「工場の煙に何か有害ガスが?」「犯人はコンビナートの煙に違いない」と、PPMも、SO2も知らなかった磯津の人たちは、亜硫酸ガスの恐ろしさをまず身体で知らされた。
 
コンビナートの工場が、海軍燃料しょう跡地を、国から安価で手に入れ、次々に工場を建設、立地条件を全く無視してのことで、塩浜の海岸部のみならず、内陸部にもパイプでつながる石油化学工場を建設。次には、午起海岸を埋め立て第2コンビナートを建設、塩浜ぜんそくは、四日市ぜんそくと呼ばれる広がりをみせていった。
  コンビナートで大量に使用される燃料の重油は、硫黄分3%前後という質の悪いもので、排出される亜硫酸ガスなどの有害ガスが、すっぽりと住宅を包み込み、人々に被害を与えていった。
  さらに、この亜硫酸ガスは、空気中で硫酸の霧、硫酸ミスト(SO3)となり、トタンなどを腐らせるほどの被害を人体にも加えていった。
 被害は、主に体力の弱いもの、子供や老人に早く現れ、しかも、低所得層に顕著であった。

 こうした、人々の苦しみに、塩浜地区連合自治会や、四日市医師会、それと心ある人たちが、発生源対策と患者救済の要求を市に突き上げ、当時の平田市長をして、“公害病認定制度”を1965年(昭和40年)5月から発足させた。この制度は、申請に基づき、医療審査会が公害病として認定すると、保険の医療費自己負担分を市費で支払うというもので、第1回は18名(うち入院が14名)で、毎月、認定患者が増え続け、3年後には521名となったが、申請しない未認定患者はこの何倍かに達していた。
 こうした患者救済も、医者代はただになっても、生活保障はなかった。入院中の認定患者で、漁師は朝早く病院を抜け出し、ガスの来ない沖合で漁に従事し、夜は空気清浄室で寝るという生活を余儀なくされた。公害発生源企業の操業は、増えることはあっても減ることはなく、白い霧は依然として襲いかかり、ついには1966年(昭和41年)、公害ぜんそくを苦に、首つり自殺するという痛ましい犠牲者が出た。
 にもかかわらず、県、市は新たに第三コンビナートを誘致することを市議会にはかり、満員の地元反対住民が見守る中、強行採決(1967年2月)で決めてしまった。
 その議会を傍聴席で見つめていた公害患者の大谷さんが、この年の6月、マイカーでの公害避難にも疲れはて、首つり自殺してしまった。

白い霧との戦い 法廷へ

 1967年(昭和42年)9月1日、「死者まで出した公害が、法治国家で許されてよいはずはない」(原告患者弁護団)。「企業へも、行政にも、いくら頼んでも、俺んとこじゃない、うちじゃない・・・あとは裁判しかない」(原告患者)と、10年に及ぶ受忍の末、磯津の患者9人が、塩浜第1コンビナート6社を相手取っての公害訴訟を起こすことを決意した。

 この日、訴状が津地方裁判所四日市支部へ、北村利弥弁護団長らの手で提出された。
 この訴訟を支援するため、革新団体などによって「四日市公害訴訟を支持する会」がつくられ、中心となった四日市市職員労組の書記局に事務局を置いた。
 原告患者の「四日市公害訴訟弁護団」は、東海労働弁護団のメンバーを中心にして56人が代理人として参加した。

弁護団の最終意見

 死者まで出しながら、四日市市は第三コンビナートづくりを進めている。憲法第25条(国民の生存権)は亜硫酸ガスの中で死んでいる。その責任をだれも負うことなく、被害が進行している。この無責任状態にまず終止符をうたせよう。現実の被害に対し、一刻も早く、直接の加害者企業から当然の賠償をさせることによって、もって行き場のない混とんの中に責任追及の一筋の道を切り開こう。最も素朴かつ単純な、直接の加害者への不法行為責任の追及というたたかいを通して、国や自治体の施策の根本も俎上に上がらざるをえなくなるだろう。
 被告を、企業だけに絞ることに、弁護団の中にも異論があった。国や自治体の責任も問いたいということであったが、訴訟を起こすからには、まず勝てることを先行すべきだということと、長期化を避けるということで、企業のみに落ち着いた。
 それとともに、民法の不法行為に対する損害賠償という構成に落ち着き、差し止め請求については当面は行わないという方針で進むことになった。

被告企業6社

原告患者側の「訴状」(要旨)

 被告6社は、原告の住む磯津地区から鈴鹿川をはさんで、約1キロから2キロのところにあり、石油精製、火力発電、石油化学、肥料の生産に従事しているが、その使用燃料として重油を使っている。このため生ずるばい煙(特に亜硫酸ガス)を大気中に排出し、原告ら同地区住民は汚染大気の中での生活を余儀なくされている。
 有毒な亜硫酸ガス(SO2)は、空気酸化で硫酸 ミスト(SO3)ともなり、これを吸うと気管支が侵されて健康を害することは、医学的にも明らかである。
 被告6社はこれを知りながら操業し、亜硫酸ガスを取り除く設備改善もしていない。
  このため、被告の損害発生に対する故意、もしくは、少なくとも過失は明らかで、民法第709条(不法行為)と同第719条一項(共同不法行為)によって、損害を共同して賠償する責任がある。
 原告らが受けた損害は、入院、通院治療費、同交通費などの積極的財産損害と、公害病による労働能力の減少に基づく収入源の消極的損害があるが、健康を奪われたりした精神的損害に対する慰謝料として、原告1人、2,000,000円計18,000,000円。
  財産損害と労働能力の減少に基づく休業補償として、原告9人の計83,426,226円を請求する。

