四日市公害裁判における原告患者代理人

井上哲夫弁護士、裁判活動記録

本人調書

第45回口頭弁論調書と一体となるものである。

事件の表示 昭和42年(7)第138号

期日 昭和46年9月21日 午前10時0分

原告本人 氏名 柴崎利明

原告代理人 井上哲夫

(記録「公害」55より)


あなたは磯津に、いつ頃から、住んでいますか。

昭和30年からです。

その前はどこに住んでいましたか。

愛知県幡豆郡一色町です。

一色町には、長く、いたわけですか。

はい、終戦まで、おりました。

生まれてからずっとということですか。

はい。

一色町で生まれて、そして、昭和30年に磯津に来たということですか。

はい、その間、磯津まで行ったり来たりして、漁をしておりました。

そうすると、一色町に生まれて、向こうに住んでいて、こちらの磯津に住みつく以前にも、しばしば仕事で磯津に来ていたということですか。

はい。

磯津に住むようになる前に、しばしば来たというのは、あなたの職業の漁業の関係できたということですね。

はい、そうです。

昭和30年に磯津に来たのは、何かわけがあるんですか。

はい、終戦後から、言ったり来たり、漁の期間中は磯津で漁をして、それから、間がありますと、家へ行って、農業、漁業をしておりました。その関係上、こちらへ、もう、漁に来ている以上、同じ住むなら、磯津の漁場で住もうかなと思って、それで、磯津に来ました。

磯津に来ることが多くなって、漁業の仕事としては、むしろ、磯津の方がいいということで、移ったということですね。

はい、そうです。

ところで、あなたは、昭和2年5月28日生まれですね。

そうです。

そうしますと、終戦後に、仕事の関係で、磯津に来るようになったのは、結局、仕事をするような年齢になって、漁業の関係では、磯津に来ることが多いということから、昭和30年に移ったと理解していいわけですね。

はい、そうです。

あなたの家族は

家内と、小学校4年と中学2年の女の子の4人暮らしです。

結婚はいつですか。

昭和30年です。

そうすると、結婚して、磯津に住みつくようになったと言うことですね。

はい、そうです。

そうすると、奥さんは、磯津の方ですね。

はい、そうです。

磯津に住むようになってからも、漁業に従事して、ずっと、今日に至っておるわけですね。

はい、そうです。

あなたが、体の具合が悪くなったというのは、いつごろのことですか。

昭和40年の5,6月ごろでした。

昭和39年ごろではないですか。

40年やと思いました。

あなたが入院したのはいつですか。

40年9月です。

そうすると、最初に、体の調子がおかしくなったのは、40年ですか。

39年か40年の、とにかく、6月だと思いますけど。

39年か40年か、分からないけれども、6月ごろだということですね。

はい。

それは、朝とか昼とか夜とか、それから、どこでどうしているときにということですか。

三菱油化の方へ仕事に行っておりまして、朝8時に、出勤の。

油化の工場の中に、仕事に行ったんですね。

はい、それで、鉄工のほうで、手もととして働きました。職人の手もとですから、「あれ取ってくれ」「これ取ってくれ」と、言われたものをとる役目だけですけど、それで、昼過ぎ、めし食べて、2時頃になったら、何か、くしゃみから何か苦しくなってきたので、おもしろいな、これで風邪ひくにしては、こんな、風邪ひきよって、くしゃみしたことがない、おかしいな、苦しくなったと思ってさね、それで、もう、ついでに退場して、磯津の中山医院へ行きました。そしたら、「これは、おまえ、今のはやりの四日市喘息だ」と言われて、びっくりしました。

油化の工場に仕事に行っておって、午後2時頃、急にくしゃみが出て、どうなったんですか。

風邪気味だと、初め、思っていました。風邪ひいたかなと思いました。

作業中に、そういう風になるのはおかしいと思ったんですね

今まで、以前に、こんなこと、全然なかったんです。

で、仕事を途中で打ち切って、中山医院の方へ行って、治療を受けたということですね。

はい。

くしゃみが出たときの様子を言って下さい。

始まりに職人さんが、アングルなら、「アングル取ってくれ」と言われましたもんで、ものをさしだしてやりましたんです。そして、ちょっとしておったら、えらい、くしゃみがしてきたもんで、なんでか、こんなえらいくしゃみがすると思って、まあその日は、えらい、どんよりした、スモッグ状態でした。それで、これは、もしかすると、公害じゃないかなと、自分は、気づきましたけど、まさか、今まで、そんなことを、全然、関係のないことを、おかしいなと思いました。

