四日市ぜんそく公害裁判
澤井 余志郎(公害を記録する会)
1、 訴状提出
1966年(昭和41年)7月、公害認定患者の木平卯三郎さんが、病苦と生活苦とで自殺した。翌年2月、公害対策がないに等しく、ぜんそく患者の発生がつづいた。四日市公害発生の原点・磯津では、くさい魚とぜんそく多発で、コンビナート工場に対策を迫ったが相手にされずじまい。
社会・共産両党と、地区労、コンビナート工場中心の化学労協(三化協)、革新議員団などで構成されている公害対策協議会(公対協)は、名古屋の労働弁護団に訴訟提起を相談、1966年8月、第1回の訴訟準備会をもって、理論構成(訴状作成)は弁護団、支援組織は公対協と決めて、準備会を重ね、12月、原告は磯津在住で県立塩浜病院に入院中の公害認定患者9人。被告は磯津とは鈴鹿川を隔てて立地している塩浜第1コンビナート工場6社とする「訴状」を弁護団が提示した。
その段階で、自分たちの工場を相手どっての裁判支援は出来ないと、先ず三化協がはずれ、地区労も一本化しての支援は不可能とつづき、結局は弁護団だけが残った。
そのあくる年の2月、市議会は、公害発生源拡大に手をかす、霞ヶ浦海面埋め立てと第3コンビナート工場誘致を、大勢の反対住民が見守るなか、強行採決で可決してしまった。
6月、亜硫酸ガスからの逃避行を繰り返していた大谷一彦さんが、それにも疲れはて自殺してしまった。
公害発生源と被害者拡大のなか、市民に一番身近な四日市市職員労組が、7月に同じ自治体仲間の全国自治体労組の大会で、四日市での訴訟提起を訴え、支援決議を得たことで、9月1日、「訴状」を津地区裁判所四日市支部に提出、12月1日に第1回口頭弁論が開始された。支援組織は、その前日に公害訴訟を支持する会が結成総会をもち発足した。
2、 訴訟の進行
口頭弁論54回、原告居住地と工場への立ち入り現場検証2回、この間、原告患者側と被告企業側の証人出廷(証言)、証拠書類・準備書面提出など、患者側有利な状況のなか、4年10ヶ月後の1972年(昭和47年)2月、結審となった。この日は、訴訟の進行にあわせ、埋め立て、プラント建設が進んだ、第3コンビナートが営業運転を開始した日でもある。
判決は、7月24日、原告患者側「全面勝訴」。裁判所前の特設舞台で原告患者、弁護団、支持する会は勝訴判決に酔いしれた。しかし、コンビナート工場の煙突からは止まることなく亜硫酸ガスを含む煙を吐き散らしていた。
3、 公害患者たちの思い
訴訟は、排煙を止める「差止め」ではなく、働けなくなったことでの「損害賠償請求」で、被告企業は敗訴を想定、各社とも1億円の金を用意していた。原告患者側は判決に従い、その日のうちに6社分の賠償金を石原産業で差し押さえた。
原告患者を代表して野田之一さんが挨拶にたち、「裁判には勝ちましたが、これで公害がなくなるわけではないので、公害がなくなったときに、ありがとうの挨拶をさせてもらいます」と言った。判決で、加害者は工場だと決め付けてくれた、敵がはっきりした、これからは堂々と加害者工場に公害をなくせといえる、とのメッセージを大勢の支援者たちに投げかけたが、万歳のあと運動は急速にしぼんでしまった。支持する会は勝訴を目指して運動し目的を果たしたわけであるが、その延長線上での反公害運動が望まれたが果たされなかった。
4、 勝訴判決のもたらしたもの
判決は「住宅に近接して工場をたてた、立地上の過失」「公害防止対策をせず操業した操業上の過失」「コンビナートとしての共同不法行為」「損害賠償金を支払うこと」を命ずるもので、この後、「総量規制」「「工場立地法」「公害健康被害補償法」などの法律制定や規制強化があり、被害補償制度の「公害健康被害補償法」施行や汚染物質排出の総量規制があり、硫黄酸化物による大気汚染は改善されていった。
※ 公害裁判を起こさなかったら、敗訴していたら、四日市の人々だけでなく、全国の大気汚染地区の人たちは、もっとひどい公害に痛みつけられたことが容易に想像されるだけに、公害訴訟を提起し、勝訴したことを、いまも、本当によかったと思っているだけに、短時間ではなく、公害訴訟について、弁護士、原告患者、被告会社、支援者、患者・遺族など、それぞれが講師・語りべとなって述べあう、そんな市民学校がもてればと思っている。四日市ぜんそく公害訴訟は、昭和史のかで特記されていい重大な事件であると思うからでもある。
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