被告企業の答弁書(反論)

  1. 燃料として、石炭とともに重油を使ったことは認める。しかし、原告らの主張する「亜硫酸ガス及び硫酸ミストによる大気汚染の人体に及ぼす影響」と、「損害」について争う。
  2. 石油精製の燃料として重油を使い、そのため若干の亜硫酸ガスを排出した事実、亜硫酸ガスが濃度によっては有害であることは認めるが、原告らが大気中の亜硫酸ガスによって健康を害し、公害病になった事実と損害に関する事実は否認する。
  3. 重油の燃焼過程でばい煙が発生することは避けがたいとの事実は認める。また亜硫酸ガスが濃度によっては有害であるという事実は認めるが、原告らの健康を害したことは否認し、損害発生の有無については、すべて知らない。

原告患者の訴え

 私は入院後、5,000本の注射を打ちこんでもらっています。それでも、この病気にかかった以上は、絶対なおらんと病院側の先生もはっきりと言っています。もう、生きながらえるちゅうもんは薄れたわけです。
 私らは長年この塩浜病院におり、企業側にも1度来てくれっていうことを頼んでも来てくれん。まあ、私らとしては、怒りというか、われわれ9人のものは相談の結果、例のない公害訴訟を起こそうということになったわけです。
 相当の自費を費やすっていうことは私も覚悟しておりますけれども、これをやらなきゃ、今から生まれてくるもの、現在働く若い世代の方が、ここまで苦しめられ、黙って放っておくわけにはいかんがため、平和の礎となるかならんか、それまでも考え、どうしても訴訟に勝ねばならんと、出したわけです。
 みなさんのお力添えをお願いします。

1967年(昭和42年)10月1日
四日市公害訴訟、原告 藤田一雄

公害訴訟を支持する会

会則

1.公害をなくし、命と暮らしを守るために、公害訴訟を勝利させることを目的とします。

2.被害者を物心両面から支援します。

3.多くの人々に呼びかけ、運動を国民のものに広げていきます。

4.会員は、個人加入とし、これを支持する団体は賛助会員とします。

5.会費は、年間、1口、100円とします。

目的

 社会の繁栄の陰に、命を奪われたり、生活を侵されるような矛盾をなくすには、藤田一雄さんたち9名の公害患者が起こした公害訴訟を、物心両面にわたって支援し、勝利させなければなりません。それとともに、こういう被害をなくしていくよう、公害防止を強く要求していきます。

勝つために

 公害患者はますます増えているのに、企業側は知らん顔をしています。市当局も、被害を被る住民の立場に立とうとはしません。しかも、大企業が相手であるだけに、どんな正しい理屈があっても、その通り実現するとは限りません。なんといっても、国民的な大きな世論を高め、企業側をして無責任な言い逃れをやめさせ、裁判官にも、より公平に、より広い視野で、国民のために、この訴訟に取り組んでもらうよう、国民的運動に盛り上げていかなければならんことを、多くの裁判が示していますので、それを目指して進めます。

会員は

 公害をなくさなければならない、反対しなければならない、ということは、公害の本当のことを知ることから始まります。公害を正しく知り、その知識を周りの人々に広め、被害者の人々を激励しあい、この裁判を勝たせるためのカンパ活動や、裁判傍聴、署名活動をしたり、その仲間を増やしたりしてもらいます。

入会・会費

 会費は100円(1口、1年分)。個人で、あるいは出来る限りグループを作り、入会、会費納入をお願いします。入会次第、会員証をお渡しします。入会申込書に、勤務先を記入しにくい人は、空白でも結構です。

訴訟の展開

津地方裁判所四日市支部(米本清裁判長ほか2判事)第1号法廷
事件番号 昭和42年(ワ)第138号
損害賠償等請求事件

原告患者

 精神的損害に対し慰謝料として1人2,000,000円と、労働し得ないことによって得べかりし利益を失った損害賠償として、各自、下記を請求する。

塩野輝美 1645万8146円
中村栄吉  802万0630円
柴崎利明 1512万5430円
今村善助  470万8094円
藤田一雄  595万0814円
石田かつ  402万5765円
野田之一 1616万6488円
石田喜知松 470万8094円
瀬尾宮子  826万2765円