そうすると、くしゃみが連続的に何回も起こって、止まらないということですね。

はい、5,6回、くしゃみが、もっと出たかもわかりませんけど、それから、くしゃみだけならよろしいけど、のどが鳴ってきて、ゼーゼーいうてきて、苦しくなってきましたもんで、仕事もできやんので、もう、帰ったんですわ。

そのとき、あるいは、その前2,3日の間に、風邪をひいたとか、体の調子をこわしていたということはなかったんですか。

全然、ないんです。

手もとというのは、一人前の人の補助的な作業をする意味ですか。

まあ、職人の手もとというのは、何というかな、ものの運び役みたいなものです。

そうすると、非常にはげしい仕事の部類には、はいらないわけですね。

ええ、まるきり、遊んどるようなものです。

そういう仕事をやっておって、かつ、その日に、くしゃみが出て、息苦しくなってきたということですね。

はい。

あなたは、そのときには、漁閉期というか、漁業が暇だから、アルバイトみたいに、ほかの仕事に出ていたということですか。

はい、そうです。

そういうことは、よくあるわけですね。

はい。

その日は、中山医院に行って、そのまま自宅へ帰ったわけですか。

はい。

そうすると、仕事は。

打ち切ってきました。

それは、何か、理由でも、あったわけですか。

やっぱし、自分、苦しいので、よう、仕事にならんので、帰りました。

家に帰ってからでも、やはり、そういう、くしゃみとか息苦しさというふうなことは、あったわけですか。

中山医院へかかりまして、それで、注射一本うってもらったら、すーっとうそのようにひいていきましたんです。

今まで、あなたは、医者へ駆け込むとか、あるいは、治療を受けるというふうなことは、どのくらい、あったんですか。

年に、一回か二回程度でした。

どういうことで、ですか。

腹痛とか、怪我したときぐらいの程度でした。

腹痛とか、切ったとか、すりむいたとかという怪我をしたときに医者へ行くぐらいだったということですか。

はい、そうです。

あなたが、最初に、くしゃみと息苦しさを感じたときから、その後の状態ですが、中山医院のほうにも、その後も、通院されたことは、あるわけですか。

はい、そのとき以来、ずっと、行っておりました。

あなたが、四日市ぜんそくの公害病認定患者になったのは、昭和40年7月22日だということですか。

ええ、かかって、わしは早かったんです。

そのころですか。

はい、そんなもんです。

それから、塩浜病院に入院したのは、いつ頃ですか。

40年9月30日です。

そうしますと、入院前には、ずっと中山医院で治療を続けていたことになりましか。

中山医院へ行ったり、また、塩浜病院へ行ったり、行ったり来たりしておりました。

それは、どのぐらいの期間ですか。

まあ、だいたい、一月ぐらい、6月のうちは、まあ、一日に一回ぐらい起きましたんです。それから、だんだん、月がたつにつれて、一回が二回になり、二回が三回になったわけです。

そういう通院期間は、だいたい、どのくらいだったでしょうか。

まあ、二月半か三月程度です。

そうすると、あなたが、油化のある工場の中で、体の調子が悪くなって、中山医院に駆け込んだのは、40年の6月頃ということですか。

39年の6月頃か、40年の6月か、忘れました。

中山医院とか塩浜病院への通院時間は、決まってないわけですか。

だいたい、始まりのうちは、夜中が多かったわけです。2児、3時頃が一番多かったんです。

中山医院とか塩浜病院で診てもらうという場合には、そういう、苦しくなるから、診てもらいに行くということですね。

そうです。

それが、夜中が多かったんですね。

夜中が多かったです。

何時頃ですか。

2時、3時、そんな時分が一番多かったです。

そうすると、そういうときには、寝ている先生を起こして、診てもらうという形になるわけですね。

そうです。

多いときですと、一月の間でどのくらい、そういう通院があったんですか。

一月のうちに、25日ぐらいは。いつも、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしておりました。

医者へですよ。

はい、医者へ。

そうすると、多いときは、毎日のように行ってるといえるわけですね。

はい、そうです。月に5回ぐらい、五日ぐらい、まあ、ちょっと軽いで、自分でアロテックで押さえようとかいうぐらい。そんな程度でしたけど、あとの、ひどい、アロテックでは、ちょっと、きかんというときには、医者へ、よう飛び込みました。