計    8342万6226円

※今村善助さんと瀬尾宮子さんが、判決までの間になくなり、遺族が原告を継承するなどのことがあったので、請求額は上記とは異なっている。

原告側代理人 四日市公害訴訟弁護団

団  長 北村利弥
事務局長 野呂 汎
A班(施設・運動)責任者 野呂 汎
B班(医学・気象)責任者 郷 成文
C班(理論・損害)責任者 安藤 巌

※弁護団は、当初56名であったが、判決1年前には67名となり、その後も増えていった。

被告企業

口頭弁論

「訴状」提出。1967年(昭和42年)9月1日

第1回 1967年(昭和42年)12月1日

 初の口頭弁論が、津地方裁判所四日市支部(米本清裁判長)で開かれ、原告側は野呂汎弁護士が、訴状を力を込めて陳述、原告を代表して野田之一さんが、「この瞬間にも患者が苦しんでいる、一刻も早い正しい審理を。」と、異例の訴えをした。
 一方、被告側、マスコミが「大物」とカッコ付で報じる弁護士を含めた代理人が、「請求の棄却」を要求、「共同不法行為を否認」する答弁書を、予測した通りの陳述をして終わった。

※第1回口頭弁論のあった12月の25日、被告企業6社の中核となる三菱油化の総務部長の加藤寛嗣氏を、九鬼喜久男市長が助役に選任、この日の市議会で同意された。
 公害訴訟で、四日市市は被告にされていないのに、コンビナートの総務部長を市の助役に選任したということは、市の行政当局は、企業と連帯して被告側となり、公害患者、被害者の原告側と一戦を交える宣戦布告に等しい。

追加訴状提出、訴訟救助の申立 1968年(昭和43年)2月23日

第2回 1968年(昭和43年)3月8日

 追加請求の陳述。訴訟救助を、最高裁が許可

第3回 1968年(昭和43年)4月12日

 現場検証の申し出、採用となる。

第4回 1968年(昭和43年)5月24日

 被告企業側の質問、「疾風汚染」「コンビナート」とはなどで答弁。くだらない質問が多く、原告側は「用語辞典で調べなさい!」

第5回 1968年(昭和43年)6月24日

 現場検証の打ち合わせ。原告側の初証人として、大阪市立大の宮本憲一助教授を申請。

現場検証

第一日 1968年(昭和43年)7月24日

原告患者住居地の磯津(各原告宅と磯津公民館前の亜硫酸ガス測定所)。
 被告代理人が、銭湯の煙突と花畑を撮影(検証)するよう申し出ていた。
 その後、昭和四日市石油と中電三重火力を立ち入り検証。

第二日 同年(7月25日)

 石原産業、三菱油化、三菱化成、三菱モンサントの立ち入り検証。夜遅くまでかかった。
 検証では、原告弁護団中、ただ一人の四日市在住弁護士の井上哲夫さんが、先陣をきって、企業に質問(検証)していた。
 両日とも、スモッグ一つない無公害日和。
 原告側は、「法の名において、市民の目が初めて工場の心臓部に届いた」と、この検証を評価。

 

検証を終えた明くる日の朝、煙突からどす黒い煙を思い切り吐き出していた。

第6回 1968年(昭和43年)9月11日

 被告側の反論始まる。気象を重点に、因果関係で、工場から煙が出ているのは事実だが、磯津に届くとは限らない、というもの。

第7回 1968年(昭和43年)9月26日

気象で、激しいやりとり。原告側は吉田克己三重県立大医学部教授、大島秀彦同大付属産研(産業医学研究所)助教授、今井正之同所講師、清水忠彦大阪府立成人病センター医師の4人を証人として申請。

第8回 1968年(昭和43年)10月8日

 原告側が、伊藤彊自東海大教授と、大島秀彦助教授が気象的因果関係を立証する証人として申請。

第9回 1968年(昭和43年)10月24日

 被告3社(三菱化成、三菱モンサント、石原産業)が、鑑定を申請。立証趣旨は、磯津に発病の量だけの排煙は届いていないというもの

 原告側は、原告主治医の柏木秀雄医師を証人として申請。

第10回 1968年(昭和43年) 11月28日

被告昭和四日市石油も鑑定を申請。鑑定をめぐって論争。

第11回 1968年(昭和43年) 12月10日

 原告側申請の7人の証人が採用となり、一年の審理を終わる。

第12回 1969年(昭和44年) 1月30日

 原告側証人大阪市立大学助教授、宮本憲一証人。

@「四日市公害の原因は、住民の福祉を無視した経済本位の誤った地域開発によるものであり、企業の責任であることは明白。」

 四日市の数回にわたる調査の結果。

 四日市にはあらゆる公害が発生している。

 この公害現象は、石油化学コンビナートの進出を契機に短期間に発生している。

 これが、我が国における拠点開発の引き起こした典型的な現象。

などがわかった。

A拠点開発方式は、四日市でも典型的に破産した。

 T.公・災害の続出

 U.既存の産業、つまり、農漁業や地元中小企業の壊滅、衰退。

 V.地方財政の危機で、四日市はヤミ起債まで行っている。

W.地方自治の破壊による中央集権化。

などで、四日市の開発は、利益は中央(企業)、損失は地元へという植民地型開発だった。

B住民の生活環境を考えない立地

 工場立地は、国防、軍事的な面が先行、住民の生活環境を考えない戦時型の立地をそのまま踏襲した。公害が社会問題化したのも、この最初の誤りを改めず、工場移転も、設備の拡張制限もなかった。

C不十分な企業の処置

 大気汚染の防止には、低硫黄重油の使用、排煙脱硫、高煙突、遮断緑地、生産制限の5つの方法があるが、企業はそれぞれについて、不十分な処置しかとらず、緑地帯の設置などは、全く措置をとっていない。黒川調査団勧告以後も、基本的な問題が全く改善されていない。