入院前に、すでに、アロテックという、一次の回復吸入剤のようなものを使っていたわけですか。

はい、8月に、人に聞いて買いました。

あなたが入院するようになったのは、どういうことからですか。

あまり、回数が多いので、中山さんが、「こんなことしとると、からだがしまいにいかれてしまうで、早いとこ入院した方がいいじゃないかな。」と言われたんです。それで、行く気になったんですけど、家庭上のこと、もう少し、辛抱しておれば、なんとかならんかと思って、自分がその苦しみに耐えておりました。

そうすると、入院したいきさつは、今言ったような中山医院からの指示というか勧告というか、入院した方がいいと言われて、入院する気になったということですね。

はい、あまり、夜中に行くので、「そんな夜中に起きて、睡眠不足にもなるし、体が、しまいには、やられていくで、もう早いとこ入院した方がいいじゃないか」と言われました。

一月のうち25日ほども、医者に駆け込むようなことがあったということですが、あなたとしては、なるべくなら、入院したくなかったということですか。

はい、そのころ、まだ、子どもがちっこいし、入院したら、食うに困って、たちまち、家へ火がつくようなことになるで、入院は、やらな、やらんほうがいいと思いまして。

なんとか、入院をしなくてもすませるものなら、すませたいというふうなことだったんですか。

はい。

入院当時は、少し入院すればよくなるとか、何か、そういうふうな考えは、あったんですか。

いや、その入院したときに、その日に、ちょうど夜中の2時頃でした。えらい発作がきまして、それで、自転車で行きましたんです。それで、磯津の坂もようのぼらんので、自転車押して、歩いて上がりまして、橋の上で1回止まって、伏せって、それから、また、学校で、また自転車ようのりきれないので、また、そこで、自分で伏せっておりまして、それから、病院へ飛び込みました。それで、病院へ行ったら、「これは磯津ではあかん、早いとこ注射打たなあかん」といって注射打ってもらって、一本目を打ってもらったけど、それが、きかんので、二本打って、二本目を打っても、まだ、きかんというので、「もう、入院せなあかん」というので、そのまま入院しました。

そうしますと、入院したのは、たまたま、そういうことで入院したということですね。

はい。

中山先生に言われて、じゃ、今日から入院しようとか、何日から入院しようということで入院したわけではなかったんですね。

ええ、その後です。

つまり、あなたとしては、なるべく入院したくないということで、入院せよと言われておりながら、ずるずるきておったわけですか。

はい、それで、えらい発作にやられたんです。

その入院した9月30日の夜は、何時頃のことだったんですか。

夜中の2時でした。

そのときは、どういう状態だったわけですか。

やっぱし、北西の風が、そんより、吹いておりました。

あなたの体の具合は、どうだったんですか。

まあ、自分としては、もう、あれだけの苦しい思いをしたのは初めてでした。もう、二度と、あんなことないようにと思って、大概えらいめにあいました。ものをつかむにも、汗をかいて、つかんでおりました。

自転車で塩浜病院へ行ったということですが、家を出るときの状態は、どうだったですか。

家を出て、それで、あそこの坂まで行くと、上がるのがえらくて、坂が、よう、踏みきれやんので、もう、心臓があおってきて、ヒューヒューゼーゼーいうてきて、息するのが、えらかったんです。それで、もう、その坂を、自転車押して、やわやわ上がって、それから、もう、平地やで、乗れるやろと思って、乗りました。そして、橋の真ん中ごろへ来ると、また、何やしらん、よう、息切れがするもう死ぬような気がしてきて、何ともならんので、そこで、また、ちょっと、自転車降りて、休んでおりました。それで、また、学校まで行って、学校の辺りで、また、一服して、それから、行ったんです。

入院した9月30日には、注射を、一本ではきかなくて、二本打って発作を止めたということですが、その入院したあと、よくなりましたか。

はい、4日ばかり、酸素テントに入っておりました。

そうすると、その間、しばしば発作でもあったわけですか。

はい、始まりのうちは、その一日か二日ぐらいは、ちょこっちょこっと、そんな傾向がありました。それから、三日目、四日目になったら、もう、そういうことは、すーっとひいていきまして、そういうことは、全然なかったんです。