D企業独自の救済

 戦前の企業は、公害発生以後の対策を独自の力で行い、賠償金、寄付金も、その都度払っている。四日市で企業独自の救済が行われなかったのは問題である。

※原告側弁護団は、「経済学者の宮本証人が、最初に証言を行うことは公害訴訟の本来の意味が認められたことでもある」と高く評価。

第13回 1969年(昭和44年) 2月27日

 宮本証人への被告企業側反対尋問。

 三菱油化、三菱モンサント化成、昭和四日市石油の代理人が反論。証人は「税収増加がプラスだったか疑問」「市税は増えたが、ヤミ起債、公害対策への支出などの見返りは大きい」と答える。

1969年(昭和44年)3月14日
※原告の1人、今村善助さん(78歳)が塩浜病院で、勝訴の判決を聞くことなく死亡。認定患者としては26人目の犠牲者。

第14回 1969年(昭和44年) 3月27日

 宮本証人への被告側反対尋問。

昭和四日市石油、中部電力、三菱化成、石原産業、三菱モンサントの代理人が質問。証人は「企業の責任については、法律的責任ではなく、政治、経済的責任を言っているのだ」と反論。

第15回 1969年(昭和44年) 4月25日

原告側2番目の証人、主尋問。

 吉田克己三重県立大医学部教授。

「疫学4原則 

1、発病の前に原因とみられる特定因子が作用する。

2、量と効果の関係が認められる。

3、流行の特性がある。

4、メカニズムが生物学的に説明できる。

 これらに照らし磯津の原告の発病と、被告の排煙の間には明らかに疫学的因果関係が立証できる」ときっぱり証言。

第16回 1969年(昭和44年)5月29日

 吉田証人への原告側主尋問。

 「亜硫酸ガスの人体への影響へのメカニズム

 亜硫酸ガスの吸入→気管支粘膜のうっ血→せん毛細胞の破壊→気管支、肺炎の障害→心臓への負担」を証言。

第17回 1969年(昭和44年)6月26日

 吉田証人への被告側反対尋問。

 大気汚染の測定方法や公衆衛生の学派などについての質問で、本質に迫る尋問はなかった。

第18回 1969年(昭和44年)9月9日

 吉田証人への被告側反対尋問。

 四日市ぜんそくの原因は、亜硫酸ガスだというのは仮説ではないのかの質問に

 「私が四日市ぜんそくの原因について、調査結果をもとに学会に発表したのは、昭和38年秋だった。それまでは仮説であっても、疫学的な検討を終わった現在では、すでに仮説ではない。調査の結論である。」と証言。

第19回 1969年(昭和44年)10月14日

 吉田証人への被告側反対尋問。

 被告側は疫学調査の方法と集団と個人との関係をついたが、三菱油化代理人は「磯津付近は以前、菜種の栽培が盛んだったが、この花粉は原因になるか」と、“磯津ぜんそく菜種説”まで持ち出し(法廷中失笑)吉田証人を崩そうとしたが失敗。

第20回 1969年(昭和44年)11月11日

 吉田証人への被告側反対尋問。

 「亜硫酸ガスは磯津と川崎市が全国で1番高い。昭和37年から38年ころには、川崎で0.1PPMが出たら大騒ぎだったというから、当時の四日市は群を抜いて濃度が高かった」と証言。

第21回 1969年(昭和44年) 12月9日

 吉田証人への被告側反対尋問。

 質問は、動物実験の結果や四日市市の公害病患者認定の基準など。

7回も証言席に立った吉田教授は「言いたいことはほぼ言い尽くしたと思うが、反対尋問は本質から外れていたような気もする」と語っていた。

豊富な調査結果と揺るがぬ信念の主張で「歴史に残る名証言」と高く評価された。(午前中で終了)

 原告側3番目の証人 大島秀彦三重県立大医学部産業医学研究所助教授への主尋問。

 「コンビナート操業の36年ころから公害病が増え、38年ごろから死亡率が増え、特に亜硫酸ガス汚染のひどい塩浜(磯津)、港、橋北地区では、それ以前の2倍の死亡率になっている」など国保カルテでの調査研究について証言。

第22回 1970年(昭和45年) 1月27日

 大島証人への被告側反対尋問。

 「たばこを吸うことだけで気管支炎になることは日本ではほとんど例がない。四日市の場合、非汚染地区のたばこを吸う人よりも、汚染地区のたばこを吸わない人の方がより多く発病しており、大気汚染の影響によることがはっきりしている。」

第23回 1970年(昭和45年) 2月24日

 原告側4番目の証人 三重県立大医学部産業医学研究所今井正之講師

 動物実験結果のスライド上映による証言に被告側強く反対したが裁判長が許可して異例の証言。

 「動物による実験結果からでも、亜硫酸ガスの吸入により慢性気管支炎や肺炎が起きることが分かった。」

第24回 1970年(昭和45年) 3月24日

 今井証人への被告側反対尋問。

 スライド上映に強く反対した被告の昭和四日市石油代理人が上映を希望。裁判長は「反対を撤回するのか」と質問。「現時点では撤回する」と答え、その他の企業代理人は「撤回しない」とひともめ。石原産業代理人は「ラットの平均寿命は?」と質問。実験動物にそんなものはなく、裁判官、双方代理人、傍聴席とも思わず大笑い。質問の石原産業代理人は立ち往生。