あなたが、これまでに、一番、その発作というか、息苦しさを感じたのは、いつのことですか。

6月になってから、たびたび、ありましたけれども、もう、それが9月に入ってからが、一番、最高潮でした。

入院したときですか。

その月が、一番、えらかったんです。

入院前後は、仕事は、どうしていたんですか。

まあ、仕事のほう、行ったり行かんだりで、付きのうち半分働けなかったんです。入院してからは。

あなたのところでは、当時、奥さんは、何か、仕事でもしていたわけですか。

その当時は、全然していませんでした。わしが公害になる前までは。公害になってから働くようになったんです。

奥さんが働くようになったのは、いつですか。

40年の7月かと思います。

あなたが入院する一、二ヶ月前に、働くようになったということですか。

はい、これにかかってから、あまり、よう休むので、家族が苦しくてやっていけないので、もう、働くようになりました。

奥さんは、どのくらい、働きに出るわけですか。毎日ですか。

決まった職がないので、日雇いうという関係で、工場に行くとか、そんな関係で月のうちに10日かそれぐらい働くしかなかったんです。

あなたは、入院後、その、一番ひどかった、9月を越したあと、働きに出たようなことはあるわけですか。

病院へ入院すると、始まりのうちは、全然、出ることはできませんでしたので、その一月ぐらいの間は、病院で生活しておりました。

それからは、どうですか。

それからは、先生に「こんなことをしておっても家庭がやれやんで、ええときだけ働かしてもらうように」と頼みまして、出るようになりました。

先生は、それに対して、どういうふうな返事だったんですか。

先生は、「発作の時、ほかの病気と違って、注射を打って、すっと引けば、普通の人間も一緒やで、働いても関係ないやろう。発作があれば赤子みたいなもんで、手もつけられんけど、発作がなければ、健康状態も一緒やで、働いてもよろしい」というふうに言われました。

働かずに、ずっと入院しておった方がいいのか、多少は働いた方がいいのか、その点はどうなんですか。

それは、まあ、自分としては、はたらかんで、そうしておれば、自分の体も、いいと思いますけど、ただ、ガスにやられて、発作さえなければ、どれだけでも働けます。それがあるで、働いたり働かんだりしますけど。

あなたは、一色町で漁業をやっていたときとか、磯津に来て漁業をやっていたときは、ふつうの漁師というか、普通の人がやれることは、ほとんどやってきたような形ですか。

まあ、漁師といっても、ふつうの漁師、わしら、乗り子ですから、だれでも働けるような、そんな仕事です。

入院後、先生に頼んで、働きにいくことを了解してもらったということですが、だいたい、どのくらい、働きに出てるわけですか。

月のうちに15日ないし、12,3日ということです。20日も、よう、勤まる時は、なかったんです。

そうしますと、それは、漁業で出たり、それ以外で出たりということですか。

はい、もう、漁業期間中は、漁業へ行って、その間がありますので、3月から5月、6月までは、漁業。6月から7月までは、また、ほかの手もと、それから、7月から11月頃までは漁業、その間だけ、その他の方へ働きに行っておりました。

それは、だいたい、月のうち15日前後ですか。

一月には、そんな程度です。浜へ出るようになると、まるっきり勤まります。

陸というか、漁業以外の仕事をやるときは、月のうちの15日から12日ぐらいですか。

はい。

それから、船に乗って漁業に従事するときは、その期間ほとんど出られるということですね。

はい、まあ、月のうち3日か4日やすみゃいい、そんな程度でしたけどね。

それはどうしてですか。

やっぱし、朝早く磯津を発って浜へ出てしまいますので、えらい、調子がよろしいんです。

漁業の場合は、朝早く磯津を離れて伊勢湾の方へ行ってしまうから、かえって、体の具合は、いいというわけですか。

調子がいいんです。

何時頃、磯津に帰ってくるんですか。

今は磯津は早いんですけど、今は2時か3時です。

そうすると、あなたの体の調子からいくと、海に出た方が調子がいいということですか。

はい、そうです。

それは、海から帰ってくると、また空気清浄室にはいるわけですか。

はい。

陸の仕事の場合に、月のうち12日から15日ぐらいしかできないということですが、それは、どういう理由からですか。

どうしても、うちへおると、陸ばかりですから、それで、晩にえらくやられた場合、病院で注射打ってもらって、寝てますけど、また、朝よう出やんので、それで、もう、休みますけど。

そうすると、あなたの体の調子が思わしくないために、そのぐらいしか働けないということですか。

そうです。

仕事が、たまたまないから、それぐらいしか働けないということではないわけですね。

はい、そうです。

陸の仕事というのは、何か特定の仕事をやっているわけですか。

まあ、間ですから、一とこの仕事へは行きません。あちらこちら、あちらこちらと行っております。

特に、仕事場とか仕事の内容が決まっているわけではなく、その都度その都度ということですか。

そうです。

あなたの、そういう陸の仕事は、自分で選ぶわけですか、誰かが持ってきてくれるわけですか。

大体、自分で捜します。

どういうふうに捜すわけですか。

漁を上がりますと、遊んではおれやんので、あそこ、忙しないか、ここが忙しないかと捜して歩くんです。

そうすると、自分の好きなところを捜すわけですか。

はい、そうですけど、大体、悪いとこへは行かんように行かんようにと思っております。

悪いとこというのは、どういうところですか。

風向きによって、自分は、働いておりました。北西の風のえらいときには、なるだけ、一番、北側の方へ行って仕事をするとか、それから、6月頃だと、南よりの風が多いから、油化でも、川尻の油化へ行っておりました。

天気の状態によって、働く場所を変えるわけですか。

季節的に、変えるわけです。

なるべく、そういう被害のないようなところで仕事をしようというふうに心がけるということですか。

そうです。

一方では塩浜病院へ入院しており、そういうふうに仕事に出かけて、途中から、体の調子がおかしくなって帰ってくるとかというふうなことは、あるわけですか。

はい、陸へ行っておりますと、度々ありました。

そうすると、その場合には、もう、途中で仕事を打ち切って、病室まで帰ってくるということですか。

はい、そうです。

海に出る場合は、一応、報酬というか、もらい分は、普通人並に、もらえるわけですか。

そうです。

陸の場合はどうですか。

陸でも一緒です。

それから、あなたは、入院してから、夜、自宅へ帰るとかいう日は、ありますね。

あります。

現在でどのぐらいですか。

現在では、まあ、20日病院で、10日ばかりが家です。そういうふうなときもありますけど。

入院して以来、そういう点は、変わらないですか。入院当時は、1ヶ月はほとんど入院を続けていたと思うんですが、あとは、どうなんですか。

始まりのうちは、やっぱし、20日以上、25日は病院で厄介になっておりました。

そうすると、当初は、自宅へ帰って泊まるということは、非常に、少なかったわけですね。

そうです。

それがだんだんふえてきたということですか。

はい。

それは、何か、あなたの体の調子が良くなったからということになるわけですか。

はい、自分の病気が起きた場合に、自分のする動作が早くなったというのか、敏感というようになったか、この病気をよく知ったから、こういうふうになったと思いますけど、少し、おもしろいと思うと、医者で注射打ったり、それから、アロテックで押さえたりしますから、もう、すっとよくなりますので、つい、行きそびれてしまうわけです。

特に、そういう病気がよくなったから、家に多く帰れるようになったというふうにはいえないわけですか。

病気そのものは、よくなったとは、わしは思いません。

ただ、あなたの対処の仕方がうまくなったからということですか。

はい、もう、あまり、病院ばかり寝ていて、自分の体が、その病院になれてしまうと、外で働くことができやんようになる。そういうふうで、少し、自分の体も、もんでおかなあかん、そういうふうで、その晩の空気にもなれたいと思って、やっておりました。

あなたの家族は、あなたがずっと入院しておることで、何か文句を言うとか、あるいは、愚痴を言うとかというふうなことはありますか。

あります。

どういうことですか。

「こんなに入院しておって、うちの、もし何か起きた場合に、あんた、笑われたり、そういうことがある。また、子どもが急病になって、誰も病院へ行かんと、子どもが、もし、死んだ場合に、そのあとが、自分、後悔するようなことがあるで、それで、そういうことを、よく確かめてから、行かないかん。」