第25回 1970年(昭和45年) 4月28日

原告側5番目の証人 三重県立大医学部付属塩浜病院柏木秀雄医師(原告らの主治医)への原告側主尋問。

 「公害患者の症状は、大気汚染が主要な原因で、大気汚染がなくなれば、病状は軽くなるか進行が止まる。」

第26回 1970年(昭和45年) 5月26日

柏木証人への被告側反対尋問。

 「臨床的にみて、大気汚染疾患は亜硫酸ガス、硫酸ミストが原因と考えられ、原告らも大気汚染がなければ発病しなかったともいえる。」

 被告側が共通証人として3名を申請、採用される。

鈴木武夫 国立公衆衛生院公害衛生学部長

外山敏夫 慶大医学部公衆衛生学教室教授

水野 宏 名大医学部公衆衛生学教室教授

 3人はいずれも証人になることを拒否していたのに企業側が勝手に申請していたことが後日明らかになった。

第27回 1970年(昭和45年) 6月23日

原告側6番目の証人 東海大伊東彊自教授(気象)への原告側主尋問。

 「磯津への風向きの特色は、北西よりの季節風が多く、被告企業6社の排煙は明らかに磯津を汚染している。」

現場検証 1970年(昭和45年) 6月27日

 ラットの実験場となった磯津(汚染地区)と津市の県立大医学部(非汚染地区)の現場検証。

 三菱化成とモンサントの代理人は「磯津の実験場からうちの煙突は見えない・・・」と検証調書に記載させていた。

第28回 1970年(昭和45年) 7月14日

 伊東証人への被告側反対尋問。

 モンサント代理人が「年間40キロリットルしか重油を使ってないが、磯津への影響はあるか」と質問。証人は「煙は回りながら到達するし、その程度でも住民から苦情の出ている地区の例を知っている」と、2キロあまり離れたモンサントも加害者であると証言。

 この伊東証言で、2年7ヶ月ぶりに、原告側立証がほぼ終わったと言われている。6人の証言で

四日市では”拠点開発”が失敗、あらゆる公害事実があり、企業は社会的責任をとるべきである。

疫学調査や動物実験などから、四日市公害ぜんそくの原因は、亜硫酸ガス並びに硫酸ミストが主要なものである。

気象学的にみて、原告居住地の磯津の大気を汚染したのは、被告ら塩浜第1コンビナートの各工場である。ことが明らかになった。

これは、因果関係の立証について原告側が主張する”蓋然性”(断定しきれないかもしれないが、非常に疑わしいと判断できる)以上に因果関係が立証できたということである。

しかし、被告企業側は「従来の法理論に基づき、因果関係を”厳密”に解釈することで公害訴訟を”不可知”の隘路にひきいれる」作戦は依然として執拗に続けられている。

だが、この隘路をうち破る道は、原告弁護団の奮闘と、新しい法理論の展開と、そして「法治国家で無実の市民が殺されることを許していいのか」という”素朴だが力強い理屈の上に立つ国民運動”(郷成文弁護士)である。

第29回 1970年(昭和45年) 9月29日

原告側7番目、再度の証人、吉田克巳教授(疫学と気象の関係)への原告側主尋問と、被告側反対尋問。

「磯津地区には北西の方向から汚染物が運ばれてくる。三浜小はこの逆になり、両方の中間にある第1コンビナート工場群が排出源である。」

被告側は「第2コンビナートや、第1コンビナートの内陸部の工場の煙も磯津に到達するのではないか」と質問。

原告側は体験証人として、石田季樹自治会長、石田浅次入院患者 、岡田和子主婦、加藤光一通院患者(商業)を申請。加藤氏をのぞく3人採用。

被告側は、中電が3人(本間瑞雄氏、広中明氏、大矢久雄氏)三菱化成が2人(真柳敬氏、小川孝男氏)を申請。

石原産業側は、「20人くらいの証人を考えている。」と述べ、傍聴席から一斉に抗議。

 このほか被告は連名で、動物実験についての鑑定、原告らの診療記録の検証を申請。

第30回 1970年(昭和45年) 10月20日

 原告側体験証人の主尋問。反対尋問。

 磯津南町自治会長・石田季樹証人。

 「塩浜に工場が進出するまでは、若い人がぜん息になることはなかった。昔からのぜん息と、工場進出後の新しいぜん息では、苦しみようが違う。新しいぜん息は大気汚染によるものだ。」

 公害認定塩浜病院入院患者石田浅次証人。

 「入院患者の7から8人がぜん息で死んだ。えらい苦しみようで、ベットから落ちたまま死んだ人もいる。わたしは転地すれば治る。」

 主婦岡田和子証人(夫と長女・小3が認定患者)

「発作は夜がひどく、昼はよい。きついときは10分から20分おきにのどをしめつけられてもがき、死んだ方がいいとまで言う。鈴鹿の知人宅へ4から5日転地したら、発作は1回もなかったのに、磯津の家へ帰ったらだめだった。」