奥さんとしては、あなたが夜も病院でおるというふうなことで、いろんな、困るというふうなことを言うわけですね。

はい。

入院当時、生活の方は、どういうふうだったですか。先程、奥さんが働きに、すでに、出ていたということですが、それで何とか賄えたわけですか。

いえ、賄えません。それで、もう、自分の親戚で借りたり、そうしてやっておりました。その度に、隣に民生委員がおりまして、「これは、こんなことしておってはあかんで、民生委員で補助もろたらどうや」と相談かけてもらいましたけど、民生委員の内容を聞くと、もし、民生委員もらうと、子どもが、教育費とかそういうものが只になるで、そういうことをすると、子供の形見が狭いしと思って、わしは、やめましたけど。

つまり、民生委員の一が、生活補助の手続きをとってあげるから、それをしたらどうかと言われたということですか。

はい、そうです。

あなたのように、外見からいうと、非常に感情というか、膚もつやがあるし、そういうふうで、病院でごろごろというと語弊がありますが、病院で治療してるというふうなことですと、いろんな人から、いろんなふうに言われたり、思われたりということがあると思いますが、そういうことがありましたか。

ありました。

具体的に話してください。

「お前、そんだけの体しておって、どうして、そんな、病院通いするのや」と言われましたけど、「息をせなきゃ死んでしまうもの、息をしておりゃこんなになってしまうし、ええ空気の時には、なんにも起こりはせやへんけど、ひとつ、ことが起こって、悪くなってきや、本当に、自分が苦しい、死ぬような思いをせんならんでいくのやけど、よう、こんな、えらい病にとりつかれたものや」と行って、笑っておりますけど。

あなたの子どもなんかは、病院にあなたがよく行って泊まって治療を受けていることで何か言うようなことは、ありますか。

やっぱし、子どもとしても、この、病院へ行っておると、夜の家族のだんらんがないので、相当、寂しがります。それで、「また、きょう行くの。」「また、きょう行くの」「また、きょう行くの」と言って、泣きべそをかくような顔をして、いつも、ながめられるので、自分も、大概、足が重たいときがあります。

あなたが見て、そういう喘息症状というのは、昭和40年頃と今と比べて、感じとして、変わっているとか、変わってないとか、どうですか。

病状そのものは変わってませんけど、回数が、ちょっと、自分としても、少しおかしいなと思うと、ついでに、薬で押さえますので、えらい発作がないで、自分も、楽になったと思いますけど。

病状そのものは変わってないけれども、自分の対処方法が機敏になったから、それで、発作の回数とかそういうものは減っているということですか。

はい、そうです。

そうしますと、これは、今後も、そういうことでしょうか。

まあ、おそらく、死ぬまでそうだと思います。ここにおる以上は。

今までに、磯津から出たことは、ありますか。

はい、一回あります。

どこですか。

九州の方へ行ったことがあります。

いつのことですか。

去年の、商売上がってからですから、組合全員で慰安に行ったときに、連れていってもらいました。

旅行に、九州に、去年、行ったということですか。

はい。

それは、どれぐらいの日数ですか。

二晩、泊まって。

外に出ると、体の調子は、どうですか。

それは、いいとこへ行けば、注射も薬もいらんような程度で、そういうふうになりますけど、薬そのものは持っておりますけど、使ったことはありません。

あなたの生まれたところに帰るようなこともあるわけですか。

毎年、正月に帰ります。

それは、どのぐらいの日数ですか。

4日ばかりおります。

向こうへ帰ると、体の具合は、どうですか。

何とも、ありません。

楽だということですか。

はい、楽です。

そうすると、空気のきれいなとこなら、外の方がいいということになるわけですね。

はい、そうです。

磯津から転居しようというふうな考えはないですか。

それは、えらいときは、自分も思いました。だけど、先立つものがないので、おりますけど、それは、向こう、そのようにしてもらえば、それは、磯津を遠のいて、いいところへ行った方が、自分の体としては、いいと思いますが。

転居した方がいいとは思うけれども、経済的な理由で、転居は、できないということですか。

はい。

あなたが現在住んでいる家は、自分の持ち家ですか。

そうです。

こういうふうに訴訟を起こすようになったんですけれども、あなたは、現在、どういう気持ちでおりますか。

訴訟をするときには、自分は、もうこんな体になったし、これからのことを考えて、やりましたけど、小さい子どもや、ああいうもの、えらい苦しんであるので、それは、こんなことしておってもあかん、何か立たんことには勝負にならん。それで、わしらも、立ち上がったわけですけど。