 次回から被告企業側の証人調べにはいるが、被告側申請の証人はこの日までに21人。さらに7人の申請が予定されており、原告側は「無意味な鑑定、証人申請を却下して審理を早めてほしい。」との意見書を裁判長宛に提出。

第31回 1970年(昭和45年) 11月17日

被告企業側最初の証人・鈴木武夫国立公衆衛生院労働衛生学部長兼公衆衛生学部長が出廷を拒否し、実質審理を開けず。

鈴木氏は「黒川調査団の報告書を一緒に作った吉田教授がいっさいを証言しており、付け加えることはない。被告弁護士から相談を受けたときお断りしておいた。被告に不利な証言になるし・・・・・」と語っており、水野・外山教授も証人になることを再度拒む談話を明らかにした。

被告はなおも「証人になることを説得する」と言い、裁判所は「説得を見守る」と却下せず。

 原告側は貴重な開廷日を無駄にしたことで被告側に抗議。

第32回 1970年(昭和45年) 12月8日

 被告企業側証人主尋問(中部電力)

◇電力中央研究所火力機械第2研究室長 本間瑞雄(46)

「風洞実験の結果、三重火力の前の低煙突(57メートル)でも、煙は磯津の上空を通過するので影響はない。」

◇中部電力本社火力技術課長 広中明(46)

 現在のところ脱硫装置の開発はまだ暗中模索で、世界的にも火力発電に適用される物が開発された例を知らない。」

原告側は審理促進を主張。裁判所は合議の結果、1971年(昭和46年)4月から月2回開廷、年末までに事実調べを終わる期日を指定、結審のめどが立った。

各社別証人は、中部電力3人、昭和石油3人、三菱油化5人、三菱化成4人、モンサント1人、石原産業6人の、計22人。

 原告側は「被告工場からの排煙の硫黄分に関する鑑定申請を撤回」してでも審理促進を図り、被告側の医学、疫学、排煙到達の鑑定申請にも、採用を強く反対。

鈴木証人には再度裁判所が喚問状を発送するとして、却下せず。

第33回 1971年(昭和46年) 1月26日

 被告中電証人への反対尋問。

本間証人「公害裁判のために、風洞実験をした。現場実験よりも風洞実験の方が科学的だ。」

 広中証人「マンガン排煙脱硫は、機械に安定性がない、排煙量の変化に対応できない。吸収剤に予想外の結果が出た。」と、成功しなかったと証言。

鈴木証人はこの日も「次回出廷の喚問を受けたが都合がつかないので出られない」と申し出る。

第34回 1971年(昭和46年)2月23日

 被告側証人主尋問。

 (中電申請)

 前三重火力所長・大矢久雄(49)「硫黄分3.5%以下のC重油を使うよう国から統制されていた。煙が磯津へ行くのを見たことがない。」

 (昭和石油申請)

 四日市製油所製造管理部長・木戸岡文明「亜硫酸ガスが人体に悪影響を与えることは考えていなかった。ロンドンスモッグ事件も主原因は亜硫酸ガスではなく、ふんじんである。」

 (昭和石油申請)

 四日市製油所試験課長・吉野量夫「理論計算の結果、昭和四日市石油の排煙は、磯津地区にほとんど影響はない。磯津の汚染は、昭石以外に大きな原因がある。」

 これで、中電、昭石とも”うちの煙は関係ない”と主張。このため、被告各社別証人が出廷するようになってから、被告企業の傍聴が増えてきた。

 前回(1月26日の33回口弁)に、昭石は、東京工大教授清浦雷作が青年会議所の雑誌などに発表した「ぜんそくは浮遊ふんじんが原因」の雑文を書証として提出したが、証人木戸岡はその雑文と同じことを証言。この雑文を書証として提出したことについて清浦本人は「知らない」と言っている。

1971年(昭和46年)3月11日

被告企業側共通証人の鈴木・外山・水野教授の申請を、昭和石油代理人が「いろいろな事情で出廷が困難なので、証人申請を取り下げたい。」と書面で申請した。

第35回 1971年(昭和46年) 3月23日

 被告証人への反対尋問

 中電・大矢証人「三重火力から亜硫酸ガスがどのくらい出たかは調べたことはない。57メートル煙突でも煙は磯津を飛び越すのは、煙の流れを見ていたからわかる。煙突を120メートルと高くしたのは公害のためではない。」

  昭石・木戸岡証人「日本公衆衛生協会が亜硫酸ガスの許容基準を1時間値0.1ppm以下にせよと厚生省に答申していたことは知らない。危険濃度は労働衛生にある5ppm以下と思っていた。」

第36回 1971年(昭和46年)4月8日

被告側証人への反対尋問

 昭石・吉野証人「亜硫酸ガスについて磯津で測ったことはない」 「理論計算は大気の安定した数値を選んだ」

被告側証人の主尋問

 昭石秘書課長・小西正康氏「昭石は、望んで現在の場所に工場を設けたのではない。政府の要請によって進出し、それを地元の三重県、四日市市も迎えてくれたのだ。」

 三菱油化四日市事業所製造第一部長・珠淵俊茲氏「うちの排煙は規制値以下なので地域住民に害は与えていない。磯津には到達していないと思う。」

第37回 1971年(昭和46年)4月22日

被告側証人の主尋問

前三菱油化製造第三部長・重岡政明氏、硫酸製造方法などについての証言(午前中)。

原告本人・藤田一雄さん尋問

 病状悪化のため、塩浜病院の公害病室での臨床尋問。

「訴訟を起こしたのは、余命のすくない自分はともかく、子や孫たちが住みよいようにしてやりたいという信念だった。」

この日、被告側は、鑑定について次の申し出をした。

モンサント・亜硫酸ガス到達の鑑定は目下検討中、次々回に結論

石原産業・同様検討中

昭和石油・昭石証人で煙は到達しないことがわかったので鑑定は検討中

三菱油化は証人として採用されていた前硫酸係長・高野隆男氏を取り下げた。 三菱化成も井上・小川氏以外の2名も都合によっては取り下げると発言。

第38回 1971年(昭和46年)5月11日

被告昭石証人・小西正康氏(昭和四日市石油秘書課長)反対尋問

「昭石は、政府決定でやむなく四日市へ進出した」との前回証言に、原告側は豊富な資料で、その欺瞞をついたが、核心に触れると「わからない」と逃げる。好きで来たのでなければ四日市から出ていけばいい。

被告三菱化成証人・井上晃氏(四日市工場技術部副長兼環境部長代理)主尋問

 重油使用量は少量。磯津とは2100メートル離れている。廃ガラボイラーの最大着地点は、理論式では300メートル前後。

被告三菱化成証人・小川孝男氏(製造第一部肥料課長)

 亜硫酸ガス濃度は低い。東海大伊東教授に教えをこうたが、原告らには無関係。

三菱化成は後2人の証人は、被告各社証人全部終わった段階で取り下げかどうかを決めたいと申し出。モンサントは、1人だけの証人取り下げ!それと、43年10月24日の気象鑑定申請は、伊東証言などで明らかになったので撤回する。(昭石は今しばらく検討。石原は内容の差し替えをするかもわからない)

第39回 1971年(昭和46年)5月25日

 被告 三菱油化証人への反対尋問

 製造第一部長・珠淵俊茲氏、製造第三部長・重岡政明氏

燃料の硫黄分について、三重県への報告よりも、法廷へ提出したものの方が低く、この事実を原告側から追求され、傍聴席から激しいヤジがとんだ。

第40回 1971年(昭和46年)6月8日

 被告三菱化成証人・技術部副長・環境部長代理・井上晃氏

43年7月の現場検証の際、当時の製造部長が亜硫酸ガスは出ないと言い、主尋問では少し出ると変わったり、その場での言い逃れが目だつ。

 被告三菱モンサント化成証人・管理部長・山崎勉氏 主尋問

都合のいい風速を用い、係数も同様、磯津へ当社の排煙は関係ないと証言。

 被告石原産業証人・前工場長・山田務名(ちかあき)氏、生産第三部長・中谷林平 主尋問

山田は硫酸垂れ流しで刑事被告人にもなっているいわく付きの男。

前触れもなしにこの日の午後出廷。両者とも、石原産業は工場創業以来、公害防止に最大の努力を払ったと、生産工場ではなく、公害防止工場だと言わんばかりの証言。

第41回 1971年(昭和46年)6月22日

 被告三菱化成証人への反対尋問・肥料課長・小川孝男氏

小川氏も現場検証の時の説明と食い違う点についてつかれ、何とか言い逃れしようとして「でたらめ言うな。うそつくな。」と傍聴席からヤジがとび、オタオタ。

 被告石原産業証人主尋問・肥料部長・朝比英幸氏

環境保全に力を入れ、排煙はいずれもばい煙防止法、大気汚染防止法の規制値以下

 石原産業公害対策室長・山室利男氏

当社の排煙は磯津には行かず、海上へ流れる。

山田務名氏も含め、どれもこれも思わず耳をおおいたくなるような見え透いたうそを、いかにも真実のようにおしゃべりするが、所詮ネタは割れている。

第42回 1971年(昭和46年)7月6日

 被告企業証人への反対尋問

 石原産業前工場長・山田務名氏

尋問が硫酸たれ流しや肝心なことになると、民訴法280条(証言拒否)を盾に証言を拒否。

「正直に言え。」などのヤジがとぶ。また、うるさいほど石原の代理人が「関係ない」と助け船を出し、裁判長も「証人は拒否しているから・・・・」ギャーギャー言うなとばかり、「裁判長!」と呼んでも知らん顔。

 三菱モンサント化成証人反対尋問・管理部長・山崎勉氏

原告側の尋問に全くしどろもどろ。珍しく両陪席判事も尋問。「知らないです」「わかりません」と全く正直で、傍聴席から「それでいい」「立派」「いいぞ」とおほめの言葉。

 この日の裁判で山田務名が証人席に座る30分前、山田を硫酸垂れ流しで検挙、刑事裁判の被告人にした、勇気ある、四日市海上保安部田尻宗昭さんが、政治的人事で田辺海上保安部へ転勤することとなり、コンビナート工場幹部の、これでやっと疫病神を追っ払えるという安堵の拍手に送られて四日市を発った。

 田尻さんと山田工場長は好敵手。?

 そのことからも、この日は大変印象深い日であった。

第43回 1971年(昭和46年)7月20日

被告石原産業証人への反対尋問

 石原工運肥料部長・朝比英幸 生産第三部長・中谷林平

いずれも、公害防止第一といったことで取り繕おうとしたが、反対尋問ではそうはいかなかった。

 7月10日夜11時35分、原告患者の瀬尾宮子さん(38)が入院先の塩浜病院で、寝るまでは大変元気だったのに、ぜん息発作で亡くなり、(原告で2人目)

 この日法廷で、傍聴席から黙とうを提案、1分間の黙とうをした。立たなかったのは企業側代理人だけ(裁判官入廷前)

 この日、鑑定人が決まった。

 企業側は、病名、因果関係、労働能力などの鑑定を申請していたが、5月25日の第39回口頭弁論で、裁判所は病名と労働能力だけを採用。当初、名古屋大学医学部へ鑑定を依頼したが、名大は、原告患者を名大病院へ連れていって検査・・・・・モルモット的扱いで原告患者は反対。結局、京都大学医学部の佐川弥之助教授(臨床肺生理学)に決まり、出廷して鑑定事項を確認。鑑定報告書は10月末または11月提出となった。

第44回 1971年(昭和46年)9月7日

 石原産業証人・山室利男氏への反対尋問

山室証人は、「設置した防除設備はすべて、そのとき、そのときに、もっとも適当な物をつけた」と言ったが、適当とは、企業が損をしないということであるし、いろいろな防止施設をつけたと言っているが、それらは回収装置といってよいもので、本当に防止施設といえる物は、いずれも最近になってである。

原告本人・在廷主尋問 塩野輝美さん、中村栄吉さん

 瀬尾宮子さんの死亡経過についての調査嘱託申し出。

第45回 1971年(昭和46年)9月21日

 原告本人・在廷主尋問 柴崎利明さん、石田かつさん、野田之一さん

第46回 1971年(昭和46年)10月5日

原告本人・在廷主尋問 石田喜知松さん、今村末雄さん

 証人・瀬尾清二さん主尋問、瀬尾宮子さん、今村善助さんの遺影を原告席においての陳述。瀬尾宮子さんの子ども2人と、石田喜知松さんの孫のつづり方を書証として提出。

第47回 1971年(昭和46年)10月19日

 原告本人への企業側反対尋問・塩野輝美さん、中村栄吉さん、柴崎利明さん、野田之一さん

第48回 1971年(昭和46年)11月2日

原告本人・石田かつさん、石田喜知松さん、今村末雄さんと、証人・瀬尾清二さんへの企業側反対尋問。

 故瀬尾宮子さんの相続人として清二さん・喜代子さん・日登美さん・篤哉さんの訴訟継承及び訴訟救助申立。

第49回 1971年(昭和46年)11月16日

 原告側、雑誌「科学」吉村功論文と、吉村気象報告書などの書証提出。

第50回 1971年(昭和46年)12月7日

原告側・在廷証人として吉村功名大工学部助教授を申請。「SO2と風向きの調査結果から、被告会社と磯津との因果関係はぴったり当てはまる」との証言を行う。

 被告側・吉村証人反対尋問

第51回 1971年(昭和46年)12月21日

被告側・清浦雷作東京工大教授の「主原因はSO2ではなく、浮遊粉塵論の書証提出。清浦教授は、水俣病では水銀ではなく、アミンだとする説をとなえるなど、名うての御用学者。

※化成とモンサントが、担保を条件にと仮執行宣言免脱申立。(判決で、原告側勝訴に、現金もしくはこれに代わるものを直ちに差し押さえる仮執行宣言が出た場合、工場へ行って差し押さえしないようあらかじめ担保を差し出しておくというもの)

第52回 1972年(昭和47年)1月18日

原告側・長文の最終となる第12準備書面について陳述。

 被告側・原告患者の病状などを鑑定(申請は被告側)した、佐川弥之助京大医学部教授の主尋問。「企業側の意に反し、原告側有利の証言となる」

油化、石原が、仮執行免脱申立書提出

昭石が、ぜんそくは心因性によるとする三菱金属鉱山診療所長の原告カルテ検討結果報告書などを提出。

石原が、「ぜん息吸入剤やめよう」「花粉がぜん息を引き起こす」「セキこらえ、病室から出漁」などの新聞記事を提出。

第53回 1972年(昭和47年)1月25日

原告側・復代理人(山本茂雄氏・水俣病弁護団、近藤忠孝氏・イタイイタイ病弁護団、豊田誠氏・公害弁連)の準備書面陳述。

 被告側・中電が仮執行宣言免脱申立。

第54回 1972年(昭和47年)2月1日

 原告側・復代理人(板東克彦氏・新潟水俣帽弁護団、ほか、川崎など5名の弁護士)の準備書面陳述。

 原告本人の最終意見陳述。(藤田原告は病状が思わしくなく録音テープで、石田かつ原告は途中で病状が悪化し退席)傍聴席から拍手。

被告側・昭石が仮執行宣言免脱申立。

米本裁判長「これで結審します」と弁論終結を告げる。

※この日、提訴の年に埋め立てと工場誘致が市議会で強行採決された第3コンビナートが、営業運転を開始。

 

判決 1972年(昭和47年)7月24日。 原告患者側 勝訴